第32話『薫』
放課後…俺は先輩を来るのを屋上で一人腰を下ろして待っていた。
「…う…ぐ…」
今日は朝から痛みが断続的に続いていた。
それは、自分の命が後少しである証拠…。
差し込むような痛みに、俺は顔を歪めて堪えていた。
もうすぐ、先輩がここへやってくる。
早く治まれと、祈りながら痛みが静まるのを待っていた。
先輩に見られたら、無用に不安を与えてしまう。
先輩に心配を掛けたくなかった。
しばらくすると、少しづつ痛みが引いていく。
ずっと、堪えていた俺は安心した事で気が抜けた。
ズルズルとベンチへ横たわる。
「…ハァ…ハァ…」
荒い息を深呼吸で落ち着ける。
何度も繰り返してきた事なので慣れてしまった。
「ふぅ…」
最後に一息吐いて、完全に痛みは治まった。
と、丁度、ここで屋上のドアが重い音をたてて開かれる。
顔を覗かせたのは、待ち人の先輩だった。
「たるんでるわね」
「まあな」
横たわる俺に、どうやら先輩は勘違いしたようだ。
手を腰に置いて仁王立ちする先輩は、呆れたようにため息を吐いた。
勘違いしたままの方が都合が良い。
俺はいつもの調子で返した。
先輩が歩いて来るまでに身体を起こす。
先輩は俺の隣りに腰掛ける。
「小室先生…犯行を認めたらしいな」
あの事件から四日経っていた。
警察で取り調べを受けていた小室教諭は、今朝のニュースで犯行を認めたと報じられていた。
「ええ。警察の人から明日香を殺した事も認めたって連絡があったわ」
「そうか」
先輩は今どんな心境なのだろうか…?
犯人が捕まった事への安心感…。
明日香の仇をとれた事への満足感…。
小室教諭への同情…。
きっと、色々な感情が胸の中で渦巻いているだろう。
ただ、小室教諭に対して憎しみだけは、先輩は持っていなかった。
それだけはわかる。
ただ、俺にはこの事件において、釈然としない事があった。
それは危険も顧みず、一人で小室教諭に対峙した事だ。
頼りにならないかもしれないが、俺は先輩の彼氏だ。
彼氏が恋人を守るのは当然だ。
「なあ、先輩…何で一人で小室先生に会いに行ったんだ?」
「それは…」
問い質す俺に、先輩の表情が曇る。
言い淀む。
何とか言葉にしようと口は開くが、そこから言葉が紡がれない。
しばらくの間、アワアワと口をパクパクさせていた先輩は一度仕切り直すように口を閉じる。
「私……ば、拓哉くん……かると思って…」
改めて口を開いた先輩はやたらと小さな声でボソボソと喋るせいで、何と言っているのか聞き取れなかった。
「?」
「ううん。何でもないわ。ただ、拓哉くんを危険な目に遭わせたくなかったのよ」
疑問符を浮かべる俺に、先輩は頭を横に振って説明する。
だけど、それは適当に理由を付けた、という感じだった。
「そっか」
だけど、先輩がそう言うのならその言葉で納得する事にした。
何にしろ、これで全ての憂いはなくなった。
後は…俺の覚悟だけ。
死を覚悟する為の決意…。
死の恐怖を振り払う為の勇気…。
だから…。
「なあ、先輩」
「ん?」
「明日、デートしねぇか?」
あまりに唐突な申し出だっただろうか?
だけど、俺には明日一日しか時間がない。
どうしても、死を受け入れる為にも、最後に思い出が欲しかった。
「いいわよ。但し、一つだけ条件があるわ」
「条件…?」
条件って何だろう?
悪戯を仕組む子供のような笑顔の先輩に、少し不安になる。
「その条件は…私の名前を呼ぶ事よ」
「…へ?」
身構えていただけに、間の抜けた返事になってしまった。
きっと、今は馬鹿面をしているに違いない。
「何て顔してるの?シャンとしなさい」
案の定、先輩から厳しい指摘が飛ぶ。
先輩はこういう部分にはかなり厳しい。
「名前、ねぇ…」
「彼女の名前ぐらい、ちゃんと呼びなさい」
確かに、言われてみれば、俺は先輩と付き合いだしたというのに、一度も名前で呼んだ事はなかった。
考えてみれば、それが俺達の関係を今まで通りにしていたのかもしれない。
しかし…。
「ちょっと、気恥ずかしいな」
「何言ってるの。恋人なんだから当然でしょ?」
今まで、ずっと『先輩』としか呼んでなかったせいか、改めて名前を呼ぶのは抵抗…というか恥ずかしい。
でも、先輩が望んでいるんだ。
今日と明日…俺に残された時間ぐらい、先輩の望みを叶えてあげたい。
…俺が恥ずかしい以外に実害ないし。
「わかった」
「じゃあ、練習。はい、どうぞ」
「…今、言うのか?」
了承した俺にたたみ掛けるように、パンパンと手を叩く。
さすがに聞き直してしまう。
心の準備が出来ていない。
が…。
「……」
ジッと睨むように見つめる先輩…。
これは断れる雰囲気ではない。
俺は意を決する。
こうなれば、自棄だ。
「か、薫…」
恥ずかしさにのたうち回りたくなる。
顔が真っ赤に紅潮してしまう。
「ち、ちょっと、拓哉くん、照れないでちょうだい。こっちまで恥ずかしいなるじゃないの」
「し、仕方ないだろ?言い慣れてないんだから…」
「言い訳しない」
またもや、ピシャリと言い放たれる。
俺は、そんな先輩…いや、薫に「はい」と返すしかなかった。




