05.公爵夫人の招かざる客
彼女は手元にある羊皮紙をじっと見つめていた。
何度も何度も、そこに書かれた文字を追う。
「……期待するのに、疲れたのよ」
重いため息と共に吐き出された言葉は、静かに空気に溶けていった。疲れたように腕を下ろした彼女は、そっとその手紙を机に置く。
今度こそ、本物のアリスが訪れるかもしれない。
そう書かれた内容に、何度期待し、何度疑っただろう。
そして実際にその女と会って、何度失望したことか。
今度こそ、今度こそと、期待しては失望させられるこの繰り返しに、彼女は疲れていた。
「……本物のアリスは、もうどこにもいないの」
あなたも分かっているでしょう?
アリスの面影を追い続けている彼に向かって、彼女はそう呟いた。
彼にだけではない。
同じように、本当にアリスが現れるのではないかと期待してしまう自分に向けても、そう言っているのだ。
彼女と彼らが知っているアリスは、もうどこにもいない。
それこそ、彼らがその目でしかと見たのだから、確かな事実としてそこに存在している。
「それでも、帰って来てほしい」
そう願ってしまうのは、自分が不思議の国の狂った住人の肩書きを持っているからなのか。
「アリス」
そう呟くことで、自分の罪の重さを実感するなんて。
また、何も知らない少女に当たることで、このどうしようもない気持ちをなくそうとするなんて。
無邪気な少女。
何も知らない女の子。
彼女は不思議の国に迷い込んでしまった、小さな子ども。
狂った帽子屋と、絶対的権力を持つ赤の女王にもひるむことなく立ち向かった子。
そこに、癇癪もちの公爵夫人も加わるの。
それでもあなたは、きっと不思議そうに冒険を続けるのでしょうね。
そういった存在なのだ。
アリスといわれる人物は。
そこらへんにいる女の子とは違う、誰かに守られることを望む少女ではないのだ。
自分で切り開くことを望む少女なのだ。
そんな愛すべき愚かな存在なのが、アリス。
「ゴ主人様、ゴ来客のようですギョ」
そっと、引き出しの中に羊皮紙を滑り込ませて召使の声に答えた。
「誰かしら?」
「見たことのない船ですギョ」
「そう、招待はしていない無礼者なの」
また、彼女の持つ宝を狙ってやってきた愚かな船が来ているということか。
琥珀色の瞳を静かに座らせて、彼女は告げた。
「沈めてしまいなさい」
この宝は、本物のアリスに渡すべきものなのだから。
他の誰にも渡すつもりはない。
だから、早く現れてちょうだい、アリス。
もう会うことのできないアリスに向かって、彼女はそう呟いた。
* * * * *
「やっぱり、ここ海賊船じゃなくて豪華客船だって」
ばふんとベッドに倒れこんで、そう言わずにはいられなかった。
あれからヤマネくんに部屋まで案内されて、アリスが使うのだといわれる部屋に入った……のはいいんだけど。
何度も言うけど、海賊船だと思えないです。
ベッドとサイドテーブルに鏡台。クローゼットに長机、それからふかふかのソファ。それぞれがアンティークのような年代物で、やっぱり薔薇のモチーフが刻まれている。
落ち着いたブラウンと重厚な濃赤、それからランプのオレンジ色の灯りが少し薄暗い室内をそんな風に見せているんじゃないかな。
ふかふかのベッドに顔をうずめると、船の揺れが心地良い眠りを誘ってくれる。
「……って、こんなことやってる場合じゃない!」
がばっと起き上がってわたしは慌てて眠気を振り払った。
なに和んでるんだ。
本当に何やってるんだわたし。
「異世界に来て、海賊船に乗ってるって……」
その上、アリスだとかなんとか。言ってる意味がさっぱり分からない。
胸ポケットから指輪を出して目の前に掲げた。
「ぜーんぶ、この指輪から始まったんだよね」
ため息。
この指輪を手にしたときから、追いかけたときからもう夢は始まってたのかもしれない。
……夢って言うにはやけにリアルだけど。
【神子の玩具】って言われるものを手に入れるために、【主人公】であり【娘】であるアリスを求めてる、か。
わたしがアリスのはずがないから、ヤマネくんの言うアリスの【神子の玩具】を手に入れることなんかできない。
だから、必然的に次の島に下ろされる。そういう覚悟をしなくちゃいけない。
……ん?
「覚悟って、何?」
はた、と気付いた。
どうして覚悟が必要なの?
そもそも、なんの覚悟をしなくちゃいけないの?
「……え?」
これだと、わたし、この船から降りたくないように思っているような……。
ダメだな、さっきちゃんと、誰かが助けてくれるだろう精神になってることに気付いたのに。
子どもじゃないんだから自立しなくちゃいけないと、情けない人間になっちゃうと、チェシャ猫にそう気付かせてもらったのに。
何も知らない、自分ですらよくわかってない場所から一人に突き放される事が恐いと、そう思った。
認めたくはないけど、恐いって思った。
「ダメだ、気分転換しよ」
その時はまだ先だから、それはまだ考えなくてもいいやと。
わたしは部屋を出ようと扉を開けた。
「……あ」
開けた扉の前に、今まさに扉を叩こうとしていたマーチさんがちょっと驚いたような顔をしていた。
「えっと、マーチさん? 何か?」
バンダナをとって、オールバックにしたこげ茶色の髪を顕わにしていたマーチさんは、どこか困ったようにわたしを見て、迷うように言葉を捜している。
沈黙が落ちて、ちょっと気まずい。
「……飯、何がいい?」
「ご飯?」
そう言えば、マーチさんって料理人さんなんだっけ?
ふわりと、いい匂いがした気がした。
「えっと、何でもいいですよ?」
「……そうじゃなくて……」
困ったように頭をかいて、少し眉を寄せた。
何が言いたいのかな?
それが分からなくて、マーチさんの言葉を待った。
「……マッドから、違う世界だからって」
「え?」
「……何がよくて、何がダメか、全然……分からない」
それは、わたしに気を使ってくれているって言うことで……。
そんな嘘のようなわたしの話を、わたしの存在を信じてくれている帽子屋さんと、戸惑いながらもわたしにそれを聞きに来てくれたマーチさんの気遣いが嬉しくて……。
眉がかすかに下がったマーチさんとは対照的に、少し照れくさいけど頬が緩む。
「!」
目を少し見開いて、びっくりした様子のマーチさんが少し慌てたようにぐしゃぐしゃとわたしの頭を撫で下げた。
え? なっ、何!?
「……な、んで」
「何でって、こっちのセリフですよ! なんですかいきなり!?」
「……ごめん」
こわごわと外された手を、どうしていいのか分からなさそうに彷徨わせているマーチさんはしきりに視線を動かしていた。
「えっと、よくわからないですけど。……マーチさんが教えて下さい」
「?」
「どんなものがあるのか、どんな美味しいものがあるのか。マーチさんが、教えて下さい」
わたしは知らないから。
なにも分からないから。
だから、少しでも良いから教えて下さいと、そう浮いたままのマーチさんの手をとって言った。
マーチさんは、やっぱり困ったように視線を彷徨わせて、それから困ったようにわたしを見た。
「……分かった」
少し照れくさそうにそう言ってくれたマーチさんは、微かに笑ったような気がした。
それから、少し考えるように口を開いて、ぽつりと呟いた。
「……マーチでいい」
「え?」
「呼び捨てで、構わない」
チェシャ猫みたいに敬語を使うなとは言ってないけど、それでもさん付けするなって言いたいのかな?
何を思ってそう言ったのは分からなかったけど、そうした方が良いならそうしようかな……。
マーチ、と恐る恐る呼んでみると、何? と表情をそんなに変えないで言われた。
……ちょっと照れくさいかも。
「呼んでみただけです」
「……そう」
特に何か言われるわけでもなく、静かにそう言ったマーチは、ふとわたしの手を持ち上げた。
……そう言えば、マーチの手を握ったままだった。
「あ、ごめんなさ」
「これ……」
慌てて引っ込めようとした手を、逆に掴まれて……
「……【証】?」
手の中に隠れていた指輪をそっと取られた。
「返してっ!」
「アリスの、【証】?」
「知らない! でも、それを返してっ!」
わたしがここにいることになった原因。
わからないけど大切なもので、手放しちゃいけないようなもので……。
他の誰かに盗られちゃいけないもので……。
返してと叫ぶわたしに少し驚いたように目を見開いたマーチは、わたしの手をとって、そっと指輪をわたしの指に通した。
「!」
「……大切なものだから、しっかり持ってないと」
ぴたりと填まったそれに、満足したようにマーチは小さく頷いた。
「……これで、いい?」
「あ、の」
「……ダメだった?」
口をぱくぱくと開け閉めしている、言葉がでてこないわたしに、マーチは不思議そうに首を傾げた。
いや、あの、ダメとかそういう問題じゃなくてねっ!
「……赤い」
「だっ、誰のせいだと……!」
「え?」
かっと熱を持った顔を隠すこともできないまま、本気でわかってなさそうなマーチに言葉を続けるのをやめた。
「なんでも、ないですっ! それより、えっと、そう! わたし、お腹がすきました!」
誤魔化してその理由をひねり出すのに苦労したけど、それでもマーチは特に何も思ってなさそうに分かったとだけ呟いて、わたしの右手を掴んで歩き出した。
きっと、これにも深いわけなんかないんだと思う。
船内なんか分かってないだろうわたしを、食堂まで引き連れて行こうとしてのこと。
それだけ。
「……すっごい天然」
思わずぽつりとこぼしてしまった言葉は聞こえなかったようで、マーチは何も言わない。
聞かれても困るけど、それでも、マーチは天然なんじゃないかと思う。
その行動に深い意味なんてないんだから、深読みしたほうが負けだ。
そう自分を納得させた……いんだけど!
どうしても繋がれてる右手とか、指輪をはめられた左手に意識がいってしまう。
マーチは特に考えてないんだから、左手の薬指に指輪をはめる意味なんかきっと知らない。
赤くなった自分に苦笑しながら、左手の薬指に収まってる指輪をどうしようと考えながら、わたしはマーチの後を追った。




