Archive――統合⑤
「泣いてる。わたし泣いてる。お腹空いたから?」
「ぼくに訊かれても知らないよ……。たぶんお箸が使えなかったからじゃない……?」
マサトがカツ丼を貪りながら、さも当然のように言った。
「あ~ん、してやれば~?」
「はあ!?」
学校だぞ、ここ。しかも小さな子や恋人関係でもあるまいし、そんなこと。
「おれがしてやろーか、お姫さん?」
「……?」
何のことかわからないのか、リサがまた首を傾げた。
「ほら、口開けな」
マサトがカレーうどんに箸を伸ばした瞬間、ぼくはとっさに自分の箸で受け止めていた。
「あん? 行儀が悪ぃぞ」
「ぼくがやろう」
みっともない嫉妬全開の独占欲丸出しだ……。本人の前なのに……。
マサトがニヤっと笑った。
「最初っからそう言っとけよ」
ここでようやく、ぼくはマサトの計略に乗せられたことを悟った。マサトはもう平然とした顔でカツ丼をかきこんでいる。
仕方なく、仕方なくだぞ。
ぼくはマサトの隣からリサの隣へと移動して、フォークとお箸の二刀流――いや、三刀流でどうにかうどんを食べようと苦戦しているリサに話しかけた。
「リサ、口開けて」
「……?」
素直にパカっと口を開くリサ。警戒心らしきものがまるで見られない。こんなことじゃ藤堂あたりにサクっと騙されやしないだろうか。
あめ玉あげるから……とか言われて。
ぼーっと彼女を見ているうちに、何だか急に照れくさくなった。見れば見るほど、リア・アバカロフとうり二つだ。クセのない白い髪も、透き通る赤い瞳も、整った顔も。あの日、ぼくを胸に抱いて走ってくれた身体も。
「じゃあ食べさせるよ」
「ん。ばっちこい?」
「……どこでおぼえたんだ、そんな言葉……」
ぼくは大きな咳払いをしてカレーうどんにお箸を突っ込み、数本うどんをつかんでリサの口へと運ぶ。
もぐもぐとリサが口を動かした。啜らないせいで、食べる速度が遅い。その表情がわずかに険しく変化した。真っ白な額から、ジワッと汗が滲み、赤みが差してゆく。
おいしいんだろうか。それとも、もしかして照れてくれてるんだろうか。
「イツキ」
「ん?」
「とても熱かった」
うわっ、また泣いたぞ! 何か小刻みに震えてるし!
「ご、ごめん!」
「もうさ、ふーふーまでしてやればあ?」
マサトの投げやりな意見に、ただでさえ上昇気味だった血流が一気に体内を駆け上がった。
「お、おまえなあ――」
振り返って言葉を呑んだ。何だか食堂中の生徒から注目されている。ぼくが視線を向けるとあわてて会話を再開、視線を戻すと再び沈黙してこちらを横目で盗み見て。
昨日も食堂で問題を起こしたところだし、ましてやリサの特異な容姿は、良くも悪くも人目を惹く。考えてみれば何も不思議なことじゃない。
クスクス、笑い声が至るところから聞こえてくるが、マサトもリサも一向に気にした様子はない。
「ほら、リサ」
うどんをすくい上げて少し冷まし、リサの口へと運ぶ。今度は口に入れても顔を赤くすることもなく、もぐもぐと口を動かした。
そんな様子を見てか、やはりクスクスと笑い声が聞こえてきた。
ぼくがこの笑いに対して、入学式の教室での一件ほど腹が立たないのは、これはリサの子供っぽい様子を笑ったものであって、リサ自身をバカにしたような笑いじゃないからだ。
「イツキ」
「今度は何?」
「口の中、ぴりぴりする」
「カレーだからね」
香辛料を知らないのだろうか。ロシアだかわかんないけど、出身国にはカレーがなかったのかな。
「嫌い?」
「ん。体細胞が活性化。新陳代謝上昇による発汗作用、自浄作用に体温上昇による血流作用、それに――」
カツ丼を食べ終わったマサトが、栄養補助の野菜ジュースをぶほっと噴き出した。
「お姫さんよぉ、こういう場合は好きか嫌いで答えりゃいいんだって」
リサがマサトを見つめて、目をパチパチさせた。
「いや、だからよ、口ん中や舌が食ってて幸せかどうかで答えりゃいいってことな?」
「それはヘン。幸せという言語は該当しない。だけど類似している。つまりわたしは、カレーうどんが好き?」
マサトとぼくが同時に苦笑いを浮かべた。
まわりくどい。
「好き、でいいんだよ、リサ」
「じゃあ、好き」
衆人環視の中、ぼくはリサの口にうどんを運んでやる。リサは照れることもなく、時折ぼくに視線を向けながらうどんを食し、残ったスープは自分で丼を持って飲み干した。
「ごちそーさま」
口の周りや制服は、もうカレーの水玉模様だ。また制服の袖で拭こうとしたので、ぼくはあわててハンカチを取り出して、口の周りを拭ってやった。
温かいカレーを食べ終えた直後だからだろうか、リサの真っ白な肌には、わずかな赤みが差している。それに、心なしかいつもより表情が柔らかい気がする。微笑んだりはしていないけれど。
「はい、次からは自分でハンカチ持ってくること」
何だか子供に教えているみたいで、ヘンな気分だ。
「……? ハンカチ、持ってる」
さも当然のようにポケットからハンカチを取り出すリサ。
「何で袖で拭いてたんだよっ!?」
「合理的だから」
マサトがもはや板についた苦笑でダラっと椅子の背もたれに体重をかけた。
「人間はな、非合理的なことを好むから人間なんだぜ?」
「ん。わかった。理解するようにする。たくさん教えて欲しい」
ペコっと頭を下げるリサ。これって外国人だから価値観が違うだけだろうか。
「さて、片付けっか」
空の丼の乗ったトレイを持って、マサトが食器返却口へと歩き出す。同じようにぼくもトレイを持って行こうとすると、ふいにリサがカレーだらけの手でぼくの私服をつかんだ。
「……あ」
「あ、カレー……」
あわててリサが放すも、すっかりカレー色に染まってしまった袖。まあ、そんなことはいいんだけどね。洗えばどうにかなるさ。たぶん。
「ごめんなさい」
再びペコっと頭を下げるリサ。悪びれた様子もなく、心から反省をしている様子もない。けれど、彼女の無表情には悪気がないことをぼくはもう知っている。
「いいよ。どうしたの、リサ?」
「試した」
「何を?」
リサがぽつぽつと続ける。
「新陳代謝上昇による発汗作用、自浄作用、体温上昇、心拍上昇による血流作用は主に上昇傾向、それに伴う胸部圧迫と呼吸困難。いずれも香辛料以上の効果。どうして、このカラダは――」
リサが一度言葉を切った。
「体調でも悪いの?」
トレイを置いてリサの額に手を当てると、リサがビクっと震えた。額は少し熱い。
「おそらく違う。教えてほしい。わたしのアーカイバには明確な解が存在しない。わたしは、あなたのことをほとんど知らない」
アーカイバ……脳……いや、記憶のことか……? 何でそんな言い方するんだ?
珍しくリサが表情を歪めて眉を寄せ、苦しげに、かろうじて聞き取れる声で囁いた。
「……これは、わたしの体細胞がイツキを求めているから……?」
どういう意味かを尋ねたかったのに、ぼくはその言葉に声を失った。
もう、ぼくらの会話を聞いているものも、行動を見つめているものもいない。食堂内はざわめきに溢れかえっていて、昨日の授業による筋肉痛で出遅れた朝食をとりにくる新入生たちで混雑し始めていた。
「……幸福に近い感情。わたしはイツキが好き……?」
かぁっと顔が真っ赤に染まってしまった。いや、そんなレベルじゃない。血流が上昇する音を耳で聞いた。心臓が、9年前のあの日のように恐ろしい勢いで跳ね回っている。
訊かれても……どうこたえろってんだ……。
「アーカイバも演算処理も介さない、カラダから発生する非合理的――感情? マサトは言った。それが人間だと」
見つめ合ったままのぼくらを、食堂に訪れた学生たちがどんどん通り過ぎてゆく。
すぐにでも返事をしなかったのは……身体中が求めているのにリサを受け入れる勇気を持てなかった理由は……。
「わたしはおそらく、イツキが好き。これは、恋で合ってる?」
この言葉さえ、リサがぼくをからかって言っているわけじゃないことはわかってはいた。だからぼくは態度を繕って、なるべく平然と見えるように微笑む。赤面だけは、もうどうしようもなかった。
だけどぼくの口をついて出た返事は。
「ど、どうかな。ぼくにはわからない。でも、その……ありがとう……」
とても曖昧なものだった。
数秒の沈黙の後、リサはいつもの無表情な彼女に戻った。
「ん。では、また後で」
リサが背中を向けて去ってゆく。食器返却口からこっちに向かってくるマサトとすれ違い、カレーうどんの器をトレイごと返却口に置いて、ひとり廊下へと。
最大の機会に勇気が持てなかった理由は、ぼくの頭の中にはリサ・アバカロフではなく、同じ姿をしたリア・アバカロフが未だに微笑みかけてくれていたからだ。
リアはもう、この世界にはいない。リサからの告白はとても嬉しかったはずなのに、ぼくはたまらなく悲しくなったんだ。
リサとリア。
――ふたりの少女が自分の中で、統合されてゆく。
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