ただの紙
エドガー殿下が「相談したい文書」を持ってきたのは、書庫長任命から十日後のことだった。
その日は珍しく、閉館の鐘が鳴った時点で未処理箱が空になっていた。ミーナは「今日は必ず帰ってください」と念を押し、ほかの書記たちを連れて早々に退室した。皆、何かを知っていたのだろう。最後の一人が扉を閉める際、笑みを隠すのに失敗していた。
私は知らないふりで、鎮静草へ水をやった。
三度、扉が叩かれる。
「どうぞ、監察官殿下」
「今日は、監察の用ではない」
エドガー殿下は一人で入ってきた。いつもの黒い制服ではなく、灰青色の平服をまとっている。剣も、文書箱も持っていない。ただ、一枚の厚い紙を革の筒に入れて抱えていた。
「随分、改まった紙ですね」
「書庫長に提出するのだから、紙選びで失敗するわけにはいかない」
「紙工房の娘を試すおつもりですか」
「既に手が汗ばんでいるので、できれば審査は甘くしてほしい」
彼が緊張を口にするのは初めてで、私はかえって緊張した。
閲覧卓の向かいに座り、差し出された紙を受け取る。紙は確かに良品だった。エルンスト家の工房ではないが、硬さと滑らかさの均衡がよく、長期保管にも耐える。
表題を見て、私の指が止まった。
婚約申請書。
「エドガー殿下」
「読んでほしい。その上で、断る場合も理由は要らない。私の地位も、今回ともに働いたことも、君の返答を縛る材料にしたくない」
その言葉を聞いても、すぐ喜びへ飛びつくことはできなかった。
婚約解消公示に自分の名を見つけた朝から、まだ四か月しか経っていない。私はエドガーに心を寄せ始めている。彼が書庫へ入る足音を聞けば安心するし、紅茶の位置を覚えていてくれることが嬉しい。
彼はこの十日間、求婚を急かす気配を一度も見せなかった。返還一覧に不備があれば夜まで一緒に調べ、クララの薬草納入契約が成立した日は、私以上にほっとした顔をした。私が書庫長として叱られるほど仕事を抱えれば、叱る代わりに未処理箱を分類し、私が自分で判断できるところまで整えて帰った。
その優しさに、私は救われている。
同時に、救われたことを理由に伴侶を選んではならないとも思う。苦しい時に手を差し出された感謝と、これから長く隣にいてほしいという願いは、似ているようで違う。私はその違いを、紙の上でも心の中でも確かめたかった。
けれど、幸福に見える紙へ署名することを、心のどこかが怖がっていた。
私は申請書を開いた。
申請人、エドガー・アーレンス王弟。
被申請人、リディア・エルンスト伯爵令嬢。
婚姻後もリディアの誓約書庫長としての職務を妨げないこと。持参財産および婚姻前の資産は各自が管理し、共同運用は双方の明示署名を要すること。王位継承に関わる政治判断を理由として、相手へ沈黙や辞任を求めないこと。
細かく、不器用なほど、私が失うことを恐れるものが守られている。
「これは殿下が?」
「法務官に形式だけ習い、文言は自分で書いた。君の前で、他人の整えた綺麗な言葉を出したくなかった」
「正直、少し長いです」
「削ってくれて構わない」
私は笑いかけ、しかし笑みが途中で消えた。
「殿下。私は、あなたに惹かれています。だからこそ怖いのです」
彼は黙って聞いている。
「アルバート元殿下も、最初は私の仕事を尊重すると言いました。私は、愛されているから許されているのだと思っていました。本当は、役に立つ間だけ認められていたのに。いまこの申請書へ署名して、またいつか、私の仕事や意志が誰かの都合で罪に変わったらと」
「怖がらなくてよい、とは言えない」
エドガーは、卓上に置いた手を握り直した。
「私も王族だ。権力を持つ側の都合に無自覚になることはあり得る。だから君が私を疑える形でいたい。私に反対し、別れ、記録に残し、必要なら公にできる形で」
胸が詰まる。
「求婚にしては、随分と別れの話をなさいますね」
「生涯、君と別れたくはない。だが、その願いのために、君が別れられない書類を作れば、兄と同じになる」
「私が、今は決められないと申し上げたら?」
「待つ。君が別の人を選ぶなら、書庫の廊下で会うたび多少落ち込むだろうが、職務は守る」
「多少、ですか」
「監察報告に私情を書くわけにはいかないので、正確な程度は伏せる」
思わず笑いが漏れた。怖さを否定せず、重くしすぎず、返事を私へ戻してくれる。その人を、私は感謝ではなく、たしかに好きになっている。
私は指で紙の余白を撫でた。
「文言を、直してもよろしいですか」
エドガーはゆっくり息を吐き、笑った。
「そのために、余白を広く取った」
私は赤い訂正用ペンを取り出す。
まだ署名はしない。
けれど、逃げずにこの紙へ向き合いたいと思った。
かつての婚約は、私の知らないところで終わらされた。
次の約束を結ぶなら、最初の一行から最後の一行まで、私自身の手で選びたい。




