第10章 沈みの林
翌朝。
アルマとリーネは正規階層に向かうべく、スライム水田西方の森の中を進行していた。エリアスは例のごとく、二人の後に付き従っていた。
そして今日は、リーネの抱える両手の中にスーが収まっている。一晩を通じて、すっかりリーネに懐いたようだった。
アルマはそんな少女の様子を気まずげに窺っていた。
「リーネ……。昨夜はよく眠れた?」
「…………」
隣を歩く少女に声をかけるも、無視されてしまった。昨日は思い切って、親切心を働かせたつもりだったが、完全に悪手だったらしい。
「なあ、昨日は悪かったよ。なんというか、ほら、汗の匂いの中にもフローラルな香りがあってなかなか……」
「——ふんっ」
リーネはぷいっとそっぽを向く。
機嫌を直してくれそうになく、アルマは大きなため息を漏らす。
そんな青年をよそに、少女が突然、くすくすと忍び笑いを漏らした。
「ふふふ……。ごめんごめん、アルマ。もうさすがに怒ってないよ」
「……なっ!? 演技だったのか……」
アルマの反応に、今度こそリーネが声を出した笑った。
ひとしきり笑った後、リーネは涙目を拭いながら言葉を付け加えた。
「……でも、女の子に向かって汗臭いは、ちょっとデリカシーに欠けるよ。今度は、それとなく言ってね」
「ああ……。そうするよ……」
そんなやりとりの後、少女は真剣味を帯びた表情になって、アルマに尋ねる。
「気になってたんだけど、わたしたちって8層から降りて、こっちに来たんだよね? どうやって、8層に戻れるの?」
「いや、8層には直接こっちから帰れないんだ。あのゲートは一方通行だからね。だけど正規階層への帰還用のゲートも見つけてあるんだ」
「そっか……」
リーネは何事かを思案しているようで、それ以降口を閉ざした。
アルマには、彼女の考えがうっすらとわかる気がした。迷宮の本筋から外れ、特殊なゲートで繋がる”ここ”はどういった意味のある場所なのだろうか、と。
それは、彼も日頃考えさせられる謎の一つだった。
もしかしたら、意味などないのかもしれない。何せここは、謎に満ち満ちた大迷宮なのだから——。
森の中を西へ西へと歩くに連れ、徐々に水音が二人の耳に届き始める。
それは最初、小さな音だった。
それでも、目的地に近づくにつれて、水音は次第に大きくなり、いまや耳を聾する轟音があたりに満ちていた。
「川……?」
リーネがポツリとつぶやいた。
アルマはあえてその呟きには答えず、先行して最後の木立を抜ける。
続いてリーネが彼の隣に並んだ。
「わぁ……。大きな滝……」
少女の驚嘆の声はしかし、眼前の瀑布に危うくかき消されかける。
アルマにしても、目の前の光景は何度見ても圧倒された。
森を抜けると、視線の右から左まで広がる大河が広がっていた。そして大河に沿うように天高く崖がそそり立ち、崖の表面は膨大な水流に覆われているのだった。
「門はこの滝にあるんだ」
アルマは声をやや張り上げて言う。そうしなければ、声が聞こえない位置に二人は来ていたからだ。
アルマたちは、河沿いを歩き、いまや滝壺を直下に眺める崖道に到着した。そして、瀑布を正面に見据えながら、崖道を歩き続けると、やがて——。
左手に瀑布のカーテン、右手を断崖に阻まれる通路に行き当たった。
「す、すごい……! 滝の裏を歩いてるよ!」
リーネが驚嘆の声と共に、視線をあちこちに向けている。一方で、轟音に取り囲まれビクビクと怯えているスー。対照的な一人と一匹の様子が、アルマはどこかおもしろく、一人笑みを浮かべた。
滝裏の通路をある程度進んだところで、アルマは足を止めた。
そして、右手——断崖の岩肌に向き直る。そこに、ぽっかりと穴が空き、洞穴となって奥へと続いていた。
リーネがアルマのそばに寄ってきて、洞穴を覗き込む。
「だいぶ先に続いてるみたいだね……。ここを通るの?」
「ああ。ここが正規階層へと通じる門さ」
その言葉とともに、一行はゲートを潜り抜け、正規階層に舞い戻った。
◇ ◇ ◇ ◇
あの強い光が目を眩ませ、時間が経つにつれて、視界が明瞭になり始める。
しかし、先に強い感覚を引き寄せたのは視覚ではなく、聴覚だった。
周囲に満ちる、圧倒的な生命の気配。
それも十や百ではない。
文字通り、数えきれない生命の音が、耳を刺激する。
カサカサと草を食む音。争い、硬い甲殻を叩きつけ合うような軋んだ音。そして、苛立ちすら募らせる耳ざわりな羽音。
迷宮第6層【さざめく茂み】——2層から5層の洞窟系階層と、7層から10層の森林系階層のちょうど中間に位置し、ダンジョンの様相がここを境にガラッと変わる——そういう場所に、アルマとリーネは降り立った。
聴覚に続く形で、アルマの視覚が情報を捉える。
はっきり言って、この階層は雑多と言えた。背の高い草の茂みが密集する地相を中心に、まばらに生える高木や低木。あるいは、藻が繁殖した池もあちこちに点在している。
——ここは、虫系魔物の一大生息フロアだった。
「なんだか、すごいとこだね……」
「リーネは虫の魔物は平気なのか?」
リーネが周囲の様子に嫌がるそぶりを見せなかったので、アルマはそう尋ねた。てっきり、少女はこの階層に不快感を示すものと思っていたのだ。
「全然。虫さんは故郷にたくさんいたから慣れっこだよ」
「……それはよかった」
常々感じていたが、この少女、あまりにも強かすぎないか……。
アルマがそんなことを考えていると、リーネはローブのフードを真深に被っていた。ダークエルフに特徴的な尖った耳が、フードの中に隠される。
「ふー……。どっちかって言うと、こっちではまだ冒険者の方が怖いかな……」
「……そうか。本当に怖くなったら、エリアスの中に隠れるといい。君ごと迷彩で隠してくれる……」
「へぇ……。エリアスさん、そんなことまで」
なんとかリーネを安心させたものの、アルマは胸の痛みを感じずにはいられなかった。
目的はたかが、マンドラゴラの種拾い。アルマは正規階層に戻ることに対して、せいぜいピクニック気分のつもりだった。
しかし、リーネにとってはそうではないのだ。ここは、彼女を平気で生け捕りにしようとする者たちがうろつく場所なのだ。
アルマはそのことを、すっかり失念していた。
せめて、リーネに危害が及ばないよう、細心の注意を払おうと心に決めるアルマ。
すると辺りを観察していたリーネが、不審そうな顔で言った。
「あれ? でも、見た感じ冒険者のひとはいないみたいだね」
「そういえば、確かに……」
6層といえば駆け出し冒険者にとって絶好の狩場のはずで、こんなにも人の姿が見当たらないというのは、なかなか珍しい。
そして、そんな状況に至る原因に、アルマは思い当たる節があった。
「そうか……もうすぐ10層の階層ボスが復活するんだ。となると、今ごろ9層で大規模キャンプが始まった頃合いか」
「ど、どういうこと?」
「10層の迷宮ボスは、冒険者にとって最初の関門って言われててね。狩場として最も大規模な9層に、駆け出し冒険者がこぞって集まるんだ……。彼らはそこで何日も修行をする。来るボスの復活の日に備えてね」
アルマは人伝に聞いた話を要約して説明した。リーネも得心がいったらしく、心なしか先ほどよりも警戒を弱めたようだった。
そしてアルマらは、行動を開始することにした。目指す先は、マンドラゴラの住処——迷宮7層【沈みの林】だ。
魔物との戦闘は極力避ける方針で、一行は時に迷彩化したエリアスに身を隠しながら、先を進む。
とはいえ、明らかに格上のエリアスに対して、上層の魔物が襲いかかってくることはほとんどない。
しかしながら、スーの身の安全を考えれば、油断などしていられなかった。
ほどなく、彼らは6層を危うげなく攻略し、7層【沈みの林】へと至った。
そこで二人が目にした光景に、彼らは全身を粟立たせ、声を失った。
そこには、確かに多くのマンドラゴラが居た。
——彼らは、苦しみから少しでも逃れるかのように地面から逃れ、魂をくりぬかれたかのように、抜け殻の樹体をそこかしこで晒していた。
【沈みの林】のマンドラゴラは全滅していた。




