16 夢の中(3)
第二局は飛香落ち。
落とされる駒は飛車の他に、上手から見て左側の香を落とす事になる。
角がある方の香である。
当然ながら下手はその弱点に狙いをつける。
互いに角道を開けるオーソドックスな出だしから、上手は△4四歩と角の交換を拒否してくる。
そこで▲1六歩と端歩を突くのが飛香落ち定跡となる。
香がない以上、上手は端歩を受ける事が出来ない。
そして端歩の交換が出来れば、こちらはいつでも▲1二歩と垂らす手筋がある。
常にこの手筋がある事を見せて、上手の角を縛っていくのが基本戦略となる。
そうやって縛りつつ、『右四間飛車』で無理やり角道をこじ開ける。
たとえばこんなふうになるのが理想だ。
ここから△同歩 ▲3三角成 △同桂まで行けば恐らく負けはない。
飛香落ちは少しマニアックな手合いだ。
これを本気で研究した棋士なんてそうそういないだろう。
アマチュアで言えば俺ぐらいだ。
さすがにこれを負ける訳にはいかない。
「──そういえば昔、異様に駒落ちが得意なプロがいたね」
パチパチと定跡通りに進めながら、神もどきは言った。
「あの坊さんの事か」
こいつが言っているのは、恐らく『荒法師』の異名を取ったあの棋士であろう。
異名の由来は、僧侶として得度していたからだが、飲む打つ買うの破戒僧であったというのも有名な話だ。
もっとも本人の名誉のために言っておくと、彼は愛妻家で、妻が病に倒れてからは死に物狂いの看病を続けて、とうとう自分自身も病に冒されて亡くなっている。
もちろん、俺が心から尊敬する棋士の一人だ。
アマ四段を相手に四枚落ちの三面指しを行い、全勝したとか。
アマ初段が相手なら八枚落ちで勝てると豪語したとか。
伝説や逸話には事欠かない名棋士である。
さすがに初段相手に八枚落ちは盛り過ぎな気がするけど。
「君はその人に似ている。戦い方がそっくりだ」
「それは大変光栄ですね」
まぁ、俺の場合、駒を落とされているんだけどな。
それで何がわかるというのか。
「私はね、将棋を愛する人間の夢に現れるんだ。だからほとんどのプロ棋士と戦った事がある。その私が言うんだから間違いないよ」
「そんな馬鹿な。だったらあなたの存在はもっと知られてるはずじゃないか。そんな話聞いた事がないぞ」
「この夢の事はみんな忘れてしまうんだよ。だから噂になったりはしないんだ」
ふーん、としか言えない。
真偽を確かめる術がない以上、なんとも言えん。
「──さぁ、もう中盤戦だ。気を引き締めようか」
自分から振った癖に勝手な奴だ。
さて、肝心の盤面だが、現在の形勢はほとんど互角。
前述した定跡通りにはやはり進まず、右四間には組ませて貰えなかった。
俺から見て右辺での戦いが起きる前にこちらの玉頭、左辺をうるさく攻め立てられていた。
こちらは腰掛銀に組んでたというのに、無理やり銀交換をさせられた挙句、すぐさま銀の打ち込みで角頭や玉頭を狙ってきたのだ。
せっかく交換した銀を即座に中段に打ち込むとか、こんなのは無理もいいトコなんだが、これがやけにうるさくて、あまりにもしつこい。
まるでハエみたいな銀じゃないか、と顔をしかめてしまう。
仮に無視して予定通り右辺を攻めたとして、この影響はどの程度になる?
脳内将棋盤の上で、駒が高速乱舞する。
口の中で、舌が揺れていた。
やがて出た結論は、無視できない、というもの。
はぁ、とため息が出る。
こんなクソみたいな銀の面倒を見なきゃならんのか。
パチリ、と玉をかわすように中央に寄せる。
ビビり過ぎか?
玉形を乱すほどの事か?
頭に浮かぶ疑念を振り払う。
いや、これでいい。
無理な攻めは徹底的に切らす方針は間違ってない。
それよりも攻め急いで失敗する方が怖い。
「ふぅん。飛車のない相手に臆病だね」
なんとでも言え。
最後に勝つのは俺だ。
「じゃあせっかくの手番だから、こちらから攻めようかな」
すっと、擦るようにして自らの玉頭を薄くする一手。
玉頭の歩を突き出してきた。
「──っ!?」
こんな手があるのか。
この歩といい先の銀といい、少しばかり大胆が過ぎやしないか。
玉頭戦はカウンターの宝庫だぞ。
「君の好きな誤魔化しってやつさ。不利な時は戦線拡大ってね」
こちらの思考を読んだみたいに言う。
そういう能力でもあるのか。
だとしたらずるくないか、それ。
「ああ。大丈夫だよ。思考は読めるけど、将棋の手に関しては読めないようになっている。勝負はフェアじゃなきゃつまらないからね」
そうかい。
それならいいんだが。
まぁ、読まれていたとしても俺の指し手が変わるわけではない。
やれるだけの事をやるだけだ。
こいつは飄々としているが、この態度はブラフだろう。
内心はノミの心臓を今にも破裂させそうにしてるのだ。
そうじゃなきゃ、こんな手は指せない。
そう信じて、十数手の応酬を重ねる。
そこまで指して、ようやくこいつの狙いが見えてきた。
「そういうことか……」
こいつが仕掛けて来た玉頭戦。
逆襲の手が見つからない。
本来なら持ち駒にあるはずのものが、無いから。
──香車が無いんだ。
当たり前だ。
これは飛香落ちの戦い。
本来ならあるはず香車は、絶対に手に入らない。
あのうるさかったハエみたいな銀は、今やこちらの玉を圧迫しつつ、自玉を守る要となっている。
香の一本でひっくり返る戦いが、覆せない。
これは、どっちだ?
右辺の戦いもサボっていたわけではない。
こちらの飛車先は突破できる形にはなっている。
飛車は成りこめるが、どっちが早いんだ?
こちらが圧し潰されるのが先か。
それとも俺の龍が、敵玉を背後から穿つのが先か。
胃袋が裏返ったような心地だった。
頭が嫌な冷め方をして、うっすらと汗が滲む。
冷や汗ってやつか。
ちらりと、上目遣いで神もどきを窺う。
リオンの顔をしたそいつは、目を見開いて食い入るように盤面を覗き込んでいた。
──おまえも苦しいのか。
そう思った瞬間、はっと顔を上げる神もどき。
いいぞ。
化けの皮が剥がれてきた。
リオンの顔が少しおかしい。
こいつの中の何かが、維持できなくなってきている。
「──本当に駒落ちが強い。これは飛香落ちがボーダーラインですかね」
「はっ、二枚落ちなんかで指してたまるかよ」
もはや言葉遣いに遠慮がなくなっていた。
どうせ心が読まれるなら、取り繕う必要なんてないからな。
「この局面はもう勝負がついてるはずです。わかりますか?」
「さあ。全然わからん」
「そうですね。私にもわかりません」
「将棋の神が聞いて呆れるじゃないか」
「将棋の神ではありますが、将棋そのものではありませんので」
よくわからんが、なんか深い言葉だなと思った。
やっぱりこいつは、神というには人間臭すぎる。
「大体、全部読み切れていたら、そんなゲームつまらないでしょう? 先手と後手が決まった瞬間に勝負が決まるなら、じゃんけんと何ら変わらない」
それには同意する。
しかしよく考えれば不思議なものだ。
解明されたら困るのに、それでも人は解き明かす事をやめない。
将棋というものの死が迫れば迫るほど、このゲームは面白くなっていく。
バナナは腐りかけが美味い、はちょっと違うか。
「──では、決着をつけましょうか。終盤戦の始まりですね」
ピシィっと、一際高く駒音が鳴った。




