雨の休日
ファルネーゼの日曜は、いつも雨だ。
お気に入りのピンクの傘をさして、アーシェは女子寮を出た。
空は晴れていて、あたりは明るいのに、結界の中は一定のリズムで雨が降り続いている。一体どういう魔術なのだろうか。これを降らせているのが大公――つまりあのセザールということになるが。
しかし、この風景が美しいのに変わりはない。虹が出ていて、とても綺麗だ。
傘をくるくると回して、アーシェはごきげんに歩いた。
この雨は植物をうるおすだけでなく、ファルネーゼ内の空気をよくする効果もあるらしい。
結界の中には野菜や麦を育てている畑や、放牧地がある。もちろん土地には限りがあり、それだけで大陸各地から集まるファルネーゼの人々を満足させるだけの食事を賄うことはできない。ファルネーゼは東大陸の国々と貿易を行っており、例の荒地を行きかう馬車は、学生の利用が多い時期以外は主に物品を乗せている。ファルネーゼ内で消費される各国の様々な特産品や嗜好品などが持ち込まれ、ファルネーゼからは工房街で製造された魔術具が輸出されているのだ。
簡単なものならともかく、魔術信の着信台のような高度な魔術の知識が必要とされる魔術具はファルネーゼでしか作れないし、複雑なものほど高値がつく。魔術具の需要は年々高まるばかりで、ファルネーゼの財政は潤っており、取り寄せる時間と手間はかかれど、ファルネーゼで手に入らないものはほとんどないのだった。
しかし新鮮が命の野菜などはやはり内部で育てたほうがよいし、いざ鎖国となったり周辺諸国が大飢饉となった時にもしばらく持ちこたえられるよう、長期保存のきくもの以外はファルネーゼ内で一定量を生産するというのが基本方針だそうだ。そのためか実習棟と研究棟に挟まれた並木道なども、植えられているのはすべて果樹だった。
アーシェは図書館の前で足を止めた。
女子寮と男子寮のちょうど中間地点に図書館はある。恋人同士の多いファルネーゼでは、ここがよく待ち合わせの場所になるとか。
アーシェには恋人はいないが、今日は約束があった。少し早く着いたから、まだいないかも――と思ったが、いた。
キースは数人の女子生徒に取り囲まれていた。なにやら話しかけられている様子である。相変わらず、ファンの多いことだ。
「兄さま!」
呼びかけると、キースはすぐアーシェに近づいてきた。
「助かった。なにかよくわからないことを質問されて……おはよう、アーシェ」
「おはよう」
キースは黒い傘をさしていた。
「図書館の入り口は人が多いな。近いからと思ったが、これならはじめから管理棟前で待ち合せればよかった」
「そうね……。次からはそうしましょう。あっちに虹が出ていたのを見た?」
「いや。まだあるか?」
「あると思うけど……管理棟の屋根が邪魔ね。少しだけ寄り道する?」
「ああ」
アーシェは来た道を戻り、キースとしばらく虹を眺めてから、目的地へ向かった。今日の雨はなんだか、いつもより弱く優しく感じた。
二人でわざわざ休みの日に管理棟までやってきたのは、手紙を書くためだ。事務室へ行って申請し、クラスと名前と宛先、目的を用紙に書き込み、料金を支払うと、便箋を渡される。記入室に入ると、すでに幾人か利用者がいた。私語厳禁となっているので、ペンを走らせる音だけがしていて、とても静かだ。
アーシェは、今日はチェルシーに宛てて書くつもりだった。魂の固着について、進展があったことを知らせたいのだが、検閲があるため詳しく書くことはできない。日常の話にまぎれさせながら、かねてからの探し物を一緒にしてくれる人が見つかった、とてもありがたい。希望を感じている。という風に記した。
キースは、ファルネーゼにいる期間が長くなりそうだということ、そのため彼の従騎士であるヘンリーを、誰か他の騎士につかせてほしいという内容が主だという。ヘンリーは王都でずっとキースに仕えていた騎士見習いの少年だが、キースがファルネーゼにいる間はバルフォアの本邸で馬の世話をすることになっていた。しかし期間が数年に渡るとなると、ヘンリーが騎士に昇格する時期が遅れてしまう。早いうちに新しい主を見つけて移れるように手配してほしいと当主である父のユーインに宛て、ヘンリーには詫びとこれまでの感謝をしたためる。――と、言っていたが、難航しているようだ。アーシェがチェルシー宛の手紙を書き終わっても、まだ前髪をくしゃくしゃと乱しながら紙とにらめっこしている。文章をまとめるのが苦手なのも相変わらずのようだ。
アーシェは係官にチェルシー宛ての手紙を提出した。一読の後で判をもらい、渡された封筒に宛名を書く。最後に係官が便箋を封筒に入れ、糊で貼って封緘を押す。
アーシェは一礼して記入室を出ると、ふたたび事務室へ行き、もう一度手続きをしてキースの隣に戻った。キースはアーシェが戻ってくると思わなかったのか、意外そうに見て、それから肩をすくめてまた続きを書き始めた。
アーシェがコリンへの他愛ない手紙を完成させても、キースはまだ手紙を書いていたが、アーシェは今度は彼が終わるのを待って、のんびりと窓の外の雨模様を眺めたり、手紙の端に絵を描いたりした。
係官が途中で交代するほど時間がかかったが、なんとかキースの二通の手紙が仕上がり、二人で遅めの昼食をとるべく食堂へと歩いた。
「ね。面倒だけど、別になにか言われたりはしないでしょう」
中庭を横切りながら、アーシェはキースに感想を求めた。
「思っていたより厳重だった。なにかよほど漏らしてはいけないことでもあるのか」
「ラトカが言っていたけど、十年くらい前まではこんなに厳しくなかったんですって。……やっぱり戦が増えたせいかしら」
「どうだろうな。学生に易々と手に入れられるような機密があるとも思えないが」
「……ユルヴィルが占領されたりはしないわよね?」
アーシェは、立ち止まり、小さく言った。
ヘルムートの言っていた、バチクのことが、胸に刺さっている。
ユルヴィルはアリンガムの隣国であり、好戦的な敵国で、アーシェの幼い頃から、揺るぎない巨国というイメージだった。広大な国土には平野が多く、農業国として栄え、軍馬の飼育も盛んだ。多くの国と接し、大陸の交易の中心地としての一面も持っている。東大陸で一番の大国だ。
それが今、ケルステンに攻め入られている。
アリンガムは長年ユルヴィルとの戦闘を繰り返していたが、常にユルヴィルが侵攻しそれをアリンガムが押し返すという格好だった。近年では大きく反撃し一部の領土を削り取るようなこともあったが、そこから更に攻め入るようなことはしていない。そんなことをすれば泥沼になるのが分かり切っているからだ。体力はユルヴィルの方が上だ。戦が長引けばアリンガムは不利になり、国民が危険にさらされる。
そんなユルヴィルが、ケルステンには圧されている。竜騎兵はやはり強い。とはいえ、ケルステンは実りに乏しい国で、長期戦には向かないだろうと思うのだが。
「わからん。近衛隊では楽観した意見が多かったが、願望が混じっていると見るべきだろうな」
「ユルヴィルが勝つという見立てだった?」
「いや。どちらも大きく疲弊し、長引くだけ長引いて終わるというものだ」
「確かに、アリンガムにとってはそれが望ましいわね」
しかし、万一、ユルヴィルが敗れれば。
ケルステンはユルヴィルの豊かな土地を手に入れることになる。
そして――アリンガムと接することになってしまう。
アーシェは傘を持っている手に力をこめた。
「嫌だわ……。どうしてよその国に攻め込んだりするのかしら。昔は、こんな戦争なんてなかったはずなのに」
雨に濡れた大賢者像を、キースは横目に見た。
「大賢者府がまともに機能していた時代ならな。俺にはおとぎ話としか思えなかったが……クラウディオを見ていると、実際にいたのだということを感じさせられる」
「そうね。……まだどこかにいるのなら、出てきてくれればいいのに」
「それで戦争をはじめた国の王城を消し飛ばすのか?」
ケルステンの王城。それはおそらく、ティアナの生まれ育った場所で。
「……あまりよくはないわね……」
アーシェは苦笑した。
かつて、世界の中心にある島には大賢者がいた。
大賢者はそこで太陽を支えていた。太陽による結界に守られた世界では、大賢者の定めた「絶対綱紀」と呼ばれる法が人々を支配していた。
暗闇から人々を守ってくれる大賢者に逆らう愚かな国は少なかったし、ルールを破った国がたちどころに滅ぼされた後、ますます法は遵守されるようになったという。
世界は平和で、光に満ちていた。結界が綻びはじめるまでは。




