涙
世界でたった一人の、二度と現れないであろう、大公の世継ぎの対。
アーシェが考えている以上に、キースは事態を重く見ていた。けれど、その心配はもっともだった。
無事に学位を得て、じゃあさよなら、なんて、そんな簡単に行くわけがない。
自由を奪われるかもしれない。命を狙われるかもしれない。状況がどう変わるかわからない。
「で、でも……」
退学はできる、とルシアが言っていた。金時計はつけたまま。
逃げるように戻ってそれで、どうなる?
元通りだ。
「でも、このチョーカーは借りものだし、お薬だって、ヴィエーロ先生が毎月作ってくれるの」
悪夢にうなされて、弟に触れられなくなる日を怯えて待つだけの毎日になる。
どんな風に魔力を浪費しているのかも不明のままだ。金時計の、減っていく魔力を眺めて過ごすのか。
諦めて、なにも得られないままで。やっと手に入れたものも手放して。
「過去のこと、まだなにもわかっていない。危険だとしても、戻っても私は、私は何にもなれないままだわ」
大切に守られて、かわいそうにと愛されて。
ひとりでなにもできない。
置き去りにされて、大人になれないままで。
「それに友だちが……友だちができたの。私、一緒に頑張るって約束した……」
できない。このまま戻るなんてできるはずがない。
アーシェは涙をこらえて顔をあげた。
「帰れない。私、私はここにいたいの」
「……そうか」
キースは額に手をあてて、深く息を吐いた。
「それなら、俺もできるだけここに長くいられるようにしよう」
「え?」
「魔術槍だけでなく救護術もいざという時戦場で役立つだろう。無駄にはならないはずだ。コースの編入を申請すれば」
「そ――、そんなのだめよ! 絶対にだめ!」
「だが」
まただ。
どうしてそんなに早く決めてしまうのか。
槍一本ではぐれ飛竜に向かって行ってしまった時のように。
「兄さまには兄さまの仕事があるでしょ? そんなに長いこと騎士団を休んで、戻れなくなったらどうするの!」
騎士になることはずっとキースの夢だったのに。努力して、やっと叶えた夢なのに。
アーシェのせいで寄り道をさせている。
自分がこんな手のかかる従妹でなければ、キースは自由なのに。
もうこれ以上頼ってはいけないのに。
もっと長く、ファルネーゼに残る、なんて。
一瞬でも、そうなれば嬉しいと思ってしまった自分が、本当に嫌だ。
「どうしてそこまでしてくれようとするの? そんな責任、兄さまにはないのに」
「それは」
キースは言葉に詰まったようだった。
「それは俺が、ただ、そうしたいからだ」
「だから、どうしてよ」
「おまえになにかあれば、俺は……俺だけでは。叔父上に合わせる顔がない」
「父さまの、ため……?」
アーシェの目から涙がこぼれた。
「そうではなく」
「そんな、そんなことまで、父さまは責めないし私は! そこまでしてくれなくてもいいって言っているの! 自分でっ、……自分で何とかするから」
精一杯にそう言って、キースに背を向けて寮まで走った。
知っていた。キースが父に深い恩義を感じていることは。
彼は義理堅く、頑固で、どこまでも優しい。
(私、兄さまの荷物にしかなれていない)
「あなたは確か、アーシェさん。門限ギリギリですよ。気をつけてください」
女子寮に入ると、寮監のジャンナに見とがめられた。
「……なにか問題が?」
きっとひどい顔をしていた。
「いえ……大丈夫です」
アーシェは急いで階段をあがったが、すぐに部屋に入ることはためらわれた。手洗いに寄って洗面台で顔を洗う。きっとみんな、心配して待っていてくれるから。
同室の三人には、アーシェの波形をしっかり見られている。
これからの実習でのことがあるので、すべてを伏せて誤魔化すというわけにもいかず、うまい説明も思いつかないまま、アーシェはあるがままの話せる部分だけを話すことにした。
「イメルダ先生が主治医をしている患者の方に、たまたま同じ波形で同じ場所に同じような瑕のある方がいて……一目見てピンときたようで」
「そんなことある?」
とマリーベル。
「いやありえないでしょ」
とルシア。
「私も驚いたのですが、放課後イメルダ先生にその方のところに連れていかれまして。本当に対が組めるかどうかのテストのようなものをして。実際魔力は通ったようです」
「後天性波形異常との対……なるほど……先天性波形異常にそんな使い道が……いやでも重なるかなぁ……?」
ルシアはひたすら首をひねっている。
「なんかわからないけどよかったじゃない。要するに運よくあなたの対が見つかったってことなんでしょ」
マリーベルは祝福してくれた。
「は、はい。実習授業ではその方が来てくださるそうです。ただ……これはレアケースで、発表しない方が良いと」
「なんで? かなりすごい発見じゃないの?」
「その相手の方に事情があるようで、口外しないでくれと」
「それは……」
なにか言いたそうなティアナの手を、アーシェは握った。あとでもうちょっと詳しく話すから、と目配せする。
「なーんかややこしいことに巻き込まれてない? 大丈夫?」
ルシアが頭をかきながら言った。
「巻き込まれてます……でも、対が見つかったのは嬉しいですし、贅沢は言えないかと」
「まあねぇ……。魔力が節約できるのは大きいよね。なにを黙っておけばいいの? 瑕のこと?」
「はい。私の魔力波形は、偽物を貼り出すとのことでした」
「そこまで? ふーん……怪しいわね」
マリーベルも怪訝そうにきれいな形の眉をひそめた。
「絶対にこの波形を知られるな、危ないからと脅されまして……」
「マジでヤバくない??」
「そうみたいなんです。だからお願いします、このことは内密に!」
「いーけどぉ……ほんとに大丈夫?」
「だからそんな落ち込んで帰ってきたの? なにかひどいことされてない?」
「私は大丈夫です。先輩がたを巻き込むわけにはいきません。だから絶対誰にも言わないで……黙っていてください」
ルシアとマリーベルは顔を見合わせ、口々に、いいから自分の心配をしろと励ましてくれた。
優しい人たちに支えられている。
でも、支えてもらうだけではだめだ。自分も返していけるようにならなければ。
強くなりたい。
アーシェは心からそう思った。




