十六~十八
十六
マグライトを手に晶代は林道を登る。すでに舗装は消え、石ころだらけの地面はパンプスには歩きにくかった。彼と会った後、いったん家にもどって着替えて靴も履き替えてくるんだった。
気ぜわしくライトを木々の合間に振り向けて目を凝らすが、娘の姿はどこにもない。本当にこの上の権現堂にいるのだろうか。こんな山のなかを娘が連れ回されていると思うと、生きた心地がしない。
振り向くと、駐在の姿がない。ハラハラしながら進むうちに置いてきてしまった。というか誘拐事件が起きているというのにのんきにかまえ過ぎていて腹が立った。いや、あれが警察なりの手順なのだろうか。パトカーに残り、無線で連絡を取り合っているのかもしれない。犯人の居場所がはっきりとしないのだし。
そのとき森の奥のほう、緩やかに登山道がつづくずっと先に明かりが見えた。晶代は生い茂る緑の合間に目を凝らし、それを確かめた。
炎だ。
誰かが合図しているんだ。
「芽以ちゃん!」
駐在を待っているひまはない。ごつごつした道をものともせず、晶代はふたたび進みだす。もうほとんど駆けだしていた。息が切れ、胸に重苦しい痛みが走る。あなたはわたしが助ける。絶対にわたしがこの手で。いつしか晶代は汗まみれになりながら、呪文のように唱えはじめる。誰にも渡さない、渡さないから。
森を渡る風がそのとき、かすかな声を運んできた。
悲鳴だ。
娘の。
左手にいつしか現れた剥きだしの岩壁の上からだった。晶代はマグライトでそっちを照らす。夜空がぼんやりと朱色に染まり、煙がたなびいていた。十メートルほどの崖の上に赤い電柱のようなものが見えた。鳥居だ。それが崖の上に立っている。あそこが権現堂か。
「たすけて……」
はっきりと聞こえた。
全身が総毛立ち、晶代はダッシュする。だがすぐに道は行き止まりとなる。
「なんなのよ……」
落雷で倒れた巨木に阻まれているわけではない。左側の岩壁が一気に目の前にせり出し、完全に進めなくなったのだ。
崖を登るしかなかった。
晶代はパンプスを脱いだ。
十七
足首の痛みをこらえて進むと、背後から迫る赤々とした輝きに山頂のようすがぼうっと浮かびあがった。三十メートルほど先で熊笹が途切れ、その向こうには星空が広がっている。山はそこから下っているようだった。その右手に葉がすっかり落ちた巨大な枯れ木があった。幹は直径一メートルほどで、ねじくれた枝が上下左右に奇怪に伸びている。もしかするとあれが権現堂の首吊りのクスノキか。
その向こうで影が揺らいだような気がした。はっとして身構えたとき、助けをもとめる娘の声がそちらから聞こえた。
「たすけて……」
燃え尽きる寸前の松明を手にエイジは、足の痛みなどものともせずに駆けだした。沼のように広がる熊笹のどこかから、あの化け物が飛びだしてくる。その恐怖を押しやり、父親は娘のもとへ急ぐ。だがクスノキのもとに近付いてもやつが現れることはなかった。そうではなく、目の前で枝を広げる枯れ木そのものが怪物だった。エイジは足をとめる。目の高さの幹のところに芽以の顔があった。体は完全にのみこまれている。芽以は苦悶の表情を浮かべ、風のうなりのような声で泣きつづけている。こんなことってあるか。まるで木に食いつかれたみたいじゃないか……と思ったとき、エイジはじっと見下ろされていることに気付いた。
芽以の顔よりも五十センチほど上だった。そこに開いた二つの黒々とした洞穴から見つめられていたのだ。
やつだ。
ヨシオだ。
十八
鳥居のある崖の上まであと三メートルほど。カニように手足を広げ、晶代はひんやりとした岩壁に張りついていた。日中なら恥ずかしくて絶対にできない格好だ。それでも靴を脱いだぶん、足でしっかり踏ん張れるようになっている。ストッキングはもうとっくに破れて足の裏が剥きだしだった。
ただ、ここから先はわずかにオーバーハングとなっている。うまいこと出っ張りを見つけないことには登りつめることができない。かといってスーツのポケットに入れたマグライトを取りだすなんてまねはできない。いま片手を放せば真っ逆さまに落下する。岩の亀裂を手探りで見つけ、指先をのめりこませるしかない。
芽以は泣きつづけている。野犬がうめくような声が風にのって伝わってくる。犯人は何者なのだ。いったいなにを娘にしているのか。余計な想像ばかりが頭をよぎる。クライミングに集中しないと。晶代は頭をそらせ、崖の上を見た。流れる煙がさっきよりも赤く染まっている。山火事だろうか。それが広がる前に助けださなければ。
晶代は筋肉がすでにぱんぱんに張った右手を壁に沿って滑らせ、指先で岩肌を探った。ぼろぼろと崩れかけたり、苔むしていたりする部分をよけ、頑丈そうな膨らみをぎゅっとつかむ。晶代は学生時代から持久力はあったが、筋力はほぼゼロに近い。それなのにいまは全身にアドレナリンが満ち、火事場の馬鹿力のようにここまで登ることができた。しかしそれももう限界だ。インナーマッスルらしき部分に力をこめ、上体を引きあげる。ここから先は慎重に、それでも一気に登りつめないと。
風の合間から足音のようなものが聞こえてきた。犯人に気付かれたか。息を殺し、晶代はようすをうかがう。
「熱い……!」
それまでとはちがう悲鳴を聞きつけるや、母親の体にふたたびアドレナリンが満ちた。




