False――偽⑨
あまりの異常な事態にずいぶんと遅れてしまったが、今さらながらに自己紹介をすることにした。
「高桜一樹です。さっきはありがとうございました」
「……? ハダカ? え~っ、ヤダぁ! そんなにうれしかったの~? 照れる~っ」
天川月乃が、湯の中で悶えるように全身をくねらせた。
ホントにどうしたらいいんだ、この人。
「違いますよ! 食堂でのことですって!」
「……ハダカはうれしくなかった?」
声のトーンが下がった。視線を背けているためにどんな顔をしているかまではわからないけれど、これはマズそうだ。機嫌を損ねたら、何をされるかわかったもんじゃない。
彼女への対応に慣れてきた自分が哀しい。
「いえ、決してそんな。けっこうなお手前で――」
「そんなことよりさ、新入生くん」
……ホント、人の話を聞かないな、この人。名前もおぼえてくれそうにねーし。小学校の通信簿に六年間通して「落ち着きがない」と書かれるタイプだ。
「木曜はあたしのワンダーランドだからいいけど、水曜はダメよ?」
「何でですか?」
「毎週のように、三年生ふたりが逢い引きしてるから。そらもう、もうガッツンガッツンよ!」
ぼくは体勢を崩して湯に沈んだ。
「ぶっはっ! 毎週って知ってるってことは、ツキノさんはまさかそれを覗き――!?」
「そうそう、そうなのよ! あたし、たまたま水曜の夜に行って現場見てびっくりしちゃってさあ、思わず言っちゃったのよ。――ヤるならお湯の外でヤらんかいッ!! ってね」
壮絶にズレている……。何もかも、何一つ噛み合わない……。
「だからその日、そいつらを湯船から引きずり出して正座させて、あたしはルールを決めたの。水曜の夜中はここをあげるから、絶対にお湯は汚さないこと。いちおう温泉は掛け流しだから常に循環はしてるし、定期的にお湯を抜いて掃除もしてくれてるけど、気分的にね。それと、木曜の夜中はあたしのワンダーランドだから絶対に来ないことってね」
なぜか得意気な温泉のヌシ。
天川月乃はあきらかに頭の配線が間違って繋がっている。ちょっと怖くなってきた。そのふたりも相当な災難だったことだろう。
それにしても、上級生を引きずり出して正座させるとは。さすがは有名人だ。
「でもさ、彼らの行動も少しわかるのよね。明日メタルが出現して、そいつがもしもランド・グライド級だったら、あたしだって明日の夜はこうして生きていられるかどうかわからないもん。……知ってる? メタルのランド・グライド級」
メタルの単位は戦艦であるドレッドノートなどと同じく、人類兵器の大きさで言い表される。つまり人類の装甲人型兵器と、メタルのランド・グライド級はほぼ同じ大きさだということだ。
「ええ。噂程度にですが」
ランド・グライド級メタル。ドレッドノート級に比べれば大きさは微々たるものだが、実のところ確認されたメタルで最も厄介とされるのが、ランド・グライド級だ。
「その噂はすべて真実よ」
ドレッドノート級のような兵器積載量や広範囲の破壊力はなくとも、聞いた話ではAI性能が非常に高く、動きの素早さも出力も精度も、人類の装甲人型兵器を遙かに凌駕しているのだとか。
人類は首都大戦五日目に計三百機の装甲人型兵器を投入し、わずか二日で勝利と引き替えに、うち二百九十七機を失った。ここまでは噂ではなく、歴史的な事実だ。
その事実の中にあって、まことしやかに囁かれる噂――。
「……冗談でしょう?」
「いいえ」
破壊された機体のうち、実に百四十八機は、たった一機の小型メタル、つまりランド・グライド級の攻撃によるものだという噂。
そして、大戦以降の九年間にその機影を見たものはいない。
ちなみに生還した機体は言わずと知れた青のキャスケット、黒のベルベットと、残る一機は確か赤のエスペランスといったか。
「早見士郎のチームがランド・グライド級のメタルを仕留めなければ、今頃人類は滅んでたかもしれないのよねー。感慨深いわー」
つまり、リサの姉と早見士郎の所属したチームは、九年前の技術しかない装甲人型兵器で、やつを撃退したということだ。だとするなら、ぼくが見たドレッドノート級のメタルを一機で撃破したのも、彼にとっては難しいことではなかったのかもしれない。
やはりあの人たちは別格だ。
それでも、ぼくは追いついてみせる。そのために生き延びた。
「だから刹那的に生きるのは悪いことじゃないと思うのよね。学校の校則がほとんどないのも、あたしたちは世間的にはもう死んだも同然の存在だからだね、きっと」
天川月乃の声に思考を引き戻されて、ぼくは彼女がじっとこちらに視線を向けていることに気がついた。
わずかに身をずらし、生唾を飲んで距離を取る。
天川月乃がイヤだってわけじゃない。むしろものすごく女性的で、魅力的だ。だけど、ぼくの心はリサの姉からまだ離れられずにいる。
けれどもう、ぼくはあの人の声さえ思い出せない。
思い出せなくなったのは、この学校に入学してからだ。ぼくの頭の中で囁く声は、無機質で無感情なリサ・アバカロフに上書きされてしまったんだ。
「聞いてる? おーい、新入生くん?」
天川月乃が立ち上がり、ジャブジャブと水面を波打たせてぼくの正面に回り込む。もちろん、ぼくはその動きに合わせて首を回転させ、視線を逸らしている。
この体勢は危険だ。
「聞いてます聞いてますっ」
テンパって二回言った。情けない。
「でも新入生くんはアリスだからなあ」
「あ、え? あ、はあ」
わからん……。会話が端から端にぶっ飛ぶ……。
「アリスなら、木曜の夜中に迷い込んできてもゆるしてあげる」
「……だ、だから高桜一樹ですって! ああもう! 正面に立たないでもらえますかっ!」
「ああ、はいはい。またひっくり返されちゃたまんないわ」
おもくそ蹴り返してきたくせに。
ちゃぷっと音を立てて一度深く沈み込み、数秒後に天川月乃が顔だけを水面から出した。
「先輩はいつもこんなことしてるんですか?」
「ツキノ」
めんどくさいな!
「ツキノさんは、いつもこんな――」
「――してない。浴場に入ってきたときのキミが、ヒドい顔をしていたから。だから隠れるのをやめただけ。キミはあたしの後輩を助けようとしてくれていたしね。じゃなきゃ、男子にわざわざハダカ見せに行くわけないじゃん」
そうだったのか……。気を遣われていたらしい。というかそれを先に言えと。
やはりわからないな、この人。
「でも、杞憂だったかな。気づいてる? あなたは新入生の顔をしていない」
「意味がわかりません」
天川月乃がそっと瞼を閉じた。
「帝高で三年間を生存することは難しい。あと一ヶ月もすれば、もしかしたら明日にでもキミはそのことに気がつく。そうしたらね、少しずつポロポロと自分の心が砕けていくの」
声色が、それまでの彼女とは違って真剣なものになっている。
「そして三年生になる頃には、どうしたら生き残れるかだけしか考えられなくなる。三年間を生き延びて十億手に入れて、残りの人生を遊んで暮らすの。対メタルの防衛ラインは次世代の帝高生に任せて、のうのうと生きていく。そんな夢ばかりを見るようになる。――ねえ、どうしてこの大浴場には誰も来ないと思う?」
ぼくが応えるより早く、天川月乃はぼくの耳元に唇を寄せて静かに囁いた。
「夜を恐怖に震えて過ごすからよ。ベッドに丸まって頭から毛布をかぶって泣きながら祈るの。明日、メタルが出現しませんようにって。卒業まで震えて眠れなくなる。三年生のほとんどがそう。あたしはそうなるのがイヤだから、こうしてここへ来ているの。誰もいなくても、ここには誰かが来るかもしれない。それで十分。誰かが来ようが来るまいが、あたしは木曜の夜にはこうしている。ひとりでいたら、いつか恐怖に負けそうだから」
初めてだ。初めて天川月乃が人間に見えた。
身体を少し離し、彼女はさらに言葉を紡ぐ。
「どうして東京が壁に囲われたと思う? メタルのミサイル三発で砕ける壁なのに必要だった理由は?」
「それは――」
都市外部の世界を守るため。そうこたえようとした瞬間。
「ハズレ。たぶん見当違い。答えは簡単。メタルの侵攻から世界を防ぐためじゃない。消耗品であるあたしたちを、この都市から逃亡させないためよ。死ぬまで戦えってこと」
消耗品……。
温泉が徐々に冷たくなってゆく錯覚に囚われる。
「だから水曜のふたりのような人たちは貴重なのよ。あたしに未来を夢見ているふたりの邪魔をする権利はない。だけど、なのに、キミは怯えきった三年生と同じ目をしていると思ったのに、なぜかここへ来た。たったひとりで。まるで、そう。あなたには死の恐怖を知った上で、生き残ることよりも大切なことがあるように見えた。あたしとキミは似ていると思った」
ほんの一瞬、新雪の髪を持つ赤い瞳の少女が脳裏に浮かんだ。それがリサなのか、それともあの人なのかは、わからない。
「そういう子にはね、どれだけ絶望していたって戦い抜けるだけの強さと覚悟が備わる。ここで生き残れるのは、毛布を被って毎晩震えているような人間じゃない。未来に強固な希望や目的を持っている水曜のふたりや、恐怖なんて両手で丸めてゴミ箱に投げ捨てられる人間だけなの。たぶんだけど、キミは後者。あたしもね」
見抜かれている……。
ぼくの中で恐怖という感情は今もまだ死んだままだ。天川月乃は、そのことを見抜いた。
首都大戦――。
メタルの恐怖を知って以来、ぼくはすべての恐怖を失った。だからぼくは、他のみんなと違って逃げ出さずに死ぬまで戦えるだろう。
だけど、他の新入生は恐怖を抱えている。上級生に至っては、その戦闘経験からさらに大きな恐怖を。
だから、ここには誰も来ない。
「あたしは生き残る。あたしには腕がある。装甲人型兵器タランテラと、最高のチームメイトもいる。恐怖になんて負けたりしない」
切れ長の瞳が、鋭く攻撃的なものに変化した。すっかりと幼さの抜けた大人びた視線に、ぼくは全身を痺れさせた。
「――ッ!」
死線をくぐり抜けてきた戦士だけが持つ、鋭い視線だ。
そうだ、この人は一年以上もの間、帝高でメタルとの戦いを生き抜いてきた人なんだ。ぼくよりずっと、早見士郎に近い位置にいる凄腕のパイロットだ。
生身で藤堂を撃退したのだって、マグレじゃない。体格、体型、性別、それらの不利な要素をすべて払いのけて圧倒して見せた体術。どれをとっても規格外だ。
「新入生くん」
「は、はい」
居住まいを正し、ぼくは鋭い視線に生唾を飲む。
「今日はゴチです。ご立派なちょんぺらぽんをお持ちで」
天川月乃は、やはり異常だった。
ぼくは遠い目で、ゆっくりと首を左右に振ってから呟いた。
「……あんたの胸ほどじゃない……」
「きゃっははははは! 言えてる~!」
この日ぼくは数年ぶりに恐怖というものを思い出したかもしれない。
ただしそれは、天川月乃に対してだ。
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