エピローグ
3月。季節はもう春だけれど、まだまだ肌寒さが残る頃。
でも今日は朝からぽかぽか日和で、買ったばかりの春コートを羽織って私は家を出た。
どこからか桜の花びらがふわふわと舞い降りてきて、瞬間あの子の幻影を見た気がした。
――あの旅から、そろそろ一年が過ぎようとしている。
今では、あれは全部夢だったのではないかと思う時がある。
でも、あの旅のお蔭で私には新たな夢が出来ていた。その夢に向かって今は勉強の毎日を送っている。
一年前、私はあの世界のことを響ちゃんと両親にだけ話した。
帰ってきてすぐ念のためにと数日入院することになった私の元へお見舞いに来てくれた響ちゃんは、興味津々で私の話を聞いてくれた。
「歌が不吉とされた異世界かぁ。俺も今すぐその世界に行って音楽を広めたいなぁ。あ、でもピアノもないのか。ならまずピアノを作るところから始めないとな!」
くすくすと笑う私を見て、響ちゃんは気遣うように言った。
「でも華音、本当に大丈夫か?」
両親は絶対に信じてくれないと思ったけれど、意外にもすんなりと受け入れてくれた。
「母さんがね、昔そんな話をしてくれたことを思い出したんだ」
そう言ったのはお父さんだ。
「おばあちゃんが?」
「だから、華音の話も信じるよ」
そう言ってお父さんは少し寂しそうに微笑んだ。
「……おばあちゃん、そのときのことなんて言ってた?」
「大切な人たちに出会ったって。でも、ひとつ心残りがあるって言ってたな」
「心残り?」
「一番大切な人に、酷いことをしてしまったんだって」
一番大切な人に……。
「帰って来てくれてありがとう、華音」
「でも華音、あなた本当に大丈夫?」
お父さんとお母さんが心配そうに私を見つめていた。
――あの頃、私はそんなに酷い顔をしていたのだろうか。
「華音!」
「響ちゃん」
駅前の待ち合わせ場所で手を振る響ちゃんの元へ私は駆け寄る。
今日は響ちゃんとの約束の日。
彼は今日私たちの母校である小学校でピアノの演奏会をするそうで、一緒に行かないかと誘ってくれたのだ。私は喜んでOKした。
響ちゃんは音大に通いながら国内外の様々なピアノコンクールで優秀な成績を収めていて、今や知る人ぞ知る有名人。やっぱり私にとって自慢の幼馴染だ。
「響ちゃんの生演奏聴くの久しぶりだなぁ」
小学校への通学路を歩きながら言う。
「そうだっけ?」
「そうだよ。あ、でも、あの世界で……」
言いかけて口を閉じる。
一年が経った今でも、あの時のことを思い出すとちくりと胸が痛む。
悪い思い出ではないはずなのに……。
(皆、元気してるかな)
「華音?」
「え? あ、ごめん。だから今日はすごく楽しみにしてたんだ!」
響ちゃんは笑顔で続ける。
「前にさ、新しい曲が出来たらまた華音に歌って欲しいって言ってただろう?」
「う、うん」
覚えていてくれたんだと嬉しくなる。
「今日はそれも披露したいんだ。歌詞は華音に任せるからさ」
いつもそうだった。響ちゃんが作った曲に私は勝手に歌詞をつけて歌っていたのだ。
「わかった」
私は笑顔で頷いた。
久しぶりに入る母校は何もかもが懐かしかった。
演奏会までまだ時間があるということで、許可をもらって私たちは音楽室に入らせてもらった。
「うわぁ、懐かしい~! こんなだったっけ。机も椅子も小っちゃっ!」
ついはしゃいでいると、ポロロンっとピアノの音が響いた。
響ちゃんが早速グランドピアノの椅子に腰を下ろしていた。
「昔もさ、響ちゃんよくここで弾いてたよね。休み時間とかに」
「で、華音はそれに合わせて歌ってくれてた」
「うん、そうだった」
響ちゃんがあの頃よりもずっと大きくなった手で楽しそうに演奏を始める。どこかで聞いたことのある曲だ。タイトルまではわからないけれど。
「あの頃から俺、華音の歌声が大好きだったからさ、華音が音楽の道に進むって決めてくれてめちゃくちゃ嬉しいんだよね」
指は動かしたまま言った彼に、私は照れながら笑う。
「歌は昔から好きだったけど、ずっと自信がなかったんだ。でも……欲が出ちゃった」
それは、あの旅のお蔭だった。
歌を世界中の子供たちに教えたい。それが私の今の夢。
世界中というと大袈裟かもしれないけれど、その夢のために今私は歌の先生を目指している。
でも勿論簡単になれるものではなくて、だから今は一生懸命勉強中だ。
「欲張りでいいじゃん。華音なら絶対、良い先生になれると思うし」
「ありがとう」
と、そこで曲調が変わったのがわかった。
「この曲?」
「そう。俺の渾身の新曲!」
演奏に力が入る。流石の表現力に鳥肌が立つ。
それはとても叙情的で感動的なバラードで、じんわりと胸に染みわたった。
曲が終わりを迎えて私はパチパチと大きな拍手を送る。
「素敵な曲……どんなイメージで作ったの?」
「んーー、遠い場所にいる大切な人へ贈る歌って感じかな?」
どきりとする。
「そう、なんだ……」
笑顔がぎこちなくなってしまったかもしれない。
響ちゃんはそんな私に訊いた。
「歌詞、すぐに出来そう?」
「……うん。やってみる」
言うと響ちゃんはにっこりと笑った。
(遠い場所にいる大切な人へ……)
もう一度同じ曲が始まって、私は彼の視線を受けて歌い始める。
元気ですか
今どうしていますか
聞きたくても聞けなくて
こちらは大丈夫
元気でやってます
伝えたくても届かない…
忘れようとしても 何度も夢に見る
いつも後悔で終わる夢
あなたとの思い出は 宝物のはずなのに
どうしてこんなにも 苦しいんだろう
会いたいんだ
もう会えないとわかっていても
会いたいんだ
もし願いが叶うなら もう一度
会いたいんだ 大好きなあなたに
「カノン!」
はじかれたように目を開ける。
今、彼の声が聞こえた気がした。
……でも、そんなはずはない。聞こえるはずがない。
こんな歌詞で歌ってしまったから、きっと幻聴が聞こえたのだろう。
一年が経っても、まだ全然ふっきれていないのがわかって、そんな自分に呆れてしまう。――でも。
「カノン!」
もう一度、先ほどよりもはっきりと聞こえた声に私は顔を上げる。
「……ラグ?」
そんなわけないのに、聞こえるはずがないのに、思わずその名を口にしていた。
一度声に出してしまったら、もうダメだった。
「ラグ! ラグ!!」
私は何度も何度もその名を呼ぶ。大切な人の名前を。
思い出になんてしたくなかった、大好きな人の名前を。
――そのとき、信じられないことが起きた。
目の前が急に眩しいほどの光で溢れて、その中に彼の姿があった。
彼が……ラグが、私に向かって手を伸ばす。
「カノン、来い!!」
考えるより先に身体が動いていた。
私はその手をしっかりと掴む。
ぐいと、そのまま強い力で引っ張られて――
「華音、またな」
そんな響ちゃんの満足げな声とピアノの旋律がそこでぷつりと、途切れた。
空気が変わった気がしてゆっくりと目を開けると、そこは誰かの部屋の中だった。
小さなテーブルと椅子と、ベッドと棚しかない閑散とした部屋。
大きな窓からは柔らかな日の光が差し込んでいて。
見上げると、すぐそこに何度も夢に見たあの深い青があった。その額にあの布はなくて、少し違和感があるけれど、彼に間違いなくて。
「ラグ……?」
これが現実かどうか確かめたくて、もう一度その名を呼ぶ。
すると彼の顔が急にくしゃりと歪んで、次の瞬間私は強く抱きしめられていた。
――やっぱり、これは夢なんだろうか。
(なんで私、ラグに抱きしめられてるの……?)
痛いほどの力に戸惑う。
だって彼は、私のことを忘れてしまったはずなのに。
私が、忘れさせてしまったはずなのに。
頭がついていかなくて、理解が出来なくて。
でもその確かな温もりに、勝手にじわりと涙が溢れてくる。
そのとき、彼が小さく私の名を呼んでいることに気付く。
「カノン、カノン……っ」
(ラグ、泣いてる……?)
その背中を優しくさすってあげると、ラグはゆっくりと腕を緩め私を見下ろした。
「――っとに、なんなんだお前は!!」
一年ぶりに怒鳴られてしまった。
でも、その眼にはうっすらと涙が浮かんでいて。
「勝手に記憶消して、勝手に消えやがって。そんで、大好きってなんだよ!」
「ご、ごめん」
「あんなの、忘れられねぇに決まってんだろうが!」
と、そのとき大きなため息が聞こえた。
「折角の感動の再会なのに、なんで君はそうやって怒るかな」
その聞き覚えのある優しい声にびっくりする。
「エルネストさん!?」
彼があの幽霊のような姿でベッド脇に立ち、笑顔でこちらにひらひらと手を振っていた。
「やぁ、カノン。久しぶりだね。また会えて嬉しいよ」
「な、なんで……」
「彼に何度も何度もしつこく呼び出されてね、この一年ずーっと歌の練習に付き合わされていたんだ」
やれやれともう一度溜息を漏らすエルネストさん。
「うるせぇな。お前だって楽しんでたじゃねぇか」
「ラグが、歌を……?」
信じられずにその顔を見上げると、ラグは照れくさそうに視線を逸らした。
「仕方ねぇだろうが。それしか方法がなかったんだ」
エルネストさんがくすくすと笑う。
「そう。彼は記憶を取り戻すために、そして君に会うために、懸命に努力して歌導術を習得したんだ。彼はもう立派なセイレーンだよ」
――ラグが、セイレーン?
「もういいからお前は消えろ」
「先生に対して酷い言いぐさだなぁ。まぁ、仕方ないか。じゃあね、カノン」
もう一度笑顔で手を振って、彼の姿はふっと消えてしまった。
……彼はあのとき、僕の意識はずっと残ると言っていたけれど。
(本当だったんだ)
嬉しいけれど、なんだかちょっと拍子抜けしたような気持ちで彼が今まで立っていた場所を見つめる。
「おい」
「え?」
見上げると不機嫌そうな瞳とぶつかって、ハタと我に返る。
(記憶を取り戻すためにって……)
未だに私は彼の腕の中にいて、急に落ち着かなくなる。
「えっと、じゃあ、私のこと全部……?」
「あぁ、全部思い出した」
全部、ということは。
(もしかしてあの告白も……?)
そういえばさっき、彼は私に何と言っただろう。
――大好きってなんだよ!
「カノン?」
途端どうしようもなく恥ずかしくなって、私は彼の腕から抜け出して距離を取る。
「――あ、あの最後の言葉は、あの場にいたみんなに向けて言った言葉で」
我ながら苦しいと思いながらもそう言うと、ぴくりと彼は片眉を上げた。
「今更んなこと言ったって遅ぇからな」
怖い顔で近づいてくるラグから私は後退る。
が、結局また腕を取られて、つんのめるようにして再び私は彼の腕の中に捕まってしまった。
「オレはもうお前を離す気はないし、帰す気もない」
「~~~!?」
(これ、本当にラグ……?)
私が声にならない悲鳴を上げていると、ふいに彼が私の左手を取った。
――え?
薬指に見覚えのある指輪が通される。
彼と同じ色の石がきらりと瞬いて。
「もう返すのは無しだからな。今度こそちゃんと受け取って欲しい」
驚く私に彼は言う。
「お前が好きだ、カノン」
その言葉に私は大きく目を見開く。
――ラグが私を、好き……?
やっぱりこれは夢なのだろうか?
でも、彼の言葉はまだ続いて。
「もう離れたくない。もう、お前がいないのは嫌なんだ。頼むから、もうオレから離れていかないでくれ……っ」
私の両手を強く握ったまま、懇願するように顔を伏せてしまった彼の声が震えていて。
私はゆっくりと口を開く。
「私、ここにいていいの? だって、私の居場所は」
「お前の居場所はここにあるだろうが!」
その怒るような口調と強い眼差しにどうしようもなく胸が熱くなって、私はその首に飛びついていた。
「ありがとう、ラグ。私も好き。ラグが大好き!」
溢れた想いをそのまま口にする。
もう抑えたりしない。抑えなくていいんだ。
「本当はずっと後悔してて……ずっと、ずっと、会いたかった!」
「……っ」
彼が私をまた強く抱きしめてくれて、その痛いほどの温もりに心がいっぱいに満たされていく。
ここに居ていいんだ。
ここが、私の居場所でいいんだ……!
――と、そんなときだった。
ズズっと鼻をすする音にびっくりしてそちらを見ると。
「うっ、うっ、良かったなぁラグ……っ」
「しかし、少し密着し過ぎではないか?」
「アルさん!? セリーン!?」
そう、部屋の入口に顔を真っ赤にして涙を流すアルさんと半眼になって腕を組むセリーンが立っていた。
セリーンは見慣れたあの傭兵の姿ではなくラフな格好をしていて。
「お前ら、いつから」
ラグが恨めしそうな声で訊いて、セリーンがふんっと鼻を鳴らす。
「エルネストがこのままだとカノンの身が危険だと言うのでな」
「へ?」
「あの野郎……」
ラグが舌打ちをするのが聞こえた。
「カノン、おいで」
両手を広げセリーンが微笑んでいて、私はそんな彼女の胸に飛びこんでいく。
「セリーン! 会いたかった!」
「私もだ。また会えて嬉しいぞ」
セリーンが久しぶりに頭を優しく撫でてくれて心がほっとする。
「セリーンは、あれからどうしてたの? 元気してた?」
「私は今ノーヴァを拠点に活動している。奴がお前をまたこちらに呼ぶために何やら必死になっているからストレッタの近くにいた方がいいと、こいつが言うのでな」
その隣ではアルさんがニコニコしていて、きっとセリーンが近くにいて嬉しいのだろうとこちらも笑みがこぼれた。
「そうだったんだ。他のみんなは?」
「私の知る限りだが、クレドヴァロールの城では正式にユビルスの術士を迎え入れたそうだ」
「そ。だから俺はもうお役御免ってことで、こうしてストレッタに戻ってきたわけ。ドナちゃんを迎えにいくのもあと少しだって殿下張り切ってたぜ」
それを聞いてこの世界の友達の驚いた顔が浮かんだ。
「そっかぁ。リディたちは?」
「ブルーはレーネの街と交易を始めたらしいぞ」
「え!?」
「レーネの街というより、鉱山の連中とだな。あのレーネの石で金儲けというわけだ。グリスノートはあの真相を知っているからな、大分あくどい取引を持ち掛けたんじゃないか? まぁ、自業自得だがな」
「そう、だったんだ……」
思わず顔が引きつってしまった。
と、そんな私を見てセリーンが首を傾げた。
「カノン、少し大人っぽくなったか?」
「え? あ、多分、今日はちょっとお化粧してるからだと思う」
「ほお? なんだ、今日は何か特別な日だったのか?」
「うん、響ちゃんと約束があって」
セリーンの眉が顰められる。
「それは……確か例の昔の男ではなかったか?」
「だから、そういうんじゃなくて。彼の演奏会に誘われてね、一緒に」
「カノンちゃんカノンちゃん、ラグが怖いから今その話はやめた方が」
「え?」
振り向くと、ラグの目が完全に据わっていて私は慌てて両手を振る。
「ち、違うよ!? というか、多分響ちゃんの曲のお蔭で私この世界にまた戻って来れたんだと思うんだ!」
『それは違うな』
突然聞こえてきた声はエルネストさんのものだ。
姿は見えない。不思議と声だけが天から降ってきて、そちらを見上げる。
『君の歌と、彼の歌がお互いの世界を引き寄せたんだ』
「え……?」
私の歌と、ラグの歌が……?
「それって、二人の歌があれば、またいつでもこっちとあっちの行き来が出来るってことか?」
アルさんが手振りを交えながら驚くように言って、私も驚く。
エルネストさんのクスクスという笑い声が響いて、それっきり彼の声は聞こえなくなった。
……そんな都合良くいっていいのだろうか。
(でもそれなら、お母さんやお父さんともまたいつでも会えるし、歌の先生も目指せるけど)
「だーかーら、」
頗る低い声が背後から迫って。
「もう帰す気はねぇって言ってんだろうが!」
「ひぇ!?」
ガバっと後ろから抱きしめられて心臓が飛び上がる。
「ラ、ラグ!?」
そのまま彼は私を引きずるようにしてボスンっとベッドに腰を下ろした。
私はそんな彼の膝の上に座るかたちになって、嫌ではないけれど、皆の前でめちゃくちゃ恥ずかしかった。……小さなラグもいつもこんな気持ちだったのだろうか。
なんとかその腕から出ようとでもがいていると、ラグが不機嫌そうに言う。
「もういいだろ、お前ら早く出てけよ。ここはオレの部屋だっつーの」
「今私たちが出て行ったら貴様カノンに何する気だ」
セリーンがまた半眼になっていた。
(何する気って……!?)
ぼっと顔が熱くなって、私は焦ってラグを見上げる。
「そうだ、ラグ! ブゥは……っ」
そのとき急に視界が遮られて、口を塞がれた。
――!
唇に冷たい感触。ラグの長いまつ毛がすぐ間近にあって、私は目をいっぱいに見開く。
ヒュ~っとアルさんの口笛が聞こえて、それは小さく音を立てて離れていった。
「こういうわけだから、早く出てけって言ってんだよ」
「はっはっはっ、カノンのナイトとして死んでも出ていくわけにはいかなくなったな」
「てめぇはいつまでカノンのナイト気取りだよ。もうこいつにナイトは必要ねぇだろ、オレがいるんだからな」
「今の貴様はカノンにとって危険因子でしかないが?」
あの頃のように、ふたりが私を挟むかたちで言い合いを始めてしまった。
でも私は何もかもがいきなり過ぎて、全身が沸騰しそうなほどに熱くて。
――もう、限界だった。
「わぁーー! カノンちゃん目ぇ回してる!?」
「カノンには刺激が強すぎたんだ馬鹿者! 今すぐ離れんか!」
「だからもう離さねぇって言ってんだろうが!!」
そんなみんなの騒がしい声が聞こえて、私は彼の腕の中、ふわふわとした幸せな気持ちで意識を手放した。
その後私がどうなったかは、神のみぞ……いや、エルネストさんだけが知っている、かもしれない。
END.
長い間応援してくださって本当にありがとうございました!
もしよろしければご感想など頂けたら幸いです。