十三~十五
十三
いま明かりが切れたら真っ暗闇になる。
スマホをポケットに突っこみ、エイジは懐中電灯で斜面を照らしながら登山道というより獣道といったほうが良さそうな小径を見つけながら進む。おそらく権現堂は山頂だろう。ホテルの窓から見たとき、山はさほど高くはなかった。せいぜい四百メートルぐらいだ。それならなんとか登りきることができる。
途中、何度も斜面からずり落ち、あやうく懐中電灯を手放しそうになった。もう獣道だかどうだかも判然としなくなり、まさに闇雲に登っているだけのような気がした。しかしこの間にも芽以がどんな目に遭っているかを思うと、小枝や石ころで手足や顔を切り、出血しながらも足を動かさないわけにいかなかった。
やや斜面がなだらかになり、たしかに人が通れる小径のようなものが延びている場所にたどり着いたとき、風に乗ってうめくような声がした。
芽以だ。
そう遠くない。
エイジは腰をかがめ、慎重にあたりに光の環を投げかける。緩やかに右にカーブしながら斜面を登る小径のずっと奥、エイジのいる場所から三十メートルほど離れたところで、小径の地面が上下に揺らいでいるのが見えた。目の錯覚かと思ったが、まるで地中で巨大な土蜘蛛が蠢いているかのように、それは確かにこんもりと地面から盛りあがり、静かに波打っていた。
その左右に真っ白い筋状のものが二つ、白蛇のように現れた。いったいなんなのか。光を反射している。
本能的に思考が停止した。でないとあまりの衝撃に気絶してしまう。体の自衛機能が働いたのだ。しかしそれがなんであるかすぐにエイジは理解した。人間の脚、それも左右の太ももだ。それを割り開こうと地面の一部がのしかかっているのだ。
「イヤッ……」
声がした瞬間、エイジは飛びだした。あと数メートルというところで、地面の一部と思われたものが、それとは異質ななにかであると気付いた。このあたりの土地に特有の赤茶けた土というより、磨きあげた丸太のようだった。そのイメージが頭で像を結んだ瞬間、遊技場の喧騒がよみがえった。額から血を流しながらこちらをにらみ返してきた。あの部屋の前にもやって来てドアを執拗に殴りつけ、かと思えば、音もなく宿の玄関に侵入して父娘のようすをじっとうかがっていた。
あの木偶だ。
それが芽以の体にのしかかっている。あのときよりもはるかに巨大化し、娘とおなじぐらいの身長となっている。まるで人間だ。左右に広げた両手を地面につき、つるつるした表面の内側で荒っぽく成長した筋肉が悔しいぐらいしなやかに収縮しているのも見てとれる。的当て屋で人形を持たされたときの気色の悪い柔らかな感触が手に走ったが、逡巡している場合でない。
エイジは理解不能な存在の背中に飛びつき、芽以の体から引き離した。芽以は下半身になにもつけていなかった。太ももに血が流れている。父親の怒りは絶頂に達した。
「この死にぞこないめ!」
芽以を背後に守りながら、懐中電灯の光を振り向ける。
すべすべした木肌と屈強な筋肉が混じり合った怪物だった。身長は伸びつづけ、もはやエイジよりも大きい。頭上からのぞきこまれるようだった。左右に広げた腕は巨木の枝さながらに太く、ふんどし姿でレスラーのように身構えている。だがそのまなざしは、鉄球を投げつけて傷つけたときと変わらず、穏やかでどこか自分の運命を達観しているかのようだった。
宙を舞うようにそれはエイジに襲いかかってきた。応戦しているひまはない。それほどに敏捷で、あっという間にこんどはエイジ自身が組み敷かれていた。恐ろしいほどの重量だった。それを押し返そうとやつの体に両手が触れる。氷のように冷たく硬い感触にエイジはさっと手を引っこめる。肉が腐敗しきったような腐臭が鼻を突き、思わず顔をのけぞらせた瞬間、明かりが消えた。
完璧な闇にのまれ、どこかべつの世界に引きずりこまれるような恐怖に襲われる。エイジは両手を振り回し、まさに丸太さながらの相手の頭や体に攻撃をくわえるが、向こうはびくともしない。そしてさらに重みが増してくる。このまま圧死してしまいそうだった。
「芽以……逃げる……んだ!」それだけ叫ぶのが精いっぱいだった。肺が押しつぶされ、なかの空気がすべて抜けてしまった。
「パパ!」
声は近い。ダメだ。逃げるんだ……そう思ったとき、首筋に激痛が走る。阿弥陀如来さながらの表情からは想像もつかぬ凶暴さをむきだしにして、ヨシオが食らいついてきたのだ。母親を弄ばれた怨念をこめて。
もう限界だ……そう思ったとき、両手が自然と相手の顔をかきむしっていた。片方の指先がちょうど化け物の額をとらえた。ぬるりとするものが感じられる。わずかに指先に力をくわえてみると、相手の体がびくんと震えるのがわかった。こんどはもっと力をくわえ、爪を立ててみた。数時間前、エイジ自身が投げた鉄球でできた傷がそこにあったのだ。傷だらけのやつの人生のなかで最も新しい生傷だった。
さらなる腐臭を撒き散らし、ヨシオはエイジから飛び去った。エイジもそのすきを逃さず、力いっぱい左に転がった。ところが場所が悪かった。五十センチも転がらぬうちに崖となった。エイジは二メートルほど一気に転落し、右の足首がありえない方向にねじれ、白い光のような激痛が走る。
「イヤッ! パパ……たすけて……!」
芽以の悲鳴が聞こえ、それがみるみる遠ざかっていく。逃がすもんか。痛みをこらえ、エイジは闇のなかで崖に飛びついた。
十四
テーマパークなんてどこにもない。
あるのは打ち捨てられて何十年も過ぎた廃墟だけだった。そこをのろのろとパトカーが進む。もはやサイレンは静まり、回転灯だけが崩れかけの団地やかつての商店街とおぼしき家並みに赤い光を弱々しく振りまいていた。
「吊り橋はこの先さね。けれどもう渡れんから、こっちを回ろうと思うさね」駐在は大きなコンクリート壁の手前を右折した。壁には「的場レーン」とあった。その先にはかろうじて車一台が渡れる幅の橋がかかっていた。こっちは脆弱な吊り橋なんかではない。
「山の裏から林道がてっぺんまで延びとってな。登山道のゴールは山頂の権現堂さね。それならこっちから行ったほうが早いさね」
それは理にかなった判断だった。晶代はしたがうほかなかった。だが林道に入って五分もたたぬうちに駐在は車をとめた。
「やっぱりさね。林務事務所の連中も最近は入っとらんさね」ヘッドライトが照らしだしていたのは、いつ倒れたとも知れぬ巨木の幹だった。それが道を完全にふさいでいる。「あとは歩くしかないさね。このまま道沿いに進めば権現堂さね。あと十分ぐらいかねえ。でもあんた、どうするかね。見てのとおり、山は真っ暗だ。朝になるのを待ってから捜索を再開するのも手かもしれんさね。そのうち応援も到着するさね」
「行きます。わたし一人でも」
「そうかね。けどなあ、この山はあんたらにとって、かならずしも味方してくれるとはかぎらんさね。そういうときは、なりゆきにまかせるほかないかもしれんよ」
「なりゆきって……冗談じゃないですよ。わたしの子どもなんですよ、誘拐されてるの。懐中電灯かなにかありますか」
「ライトならあんたのぶんもあるさね」駐在はコンソールボックスから小型のマグライトを取りだし、晶代に手渡す。
晶代は後部座席から飛びだした。夏の宵にしてはひんやりとしていた。
十五
まさか折れたのだろうか。足首の激痛をこらえ、エイジは崖をよじ登る。頭上からこぼれ落ちる土くれや石ころが頭に容赦なく降りかかる。それにむせ返りながらも耳を澄ます。だがもう声は聞こえない。
ようやく崖の上まで上がったときには、闇のなかで方向感覚が失われている。森の葉擦れが嵐のように襲いかかってくる。まるで外洋に放りだされ、大波に翻弄されているかのようだ。小径を覆う下草を手探りするが、懐中電灯もスマホも見つからない。そうだ。エイジは短パンのポケットに手を入れ、ライターを取りだした。
揺らめく小さな炎があたりを照らす。だがぐるりと見回しても落とし物は見あたらない。指先が熱くなり、いったん炎をし、反対の手に持ちかえて火をつける。しかしガスがほとんど残っていない。これだけを光源にして進むのは限界があった。だが前進しないわけにいかない。
考えているひまはなかった。エイジは下草に火を放った。めらめらと炎があがり、たちまちあたりが明るくなる。落ちている小枝を何本か束ね、その先に着火して即席の松明を作る。それであたりを照らし、小径が延びている方角を確かめてから進みだす。途中、あちこちの下草に火を放ち、すこしずつ闇を切り拓いていく。しばらく雨が降っていないらしい。パチパチという音とともに赤々とした光の世界が広がっていく。
足を引きずりながら一歩ずつ道を進み、途中で拾った小枝をさらに束ね、つぎなる松明として火を移す。
「芽以! いま行くからな!」
獣道のような小径は平坦になったが、左右から背の高い熊笹が迫ってくる。それをかき分け、右に左に曲がりながら五十メートルほど進んだところで、熊笹がひざ丈ぐらいまで低くなり、周囲が見渡せるようになった。
山頂のようだった。
自ら放った火の手が背後で広がりつつあったが、それでもまだ暗く、やつがどこに潜んでいるか見つけられない。エイジは逡巡することなく、足もとの熊笹に火を放っていった。




