False――偽⑧
もう少し恥じらうなり何なりで胸なり前なりを隠してくれれば、多少は冷静に話せると思うのだが、この人、さっきからタオルも巻かない仁王立ちのまま、平然と話しかけてくる。
どうしたらこんな人間ができあがるんだ?
ぼくに恐怖が欠けているように、天川月乃にも羞恥心が欠けているのだろうか。これじゃ視線のやり場がない。
「と、とりあえず、その、つ、浸かりませんか、天川先輩? ほ、ほら、せっかくの温泉だし、あの、あまりにもナニが――」
「堅い、堅いなあ、新入生。帝高は明日命を散らしたって不思議じゃない学校なんだよ。やりたいことやって、好きに生きなきゃ損。堅いのは、ちょんぺらぽんだけでいいんじゃない?」
ちょんぺら――。
「そんなことどうでもいいんで――」
「あと、天川先輩は禁止ね。ツキノ。割と気に入ってるの、この名前。ステキでしょ」
両手を腰に当てて、堂々と胸を張る天川月乃。
ちょっとした動作で揺れるのは圧巻だ。
「……あんたこそ人の話を聞け」
「ツキノ。おーけー?」
驚くほど会話が成立しない。
「お、おーけー、ツキノさん。とりあえず、座りましょう!」
天川月乃があっけに取られたかのように、ぴたりと動きを止めた。別段からかう様子でもなく、真顔で首をかしげる。
「見たくないの? 結構自信あるんだけど?」
「や、そりゃ見えるにこしたことは――いや、ま、まあ、ええ~……?」
何だこの質問? 罠か? ぼくにどうこたえろと?
この体勢でぼくだけがしゃがみ込んだら、それこそもう位置的に言い訳できない視界になってしまう。とにかくこの人を座らせないと。
「新入生くんが月が見たいってさっき言ったんじゃん?」
数秒後、ぼくはようやくその言葉の意味に気がついた。月と月乃。
まったくもって、くだらない。
要するに、からかわれているのだ。
「……ああもう、失礼しますッ!」
目を固く閉じてぼくは先にしゃがみ、湯の中を掻くように右手を伸ばして勢いよく横一文字に振り抜く。途中にあったツキノさんの足首をつかんで。
「へっ? きゃああぁぁぁ――ばぷぼぼ……ぼッ……!」
勢い余って逆さになったツキノさんの右足がぐぐっと引き絞られた。でも目を閉じていたぼくにそんなものは見えるはずもなく、見えなければ避けることもできなくて。
バキッ!
「――痛ッ!」
ぼくは側頭部に強烈なキックを受けて湯に沈み込んだ。
か……っ! やっぱこの人、異常だ! ひっくり返された瞬間に反撃してくるなんて、どんだけ足癖悪いんだよ! 野良猫も真っ青な反射神経じゃないか!
ぼくが浮上するのと同時に、野生の天川月乃が水面から顔だけを出す。
「いきなり何すんのよッ! 新入生のクセに! お風呂でそんなことしたら危ないでしょうがっ!」
「アブナイのはあんたの頭だっ! 何度も何度も座れっつったでしょーがっ!! その耳は飾りですかっ!?」
「それくらい聞こえてたわよっ! ババアじゃないんだから!」
うーわ、ダメだ……。
ほんとに会話が成り立たない。
「とにかく、もう少し恥じらいとか持ってくださいよっ。ま、丸見えじゃこっちも……その……」
「なんで新入生に命令されなきゃならないの? わけわからんっ」
こっちもわけがわからない。
もうあきらめて、正直なところを言うことにした。
「……ぼくの都合上の話です。あれ以上、天川先輩を見てたら――」
「ツキノ」
額に青筋が浮いてしまいそうだ。
下半身から頭に血が昇ってくれたことには感謝するが。
「あれ以上ツキノさんを見ていたら、こっちが見せられない状態になるんです」
「ちょんぺらぽん? あたしは気にしないけどなー。むしろ興味あるし見せてよ」
さっきから何だその俗語は。想像はつくからあえて訊かないでおくが。
とりあえず、一端落ち着こう。
「……」
「……」
岩肌の壁に背中を預けたぼくの隣に天川月乃がすすっと移動して、そのまま出て行くのかと思いきや、ぼくと同じように背中を岩壁に預けた。
「……広いですよね、この大浴場」
「そーね」
ぼくは彼女を正視できず、反対方向に首をねじ曲げる。
東京の源泉がいくら黒湯だといっても、天川月乃がいくら肩まで浸かってたって、そんな近くではうっすら透けて見える。
「おお、見てる見てる。横目でこっそりとか、いい度胸してるねぇ」
「実況やめて! 見てません! ……向こうの方で泳いできたらどうです?」
「ヤダ飽きた」
手強い。
見たくないわけじゃない。むしろ天川月乃は、ずっと見ていたくなるくらい綺麗だ。でも一方的に見るのと、等しく自身も見られるのではわけが違う。
「いま二時台ですよね。偶数時間ですよね」
「そーね」
まったく察してくれない。きっとこの人の神経は背中に一本ぶっといものが通っているだけで、他には存在しないんだ。
「他の男の人も入ってくるかもしれま――」
「困るなー」
さして困った様子もなく、反射的に応えたようだ。
「ぼくがいることには困らないんですか?」
「困ってるけど」
よかった。安心した。
「じゃあ向こうを向いておきますんで、そのまま出てください」
「ヤダ」
理屈抜きで、半ば予想できていた返事だった。
たぶんぼくの方が出ようとしたら、今度は邪魔をしてきそうだ。でも、この広さの大浴場なら、距離を取るくらいなら可能だ。
泳ぐフリをして距離を取ろうと、身体を動かした瞬間。
「はい、あたしの勝ちー」
「……何がですか?」
イラっときて、額の血管が脈打って浮いた。ぼくは再び背中を岩壁に当てて、平然と両足を組み直す。
「べっつにー?」
段々腹が立ってきた。
危機感ないのかよ。こっちがめちゃくちゃ気ぃ遣ってることくらい察しろよ。正視できないんだよ。ふざけやがって、超一級品だ。けしからんほど素晴らしい。現代に生きるビーナスかよ。いちいち美しいんだよ、クソったれ。
なんでぼくはこんなことで怒ってるんだ?
「もしぼくがトチ狂って襲いかかったらどうするんですか」
瞬間的に花が咲いたような笑顔で彼女がこちらに視線を向けた。
「え? あたりまえに撃退するけど?」
「ですよね! 藤堂に負けたぼくを、藤堂を締め上げて助けてくれた方ですもんね!」
「うん」
ぼくは両手で頭を掻き毟った。
死ぬほどくやしい。
「心配しなくても、どうせ誰も来ないよ。一年間、何度かこうして深夜に偶数時間まで入ってたことあったけど、木曜の夜は誰も来なかったもん。ああ、もちろん奇数時間は余計にね。女の子は誰も好きでもない男の出汁がたっぷり出たお湯なんかに、好きこのんで入ろうとしないから。たま~に、部屋のユニットバスが壊れた子が訪れるだけよ。だから木曜の夜中は、あたしのワンダーランドなの。新入生くんはそこに迷い込んできたアリスのようなものよ」
アリス……。ウサギでもいいからせめて男キャラにして欲しかった。そういやまだ、ぼくは名乗ってさえいなかったな。
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