14 夢の中(1)
翌日。
風邪が悪化した。
目が覚めるなり、ひどい気怠さが全身を覆っていた。
寒気がして喉が痛い。
関節が痛い。
頭がぼうっとしてフラフラする。
何とかして身体を起こすと、俺は婆さんを呼んでいた。
「婆さん、おーい、婆さんって。なんか薬ないか」
ベッドから降りようとして、はっと気が付く。
なんでベッドで寝てるんだ?
俺の布団はどうした?
それにこの部屋、なんで畳じゃないんだ。
ここは、どこだ?
戸惑っていると、どたどたと音がして、綺麗な巨乳のねーちゃんが現れる。
しかも金髪で青い目をした外人さんときたもんだ。
「××××××××××××××」
(どうしたのラウル?)
日本語じゃなかった。
だけどなぜか、言ってる意味は理解できた。
「×××××××××××××××××××××××××××××××××××××××」
(あらあなた、風邪を引いたのね。今日は安静にしてなさい)
外人のねーちゃんは、起き上がった俺の肩を優しく掴むと、そのままベッドに寝かしつけた。
俺は頭に?マークを浮かべながらも、そのまま意識を失ってしまった。
次に目が覚めると、そこは和室だった。
だがここも俺は知らない。
そもそもこれは部屋なのか。
見渡す限りの畳張り。
畳で水平線が出来るのを俺は初めて見た。
畳の他には何も。
いや。
目の前に将棋盤があった。
気が付けば座布団に座っている。
俺は正座していた。
──ここは?
疑問を口にしようとした瞬間。
ふわっと。
スーツを着た男が舞うようにして、盤を挟んだ向かいに現れた。
あなたは──。
おお。
嘘だろう。
そこにいたのは、俺が最も敬愛してやまない棋士の姿だった。
紺色のスーツを品良く着こなした、ダンディズム溢れる眼鏡の男。
自分よりも20ほど若い男である
だが彼の存在は俺に将棋を取り戻させてくれた。
再び将棋を指す勇気をくれたのが彼だった。
小学生に敗れて、夢を見失った16歳のあの日から。
俺は約20年、将棋を指さなかった。
いや、指せなかった。
駒を持つ勇気が出なかった。
将棋を憎いとさえ思った日もある。
だが。
新聞でたまたま見た彼の一手が、そんな日々をぶっ壊した。
1983年王位戦挑戦者決定リーグ。
先手の中飛車と後手の居飛車という出だしで始まった対局。
彼は後手番だった。
その終盤に放たれた△4三角不成。
この一手に俺は胸を打たれた。
完全に痺れてしまった。
将棋には『打ち歩詰め』という反則がある。
持ち駒の歩を打って敵玉を詰ましてはならないという、ちょっと不思議なルールだ。
詰将棋の世界では、このルールを利用した作為の物も数多い。
成ってしまうと『打ち歩詰め』になるから、あえて不成を選択しなければならないという工夫だ。
大駒は絶対に成った方が得という心理を、逆手に取った作為となる。
だが実戦において大駒の不成が出ることなんて、滅多にある事ではない。
ましてやそれが、31手詰めという長手数の詰みに現れるなど、いったい誰が読み切れるというのか。
だが読み切った奴がいるからこそ。
△4三角不成は生まれた。
あの衝撃は忘れられない。
俺が想像する『天才』という概念のその先に、この一手があった。
世の中には天才を超える怪物がいる事をこれで知った。
夢が破れたなんて、悩んでいた自分が馬鹿らしくなる。
絶望のその先に、やけくそみたいな希望が落ちていたんだ。
世の中、なんだって楽しんだもん勝ち。
将棋に罪はない。
心からそう思えたんだ。
それ以来俺は、この人の大ファンになった。
彼の本はすべて買ったし。
どんなイベントでも彼が出るとあれば、必ず参加した。
もっとも、彼が将棋界で大活躍をしたそのすぐ後に。
彼以上の怪物が現れて、その活躍は少し薄れてしまうんだけど。
「ラウルくん。一局指してみないか」
憧れの天才棋士はそう言った。
ラウル。
それが自分の名前である事を、この瞬間に思い出した。
「そ、そんな、畏れ多いですよ」
俺の声は上ずっていた。
今の俺はアイドルを前にした少年少女と何ら変わらない。
「ふむ。私の姿が対局の妨げになるか。──では、これならどうかね」
ブヴン、と奇妙な音がして、彼の姿が変化する。
次に現れたのは破壊神ハーヴ、もとい、鬼畜眼鏡である。
「私の姿は、君が考える最も強い棋士に変化する。これは君の中で二番目の男だ」
「そ、それも物凄く畏れ多いんですが──」
「ではこれがいいか? それともこれか? これならどうだ?」
そう言ってぽんぽん姿を変えていく。
どれもこれも憧れの存在ばかりで、目が回りそうになる。
「プロは勘弁して下さい。嬉しすぎて逆に死にそう……」
「じゃあ、これなら文句あるまい」
最終的に出てきたのは、なんとリオンの姿だった。
ああ、これならやりやすい。
「あの、あなたは一体何者なんでしょうか?」
ここに至ってようやく、当然の疑問を口にしていた。
「私は将棋の神だ。そしてここはおまえの夢の中。気楽に構えたらいい」
リオンの姿でそんな事を言われると、なんだかとても奇妙だった。
だがそうか。
これは夢か。
まぁそうだろうな。
我ながら変な夢を見るものだ。
「では一番手直りの飛車落ちからにしようか」
そう言ってリオンの皮をかぶった将棋の神は、自分の飛車を落とした。
一番手直りとは、一局指すたびに駒落ちハンデを改めるという意味だ。
俺が勝てば次局は角落ちになり、神が勝てば次局は飛香落ちとなる。
自分が駒落ちの下手なんて何年振りだろうか。
だからつい──。
「え、平手じゃないんですか?」
そんな事を言ってしまった。
飛車落ちなら、俺はトッププロにも勝つ自信がある。
駒落ちだけは異常に強かったから。
「神を相手になかなか不遜じゃないか」
リオンの顔で、にたりと笑う。
「だが手直りだ。平手で指したければ勝てばいいだけの事。かかって来なさい」
そう言われて、俺の闘志はかっと燃え上がった。
リオンの顔で言われると、ちょっとむかつく。
「わかりました。それでは。──よろしくお願いします」
「うむ。よろしくお願いします」
お互いに頭を下げる。
さすが神。
格下相手でも礼儀正しい。
ラウルくんの前世での生年月日は、1940年代になります。




