第1話「Lv.1、無職」
目の前のゴブリンは、腐った果物みたいな臭いがした。
そんなこと誰も教えてくれなかった。
宮前蓮、中学三年生、Lv.1。武器はホームセンターで買った単管パイプ、三千円也。スキルはない。天職もない。登録センターの職員に「珍しいですね」と言われたやつだ。珍しい、の意味は察した。
子供くらいの背丈。灰緑色の皮膚。黄色く濁った目。右手には石を削ったような歪なナイフ。
そして、にやりと笑った。
笑うな。笑うな笑うな。
ゴブリンが動いた。速かった。石ナイフが左腕をかすめ、ジャージの袖が裂けた。
痛い。本当に痛い。当たり前だ、刃物だ。でも頭がついてこない。本当に切られた。本当に死ぬかもしれない。
なんで来たんだろう、と思った。一瞬だけ。
いや、わかっていた。ここに来るしかなかった。教室にも家にも、まともな居場所はなかった。弱いままでいるのに、もう飽きていた。
ゴブリンが口の端を吊り上げた。
その顔を見た瞬間、胃の奥がひっくり返った。給食の時間に箸を取り上げたあいつと、同じ顔だった。逃げるなら逃げてみろ、という顔。お前には何もできない、という顔。
握り直した。
ゴブリンが踏み込んだ。僕も前に出た。下がったら、そのままずっと下がる気がしたから。
振った。かわされた。腹を蹴られた。
壁に叩きつけられ、肺の空気が全部抜けた。ゴブリンがゆっくり歩いてくる。急ぐ必要がないとわかっている歩き方だった。そりゃそうか。
ナイフが振り上げられた。目を閉じなかった。
刃が右肩を浅く抉った。その瞬間、足だけが動いた。
頭は何も考えていなかった。体のどこにも勇気なんてなかった。ただ、ここで止まったら終わると思った。
走った。考えていなかった。ただ死にたくなかった。
後ろで足音がした。角を曲がった。滑って転んだ。這って曲がった。足音が消えた。
壁に背中をつけて、息を殺した。
しばらくして、ゴブリンは来なかった。
倒せなかった。逃げた。それだけだった。
でも、足は動いた。
出口が見えたとき、少しだけ膝が笑った。外に出るまで止まる気はしなかった。止まったら、まだ追いつかれる気がした。
自動ドアを抜けて、ようやく足が止まった。
その瞬間、泣いた。
声は出なかった。ただ、急に目から水が出た。止めようとしても止まらなかった。しゃがみこんで、膝に顔を埋めた。肩の傷が痛かった。腕も腹も痛かった。情けなくて、怖くて、息がうまくできなかった。
逃げた、と思った。
何もできなかった、と思った。
惨めだった。怖かった。情けなかった。
でも、単管パイプを捨てられなかった。これを捨てたら、本当に終わる気がした。教室の隅で、何もできなかった自分に戻る気がした。
今日は逃げた。次も逃げるかもしれない。また怖い。
それでも、登録証を捨てる気にはなれなかった。
翌日、百円均一でノートを買った。何を書くかはまだわからなかった。でも、書かないと忘れる気がした。今日のことを。逃げたことも、それでも止まらなかった足のことも。
弱いのはわかってる。ハズレなのもわかってる。
それでも、昨日の僕は逃げただけじゃなかった。
ここから始めるしかない。それだけだ。
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