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第一章

 痛みや混乱、疑問が引いた後にすっと浮かんできた感情は、意外にも怒りだった。何に、と問われれば彼女も口を閉ざすしかないが、とにかく心は怒りに満ちていた。

 薄暗い裏道を無目的に這いずりながら、彼女は腹を立てていたのだ。刺された箇所から止め処なく流れる血が赤い線を描いていく。彼女の生きた軌跡を辿る導のように。それが途中で途絶えてしまうのも、性質の悪い冗談や皮肉のようで、ますます怒りに拍車をかけた。リンガム地方特有の薄紅色の髪は、もう深く鮮やかな紅だ。

 誰もが寝静まった深夜。いくら王都と言えどひっそりとした学生街では誰かが通りかかるわけでもない。学院の生徒は皆真面目だから、こんな夜中に遊ぶような人間は居ないだろう。

 自分の死体が発見されたら、学院の誰もが囁き合うに違いない。「あいつは馬鹿だったから……」と。

 そう、愚かだった。

 この身を蝕んでいく死よりも遥かに、彼女は自分自身を厭っていた。

 だからという訳でもないが、もうこれ以上生きようとはしていなかった。自身が負った傷の深さはよく理解しているつもりだ。この死によって誰がどんな得をするのかは皆目検討がつかないが、恐らくは自分の与り知らぬところで利害関係が発生していたのだろう。

 動きを止めて、首にぶら下げた漆黒の十字架を握り締める。

 この先に懺悔を聞き届けてくれる神は居ないのだとしても、浅ましく赦しを乞い続けた自分が嫌だった。誰からも赦しを得られない自分が哀れだった。

 ああ、あの怒りの正体は――結局罪を背負ったまま、罪を償えなかったまま逝ってしまう、自分への怒りだったのか。

 それとも。

「お父様……」

 欲しいのは神の赦しではないのだと、今更になって気づいてしまった自分への苛立ちか。

 嘲りが浮かぶ。――と、ふいに目の前に立つ人影があった。

「血の臭いがすると思ったら……惨いわね」

 冷たい空気を震わせて、女の声が降ってきた。ひしゃげた金属が立てる音のように不快な、それを声と表現するのも憚られるような、そんな声だった。とても人間のものだとは考えられなかったが、もう首を上げる力は残っていない。女がどんな姿をしているのかは分からないが、この際悪魔でも化け物でも、何でも構わなかった。これはきっと、逝く自分への最後の憐れみなのだ。最期の最後に起こった小さな奇跡なのだ。

「痛かったでしょう、可哀相に……学生かしら」

 女は彼女が死んでいると思っているようだ。ぶつぶつと言いながら、しゃがみこんでくる。その声はとても耳に障る音だったけれど――籠められた感情は、どこまでも優しかった。心底相手を想って発せられている、そんな風に思える口調だった。

 手が伸びてくる。彼女は力を振り絞って、その手を掴み言葉を発した。

「神の赦し、は……」

「――あなた、生きているの?」

 驚きの声には構わず、

「いら、な……でも、これを」

 握っていた十字架を示す。本当に欲しかったものは……もう手に入らない。

「これはまた、古い慣習を知ってるのね」

 女は決して彼女を制止するような言葉は発さなかった。もう助からない――だからこそ、静かに耳を傾けている。彼女はそう感じ、必死に言葉を紡いだ。

 もう灯火は消える寸前。自分の体のことだ。痛い程分かる。

「リンガムの……届け……て。お願い、よ。私の……」

 ――彼女はそこで事切れた。

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