第9話 汗とスライム
スライム水田から帰り、術式ノートを熟読するうちに、日はすっかり暮れていた。
二人は今、ダイニングのテーブルに向かい合って座っていた。
リーネは机の上に乗っかっていたあるものを優しく撫でた。
そんなリーネの様子を呆れたように見遣りながら、アルマが口を開く。
「なんでスーを連れてきたんだ……?」
少女は、気まずそうな表情を浮かべながらも、言葉を返した。
「だ、だって……! アルマが、この子は弱いって言うから……!」
「……そんなことを言った覚えはないが」
「でも、スーは今後どうなる予定だったの? エリアスだけ特別扱いして、この子は見向きもされないなんて可哀想だよ……」
アルマがスーを呼びつけた、あの時——。
呼ばれたことに対して全身で歓喜を示し、アルマに対して絶対の信頼を寄せていたスー。
リーネは、アルマが誇らしく見せつけた『種族の原盤』よりもむしろ、そんないたいけなスーに意識を持っていかれたのだった。
そんなリーネの反応を見て、アルマがため息を漏らした。
「あのな……。君だって、赤ちゃんのスライムだからって特別に贔屓していることには気付いているのか? それに、見向きもしないなんてことはない。スーは立派な母親になってくれる期待の星なんだ……」
圧倒的な正論で返され、リーネを言葉を詰まらせた。
スライム水田に居られる時間を替えてでも、リーネと共に過ごすと言うこと。
それは、スーが霊水を取り込む期間を失わせることを意味する。それは、アルマの望むところではないはずだ。
だけど、それでもリーネは、スーと一緒にいてやりたいと思ったのだった。
「お願い、アルマ。スーと一緒に居させて……。お父さんとお母さんにもきちんと挨拶したんだよ……」
少女の熱い視線が、真っ向からアルマに注ぐ。
長い沈黙の後、彼は重い口を開いた。
「……。ひとつ条件がある。毎日最低でも二時間は水田に帰してほしい。それなら一緒に居てやっても問題ないよ」
「ありがとう……! うん、約束するよ!」
リーネは歓喜の声を上げ、スーに微笑みかける。
スライムの赤ちゃんは、じっとリーネの顔を見つめ続けていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「さて、本題に入ろうか。……人手も増えたことだし、明日あたりから、リンシア牧場の拡大事業を始めてみようと思う」
スーの議論を終え、アルマが表情を幾分穏やかにして口火を切った。
その言葉に、リーネが軽く驚きの声を発する。
「拡大事業!? 随分と大きく出たね〜」
「いや……。ちょっと大げさに言い過ぎたかもしれない。言ってしまえば、新しいモンスターの飼育を始めてみようかって話なんだ……」
アルマが気恥ずかしげに言い直す。彼にしては珍しい反応だったので、リーネはついつい笑みを溢してしまう。
「——それで、どんな魔物を飼育するかだけど、リーネにアイデアはあるかい?」
「へっ!? うーん……わたしはまだ、わからないよ……。魔物についても勉強不足な部分が多いし……」
リーネは、突然決定権を握らされ必死に考えるも、最後は率直な思いを口にする。
アルマも、それには納得のようで、腕を組みながら答える。
「言われてみれば、それもそうか。そうだな……。10層より下は現状だと色々厳しいところがあるから、上層のモンスターかな。となると……」
アルマは決断したようだ。腕組みを解くと、リーネに向かって言った。
「……リーネ、今日はゆっくり休むといい。明日は朝早くから正規の階層に戻って、7層を目指す」
正規の階層というのは、アルマとリーネが出会った大迷宮の本筋のことを言っているのだとリーネは察しがついた。
そして、7層と言えば、迷宮第8層《洞の道》のひとつ上の階層であり……。
「7層……? その階層って確か……」
「うん。迷宮第7層《沈みの林》……。マンドラゴラの生息地だ」
「マンドラゴラ……。地面に生える植物の魔物だよね。まさか、ダンジョンに捕まえに行くの?」
「いや、捕まえないよ。そもそも、彼らほど簡単に仲間に引き入れられる魔物もいないしね」
「そうなの……? マンドラゴラって結構凶暴な魔物だよね。引っこ抜いたら大暴れするって……」
リーネは、身振り手振りで、マンドラゴラの物真似をして見せる。
アルマは、そんなリーネの様子を見て可笑しそうに笑う。
「そうだね。だけど……」
我が意を得たりと、アルマが頷く。
「本体を引っこ抜く必要なんてない。……簡単なことさ、種を拾うんだ」
「た、種……」
その手があるかと、少女は呆気にとられて口をぽかんと開ける。彼の飛び抜けたアイデアに、リーネは驚かされてばかりだ。
そこでアルマが、事前の計画はこれでおしまいと言うように席を立つ。
「正規階層に戻る以上、危険がないとは言わないけど、まあそんな感じだから、気楽に行こう。……リーネは汗臭いそのローブだけでも洗っておくといいよ」
「——はい?」
リーネから感情が消える。何か今、聞いてはいけない言葉を聞きはしなかったか……。
「さっきから匂いがすごいよ、リーネ……。体もきちんと洗うといい。エリアスがお湯を作ってくれるよ」
アルマは、思いやりのつもりなのだろうか。あまりにも不躾にそうのたまう。
リーネの全身が羞恥と怒りでプルプルと震える。
アルマは踏み抜いてしまった。可憐なダークエルフの少女の地雷を……。
「馬鹿——!!」
少女はぷいッとそっぽを向いて、ダイニングスペースから逃げるように立ち去るのだった。




