90 ソニアの贈り物⑤
シェイクされ続けて数秒後、ハッと正気を取り戻したエルシィは情けない悲鳴を出す口にチャックをする。
「このッ……! 愚民が!」
『アーク家』である自分が戸籍すら怪しい状態のウィズに無礼を働かれている事実に、エルシィの蹴りが着ぐるみのウィズに炸裂した。
ウィズはともかく、身に纏っている猫の着ぐるみはソニアが見上げるほどには大きい。そんな巨体であるので普通の蹴りではびくともしなかっただろう。
しかしエルシィの蹴りは一般的な威力とは乖離していた。着ぐるみの巨体を不安定な姿勢から繰り出した蹴りで、そのまま巨体を壁に吹っ飛ばす。
「うへぇ……!」
壁に叩きつけられたウィズは情けない悲鳴をあげる。
巨体から解放されたエルシィは優雅に着地すると、早足でソニアのもとへ向かった。
「ソニアちゃん! やっぱりあいつは危ないわ!」
「……いやぁ、今のは……」
ガバっとソニアの両手を握って訴えるエルシィであったが、ソニアはなんとも言えない表情で言葉を濁す。
そんな二人の外で、猫の着ぐるみがのそりと立ち上がった。それを見たエルシィは「ひっ!」と細い声をあげて、着ぐるみの方へ向き直って構える。
「……」
「……」
エルシィと猫の着ぐるみが見合ったまま硬直した。立場的にどうしたら良いのか微妙なソニアは心細い気持ちでそれを見守る。
まるで居合いを見ているようだ。互いに相手の手や隙を観察している。ひょんなことから始まったことだが、いつしか呼吸が重いことにソニアは気づいた。
「っ」
先に動いたのはウィズであった。身をかがめ、足を後ろに引く。それは走る予備動作であった。
それを見たエルシィはソニアの腕をがしっと掴む。
「えっ」
「逃げるわよ!」
あっけらかんとしているソニア。エルシィはそんな彼女にお構いなく床を蹴った。ぐいっと引っ張られて、ソニアも彼女も後に続く。
――刹那、それを追って猫の着ぐるみが走り出した。
気味が悪いほどにぴーんと背筋を正し、左右の先まで伸び切った腕を規律良く振り、謎の気迫で逃げたエルシィ――と巻き込まれたソニア――へ接近する。
凄まじい勢いで逃げるエルシィたちとそれを追う猫の着ぐるみ。ソニアは頑張って走りながらエルシィへ問う。
「な……んで、逃げるんですか……!」
「なんかやばいわ! なんとなくだけどやばい!」
本質が伝わらない回答であった。けれど不気味にエルシィ焦っているのはソニアにも感じ取れて、詳しく聞けないまま質問を切り上げる。
ふと後ろを見てみると、無垢な猫の顔をつけた巨体がすごい迫力で迫ってきていた。なるほどこれは『やばい』かもしれない。ソニアは前へ向き直した。
「……ぁ」
廊下の角を曲がると、その先には見覚えのある人影が。銀の前髪を垂らした長身の優男。
「お兄様ぁぁぁああ!」
珍しくエルシィが咆哮した。その声でエルシィに気づいた優男――アルトは二人の方を見る。
「ははは、珍しいなエルシィが騒ぐなんて――」
アルトが柔らかく笑ったのも束の間、二人の後ろから爆走してくる大きな影に気づいた瞬間、その笑みが凍り付いた。そして顔手で覆うとぼやく。
「やっべ白昼夢……?」
「なんかやばい、気がするの!」
「……」
エルシィが半泣きで叫ぶと、アルトは呼応するように指の隙間から迫る黒い影を見据えた。
駆けていたエルシィとソニアがアルトの位置を追い越す。それとほとんど同時にアルトは腰の剣を抜いた。
「えっ」
ソニアは剣を抜いたアルトを視界の端で認識し、思わず足を止めて振り返った。その視線の先にはやはり見た通り、剣を抜いて構えるアルトの姿があった。
――斬るつもりだ。ソニアは慌てて叫ぶ。
「待ってください! その猫の正体は――」
「言うでない! 斬れば分かる!!」
「斬っちゃダメなんですー!!」
ソニアの抑止も虚しくアルトの剣は斬り上げられた。
空気を斬り刻み、天井をも吹き飛ばした斬撃が猫の巨体に直撃する。そのまま煙を噴いて青空の向こうまで飛んでいってしまった。
「……ヨシ!」
状況はよく分からないという様子だが、吹っ飛ばせて満足したのか、アルトは良い笑顔で拳を握り締める。
エルシィはすでに向こう側まで走り去っており、唯一状況を知っていたソニアは膝から崩れ落ちた。
「ぁ……ウィズ……」
そして割と理不尽にぶっ飛ばされてしまった彼の名前をぼやいたのだった。
――その夜、ボロボロになって帰ってきたウィズを偶然見つけたフィリアにより、エルシィとアルトは正座をさせられ怒られたようである。ちなみに、猫の着ぐるみはアルトの斬撃により無事破壊された。




