04.狂った六時のお茶会で
甲板に用意された長机に、白いテーブルクロス。並べられた椅子の一つに座らされて、ちょっと気まずい。
何、この扱い。
「三十分が限界でしょう」
「それでいい」
「かしこまりました」
クイーンさんと自称イカレ帽子屋さんの短いやり取りのあと、自称イカレ帽子屋さんがさっと手を振り上げた。
その瞬間、ぴたりと揺れが止まった。
え? 何? どういうこと?
ここは相変わらず海の上であって、海の上だから揺れ続けているはずで……。
「お茶会のときくらい、こぼれない紅茶を飲みたいでしょう?」
ぽかんとしたわたしに向かって、自称イカレ帽子屋さんは小さく笑った。
そしてひとつ手を叩くと、一瞬で長机の上に甘そうなお菓子や高価そうなティーセットが現れた。
何、これ。
「えっと、魔法かなにかです、よね?」
「そう解釈していただいて構いませんよ」
慣れた手つきで暖かい紅茶を淹れてくれた自称イカレ帽子屋さんに、軽く頭を下げて、目の前に座っているクイーンさんを恐る恐る見た。
一体、何がしたいの?
「あの……」
「時間が惜しい、手短に話す。あぁ、食いたければ勝手に茶請けも食え」
「はぁ……」
わけの分からないうちにあれよあれよと甲板に連れてこられて、意味が分からないままお茶会が始まった。
とりあえず、お茶を一口頂いておこうかな。
不思議の国のアリスをリスペクトしているのかもしれないけど、海賊だって言う彼らと、海の上でお茶会なんかしているわたしって、かなり貴重な体験をしているんじゃないかと思う。
そっくりの顔した貴族のような二人と、ただの小娘のわたしって言うのがかなり妙な組み合わせだとは思うけど。
「お前は、【主人公】たる人物かもしれない」
「……は?」
唐突に言われた言葉に、思わず耳を疑った。
わたしが、何?
「同じことを二度も言わせるな、お前は【主人公】なのかもしれない」
「何が言いたいんですか?」
どこかの誰かが、人間の人生は短いのだから、一人一人が主人公だって言っていた気がする。
そんなことを言いたいってわけじゃないんだろうけど、意味が分からない。
「クイーン、彼女の話を信じるとしたら、【主人公】の存在も、その伝承も知らないのでは?」
「ちっ」
何でそこで舌打ちするの?
面倒くさそうにクイーンさんはぐいっと紅茶を飲み干した。
心得たように、自称イカレ帽子屋さんが空になったカップに紅茶を注ぐ。
「お前は、【神子の玩具】と呼ばれる秘宝の伝承を知っているか?」
「……いえ」
「そこからか」
眉間にしわがよって、深くため息をつかれた。
「彼らは求めた。
【神子の玩具】と呼ばれる秘宝を。
まるで子どものように。
それがどこにあるか、それがどんなものなのかも分からずとも、彼らは捜し続けた。
そして、後に発見された事実に辿りつく。
それは、【主人公】と呼ばれる存在にしか手にすることができない、と。
それは、【神子】が認めた【娘】にしか見つけられない、と。
幾年も年月は流れたが、未だに【神子の玩具】を手に入れたとの情報は、ない」
すらすらと、一度もつかえることもなく言い切ったクイーンさんにビックリした。
暗記するほど伝承を読み込んでるってことだよね、これ。
自分の好きな場面の描写を覚えるってのとは、次元が全然違う。
「ここの伝承内で出てくるキィワード、【主人公】、【神子】、【娘】が確実に【神子の玩具】に辿りつくまでのヒントになっているのは間違いない」
「重要なのは二つ。【神子】が認めた【娘】にしか見つけられないということ。それから【主人公】と呼ばれる存在にしか手にすることができないと言うこと」
……で、それが何?
意味が分からないんだけど。
「あの、質問いいですか?」
「どうぞ」
「【不思議の国】号は、【神子の玩具】と呼ばれる秘宝を求めて航海しているってことですよね」
「……話の流れから察しろ」
無茶言わないでください。
わたしなりに理解すると、【不思議の国】号は、【神子の玩具】と呼ばれる秘宝を求めて航海しているってこと。
某海賊漫画みたいな感じなのかな?
伝説のお宝を手に入れるぜ! 的な。
その秘宝を手に入れるための伝承を解読すると、【神子】が認めた【娘】って人にしか見つけられなくて、それから【主人公】にしか手にすることができないってことが分かったみたい。
それで、その【神子の玩具】を手にすることができる【主人公】がわたしかもしれない、と。
……何、このファンタジー設定。
「えぇと、何でわたしが【主人公】かもしれない、って?」
「アリスはウサギ穴を落ちて不思議の国に来たから、と言えば分かるか?」
「いや、わたしウサギなんて追いかけてませんよ」
「だから、かもしれない、だ」
あくまでも疑惑。
仮定形での話なんだってことを、ジャムをつけたスコーンを口にしながら静かにクイーンさんは言った。
さっき過剰に反応されたのは、そんな条件がそろったようなわたしがいたからってこと?
「【主人公】って、童話の主人公って意味なんですか?」
「童話じゃない、伝承だ」
「はぁ、伝承ですか」
なんてメルヘンチックな伝承なんだ。
よく分からないけど、異世界でも同じ作品があるってことにビックリした。
ルイス・キャロルに誓われたくらいだから、作者は創造主的な存在なのかな?
「【主人公】が伝承関連の者というのは、【神子】によって裏付けされているんですよ」
「裏付け?」
「えぇ、貴女の所有している、その指輪です」
わたしがウサギの代わりに追いかけてきた、不思議の国のアリスがモチーフになってる、この指輪?
「そのような伝承が刻まれた装飾品は、【神子】が【娘】に与えたものだと言われているんです」
「へ、へぇ……」
そんなすごいものが、何で露店に普通に売ってるの?
て言うか、そんなことだったらあっちの世界にある童話関連の商品って全部そうなんじゃないの?
某有名キャラクターのプリンセスシリーズとか、みんなそんな感じでしょ。
「【娘】に与えられた装飾品には、必ずと言ってもいいほど伝承を暗示するものが刻まれています」
それは、登場人物が彫られているでしょう? と。
どうしよう、否定意見しか出てこない。
そんなたまたまって言う偶然に、こじつけみたいな展開に苦笑するしかないよ。
自称イカレ帽子屋さんが、口元に手をあてて、くすりと笑った。
「疑っていますね?」
「……まぁ、一応」
「これでも、いくつか本物の【証】を見てきたので、目は確かですよ」
「いや、ニ、三百円の安物の指輪ですよ?」
「きっと、店主の目が悪かったのでしょう」
まったくと言っていいほど信用できないんですけど。
模造品というか、そんな線も考えてないの?
輝かしい笑顔に押されかけて、困ったようにクイーンさんに助けを求める。
「あの」
「お前がどう思っているかは知らないが、【娘】であり【主人公】かもしれない奴を簡単に手放すつもりはない」
「え……」
「【不思議の国】号にはアリスが必要だ。偽者だろうが何だろうが、アリスがいなくては何も始まらない」
それはつまり、偽者でもいいからアリスになれっていいたいの?
大きな穴から落ちて、【不思議の国】号に乗船させられたわたしを?
「わたしは、アリスなんかじゃないですよ」
「アリスかもしれない。違うかもしれない。断定は誰にもできませんよ」
「いや、それでも」
かちゃりと、クイーンさんがカップを置いた。
言葉が途切れて、びくりとクイーンさんを見上げた。碧い瞳が鋭くわたしを見据える。
「嫌というなら、その指輪をよこせ。ただの小娘には何の価値もない」
ぎゅっと、指輪を握り締めた。
「……脅すつもりですか?」
「人の話を聞いてなかったのか? ここはどこだ?」
ここは、海の上に浮かぶ【不思議の国】号。
クイーンさんの、海賊船だ。
脅しなんか当たり前だと、今更そう強調してくるの?
「それとも、クイーンの名の通りに命令されて欲しいか? お前は妙に伝承に詳しいのだから、ハートの女王の口癖くらいは分かるだろう?」
「……首を刎ねよ、でしょう?」
わたしが固い声でそう答えると、クイーンさんはご名答とでも言うようにきゅっと口角をあげた。
「言われたいか?」
「謹んでご遠慮します」
わたしに拒否権は、始めからなかったみたい。
深くため息をついて、ぬるくなった紅茶を一口飲んだ。
「……【主人公】かもしれない」
そっとカップを置いて、真っ直ぐにクイーンさんの碧い瞳を見上げた。
「【娘】とか呼ばれる存在なのかもしれない。断定ができないあやふやな状態は、互いにとってよくない状況だと思いますけど?」
「……何が言いたい?」
「聡い女王様なら、分かるでしょう?」
ぴくりと、片眉をあげたクイーンさんは切れ長の碧い瞳をますます細くして、わたしを探るようにじっと見据えてくる。
見据えるなんてものじゃない。品定めするかのように、まるで睨まれているみたいだ。
わたしはただ真っ直ぐに見返していた。
恐くないわけじゃない。正直言えばかなり恐かったし、手がカタカタと震えていた。
「……いいだろう」
にやりと、クイーンさんは笑った。
「お前が【娘】か、【主人公】か、アリスか。全てはっきりさせてやる」
そしてふいと手を軽く振ると、ゆっくりと船が進路を変えるためにゆっくりと動き出す。
「マッド、六時のお茶会は終了だ」
「出航いたしましょう」
始まったときと同じように、自称イカレ帽子屋さんが一つ手を叩くと、何事もなかったのかのようにティーセットもお菓子も長机までもが消えた。
一瞬で、たった一回手を叩いただけで!
そして、ぐらりと、また船が上下に揺れて動き出した。
「立て」
手を伸ばされ、ひかれる。
対峙するように立つと、やっぱり背が高いな、なんて。
不安定な足場によろめきながらも、わたしは転ばないように足を踏ん張らせた。
「マッド、船員に連絡しろ」
「何と連絡いたしましょう?」
「この娘を、次の島を出航するまで《仮》アリスとして扱う。命令だ、従え」
「我らがクイーンのご随意のままに」
華麗に一礼し、颯爽と甲板を横切る自称イカレ帽子屋さんをぽかんと見送る。
ぐいと、つかまれたままの手を引かれた。
「《仮》とは言えお前はアリスだ。【不思議の国】号はいつでもお前の力になろう」
誓うように、指先に唇を押し付けられた。
ビックリして、照れることも動くことも忘れたわたしは、ただじっとクイーンさんの顔を見返していた。
わたしを映す対の碧い目が、静かに光っている。
「代わりに、【神子の玩具】を探し出せ、アリス」
どうやってとも、どんなものなのかも分からないまま、わたしはただ黙って小さく頷いた。
「チェシャ猫、どうせそこにいるんだろう?」
「何?」
甲板で静かにそう言ったクイーンさんの言葉に、ひらりと上から誰かが飛び降りてきた。
ぎょっとして身を引くと、するりと手が離された。
ちょっと後ろによろめいたわたしの肩を、とんと支えてくれたのは紫色の髪が鮮やかに写る、男の人。
にやにや笑っているチェシャ猫だ。
「何ビックリしてんの?」
「え、やっ。違くて」
「からかいは後にしろ」
「はいはい。で、何?」
ひょいと肩をすくめたチェシャ猫は、クイーンさんの鋭い視線を軽く受け流した。
「話は分かるな?」
「大体はね。《仮》アリスなんでしょ? で、【神子の玩具】を見つけさせる、と」
「それが分かっていればいい。アリス、分かってると思うがこいつはチェシャ猫」
「もしかしたらよろしく」
にやにやと、後ろから言われた。
もしかしたらって、《仮》アリスだからだよね?
なんだか、釈然としないものを感じながら小さく頭を下げた。
「チェシャ猫、アリスに船員を紹介してやれ。後は勝手が分かるだろ」
「はいはいっと」
あとは特に何も言う事はない、とでも言うようにクイーンさんは船室に向かって歩き出した。
えっと、どうすればいいんだろう。
ありがとうって言うのもちょっと違うよね?
戸惑ったわたしの肩をぽんと叩いたチェシャ猫は、にやにやとしながらクイーンさんの背中を指さした。
「それじゃさっそく。今背中に向けてるアレ、船長」
「……おい」
「船長はやだった? んじゃ、ハートの女王様。この船で一番偉い人で、命令は絶対」
「……おい、猫」
「何?」
肩越しに振り返ったクイーンさんの碧い瞳は、ぞっとするほど恐かった。
低い声がさらに低くて、ぶるりと身震いさせてくる。
それにも関わらず、チェシャ猫はにやにやしている。
なんて恐いもの知らずなんだろうと思う。
チェシャ猫と同じ位置にいるわたしは、心臓を掴まれたような気分なのに。
「間違ったことは言ってないけど? それに、船長ほど言葉足らずなんてこともしてない」
「……次、俺をアレ呼ばわりしたら、その首に命じてやろう」
「そりゃ恐い。気をつけるようにはするよ」
絶対恐いとも思ってないよ。
首刎ねるってニュアンスで言われてるのに、何なのこの人!?
クイーンさんは嫌そうな顔をして、今度こそ船室に戻っていった。
甲板には、わたしとチェシャ猫の二人だけ。
「それで、あんたアリスになるの?」
「アリスじゃない、って言ってるんですけど」
「別にアリスでもいいんじゃない?あの船長挑発してたじゃん。聡い女王様なら~って」
「そんなつもりはなかったって言うか……」
「よっぽど恐いもの知らずだよね、俺も調子にのってみちゃった」
ちゃったじゃない、ちゃったじゃ。
このマイペースと言うか、気分屋って言うか、そんなチェシャ猫に飽きれて言葉なんか出てこない。
「まぁ、なんでもいっか。船長命令だし……」
ふと、チェシャ猫が言葉を切ってわたしを不思議そうに見た。
「ユキ」
「何、ですか?」
「あんたはユキであって、アリスじゃない」
「何が言いたいの?」
「これ超重要。覚えといて損はないってこと」
意味が分からない。
それで、結局は何が言いたいの?
わたしがわたしであるのは当たり前だし、アリスなんかじゃないって、ちゃんと主張している。
「それから、もう一つ」
ずいと、顔を近付けられる。
ち、近いんだけど。
「俺が誰だかちゃんと言える?」
「チェシャ猫でしょ? ……猫じゃないですけど」
「そう、猫じゃないけどチェシャ猫」
よくできました、とでも言うように頭を撫でられる。
髪、ぐしゃぐしゃになるから止めて欲しいな。
顔にまで出たのか、ぐいと頭を押されて否応なしに上を向かされる。
アーモンド形の金色の瞳と真っ直ぐにぶつかった。
「呼び方とか、気にしないから好きに呼べばいいけど」
でもね、と。
「次敬語使ったら、使うたびにその口塞ぐから」
気をつけなよ? と。
まるでネズミでも狙うかのように、にやりと笑いながらチェシャ猫はそう言った。
どこか楽しそうに輝く瞳に、大きく開かれたわたしの黒い瞳が映った。
くすくすと笑ったひょうしにかかる吐息が、顔をくすぐって……それで、どれだけ近い距離か思い知らされて。
「ちょ、近いっ!」
慌てて頭に乗った手を振り払って、よろめくようにして離れる。
けど、上下に揺れる船の上。
慣れないわたしはそう簡単に後ずさりなんかできなくて。
「っうあぁっ!?」
盛大に後ろに倒れこんでしまうなんて、情けないことをしてしまった。
「っくく! たのしー反応。立てる?」
「う―…」
「顔、赤いよ?」
「か、からかわないでく、……からかわないでよ」
「今のはセーフ?」
あ、危ない危ない。
この人さっき言ったこと本気でやるつもりだ。
気をつけないと、乙女としての何かが奪われる。手で覆われるくらいなら可愛いもんだけど、なんか、こう、ニュアンスが違ったような気がする。
深読みしすぎなのかもしれないけど。
「ほら、立ちなよ。帽子屋も知らせてるだろうから、さっさと済ませられそうだし」
にやにやと笑うチェシャ猫に見向きもしないで、ヨロヨロと揺れに苦戦しながらなんとか立ちあがった。
顔が熱い。あんな至近距離であんなこと言うチェシャ猫が悪い。
両頬を少しひんやりする手で覆って、熱を冷まそうとした。
「んじゃ、行こうか。どーせ大した人数はいないし。変なことしてないで、着いてきなよ」
こうさせる原因となったのは誰!?
絶対この人油断ならない!
そう心の中に強く刻み込んで、わたしはチェシャ猫の後を追った。
「ねぇ、大した人数じゃないって、この船には何人乗ってるの?」
「んー? 五人?」
「ごっ、五人!? 五人だけ!?」
「そ。何? そんなに驚くようなこと?」
不思議そうに首を傾げられた。
いやいやいやいや、もっとこう、こんなに大きな船ならもっと普通人いるものでしょ?
漁船じゃあるまいし、たった五人で上手く機能するものな……んだろうね。
もう、異世界だって思うと、なんでもありだとか思えてきちゃう。
「船長に、帽子屋。あとネズミとウサギと俺。あぁ、あんたを加えれば六人だった」
「へ、へぇ―…」
【不思議の国】号の船員は、みんな不思議の国の住人の名前が付いているみたい。
と、すると、チェシャ猫が言うウサギはどっち?
「時計ウサギ? 三月ウサギ?」
「何が?」
「その、ウサギってひわっ!?」
ぴたりと、チェシャ猫が急に立ち止まったから後ろを歩いていたわたしは思いっきり背中にぶつかった。
い、痛い。
「ねぇ、あんた何者?」
「は?」
「何でそんなことが分かるの? それに、さっきちゃんと話すって言われてそのままなんだけど?」
そう言えば、そんなことも言ったような気がする。
振り返ったチェシャ猫を見上げた。
「気になるの?」
「そりゃあもう。久々の退屈しのぎにはなりそうだし」
「そうですか。いつもは暇だと、そう言うことでしょうか?」
「……帽子屋、なんであんたがここにいんの?」
嫌そうに、首だけ動かしてチェシャ猫が振り返った。
そこには相変わらず優美な笑顔を浮かべた、自称……っていうか、暦とした【不思議の国】号のイカレ帽子屋さんがいた。
「我らがクイーンが、きっとあなたに命令を下すだろうと。それくらい予想はできます」
「あっそ。じゃ、そこどいて。あんたの大好きな船長からの命令だし」
「お好きにどうぞ。ですが……」
すっと、クイーンさんと同じ碧い瞳が細く光ったように見えた。
「《仮》とは言えアリス。丁重に扱いなさい、チェシャ」
「余計なことは知らなくていいってこと? はいはい。偽者アリスだったら感情移入はするな」
「チェシャ」
鋭く抑えた声が、チェシャ猫の言葉を遮った。
「これも言うなって? ついうっかり口が滑ったことにしといてよ」
やれやれとでも言うように、チェシャ猫はひょいと肩をすくめてイカレ帽子屋さんの脇を通り抜けた。
後に続いたほうがいいのかな?
ちょっと悩んだわたしが動けずにいると、ふっと、表情を優しくしたイカレ帽子屋さんがわたしを見た。
「アリス」
「……一応、《仮》ですけど」
「では、《仮》アリス」
すっと、右手を優しく持ち上げられた。
「私はイカレ帽子屋。マッドとも帽子屋とも、お好きにお呼び下さい」
「紅茶狂いってわけでもないみたいなので、帽子屋さん、でも?」
「お好きにどうぞ。ただ、私が紅茶には目がないというのは本当ですよ?」
冗談っぽく言うものだから、小さく笑ってしまった。
そこはちゃんと忠実なんだって、ちょっと嬉しいとか思ったり。
優しい雰囲気の帽子屋さんは、ふと、眉根を下げた。
「あの、何か?」
「……先ほどの非礼、申し訳ありませんでした」
「へ?」
「感情に身を任せて、貴女を怯えさせてしまいました。非礼を申し上げるには少々遅いことかと思いましたが、それでも」
「い、いえ気にしてませんから! そうお気になさらないで下さい」
何の事を言っているのかはさっぱりわからないけど、とりあえずそんなに申し訳なさそうにされても困る。
むしろこっちが悪いことをしたように思えてくるのですが。
自由な左手でぶんぶんと否定すると、ふわりと、微笑を浮かべられた。
見とれるような、綺麗な微笑。
「アリスの寛大な心に、最大級の感謝を」
「!?」
手の甲に、お姫様にするようなキスを落とされた。
なっ、なにこれっ!?
手へのキスはもう挨拶代わりですか!?
わたし生粋の日本生まれで日本育ちなので、慣れてないのですがっ!?
妙に慌てだしたわたしは、オロオロと、視線を彷徨わせた。
どっ、どうすればいいのかなっ、こういう時はっ!
「ねぇ、もういい?」
妙に冷めたチェシャ猫の声に、苦笑してようやく手を離してくれた帽子屋さんから逃げるようにわたしはチェシャ猫の後ろに隠れた。
わっ、わっ、わああああっ!
ビックリしたビックリした!
また熱くなった顔を押さえて、自分を落ち着かせようと深く息を吸った。
「おや、猫に懐かれていらっしゃるのですか?」
「さぁ? あんたよりましだって思われたんじゃない?」
「……ご気分を害したことをしたのでしたら、申し訳ありません」
「いっ、いえっ!」
え? もしかしてへこんだ?
心なしか沈んだ声が聞こえたから、わたしは慌てて声をあげた。
まぁ、相変わらずチェシャ猫の後ろで、だけど。
「……ねぇ、俺あんたの壁じゃないんだけど?」
「むっ、無理やだ今見られたくない」
「はぁ? 何言ってんの?」
意味が分からないとでも言いたいようで、チェシャ猫はわたしを押しのけて先に進もうとする。
「待っ」
絶対今顔赤いんだから、少しくらい察してくれてもいいのにっ!
必死で顔を隠して、でも、小さく帽子屋さんに頭を下げて、わたしはチェシャ猫の後を追いかけた。
しばらく廊下を歩くと、他の扉より少し大きくて頑丈そうな扉の前でチェシャ猫は止まった。
「ここは?」
「食堂」
「なんか、さっきより機嫌悪くない?」
「気のせいじゃない?」
気のせいなのかな?
なんて言うか、そっけない感じがするんだけど。
そんなわたしの疑問も、食堂の扉を開けた瞬間にふっとんだ。
「わぁ……」
やっぱり豪華客船じゃないのここ? って言いたくなるような、そんな立派な食堂だった。
きらびやかな豪華って言うか、違和感なく自然と調和した落ち着ける場所って感じ。やっぱり、ここでも海賊船って思えない。
白というよりは、薄いクリーム色が基調とされた部屋に、丸テーブルとカウンター。所々に観葉植物が置いてあるのが、気遣いされてるのかなって思う。
船内でも、一番日が射しこんでくるようにされているのか、灯りなんか必要としないくらいに明るいし、暖かい。
「……なんで猫がここにいるんですか」
珍しそうに食堂を見回していたわたしは、カウンターに座った……男の子? が嫌そうな顔をして声をかけてきたことに気付いた。
「何? 俺がここに来たら悪いことでも起こるの?」
「しかも、機嫌悪いですし」
「ねぇウサギ。そこのネズミさばいて肉料理作ってよ」
「冗談を真に受けないで下さいよ、お願いですから」
カウンターの中に向けて声をかけてるってことは、誰かもう一人……ウサギって呼ばれた人がいるってこと、だよね?
食堂だから、コックさんとか?
「ユキ、あれネズミ」
「ネズミってことは、眠りネズミ?」
「本人に聞けば?」
それじゃ、と引き返そうとしているチェシャ猫を慌てて引きとめた。
それだけはないでしょ!
ここに一人置いてくとか、酷くない!?
「何?」
「い、行っちゃうの?」
「俺がいなくても別にいいでしょ? 子どもじゃあるまいし。それとも何、俺がいないと寂しいの?」
「そ、うじゃなくて……」
確かに、わたしがしようとしてたのはそうなんだけど!
そう言われたら、自分がいかに情けないか思い知らされて、否定した。
「そ。なら離してくれてもいいんじゃない?」
「……ごめん」
思わず掴んだ腕を離す。
ダメだ、誰かが助けてくれるだろう精神になってる。自立しなくちゃ、情けない人間になり下がっちゃう。
「ここまで連れてきてくれてありがとう」
「お礼を言われるようなことじゃないんだけどね。船長命令だし」
ま、後はがんばって。
そう言い残して、チェシャ猫は食堂から出て行った。
後に残されたわたしは、何をすべきか。そんなことは言われなくても分かってる。
落ち着かせるように、指輪がある場所に手を添えた。小さく深呼吸して、前を向く。
「【不思議の国】号の《仮》アリスになったの。よろしく」
カウンターに座ってた男の子が、きょとんと、大きな瞳を見開いた。
「キミがアリスだったんだ」
「え?」
「船酔い、大丈夫みたいだね」
「……あ、あぁ! 水くれた人」
気遣いの言葉をかけられて、ぽんと思い当たった。
船酔いが酷くて顔までは見てなかったけど、水を差し入れてくれた声だ。確かに、チェシャ猫がネズミ言ってたかも。
隣おいでよ、とカウンター席に招かれてわたしは素直に従った。
さらさらした淡いブラウンの髪を短く切りそろえた、男の子。少年って言うにはわたしと同じくらいの身長っぽくて難しいかな? 大きなエメラルドの瞳が子どもっぽいって思わせるのかもしれない。
なんていうか、透明な印象を与える少年って感じ。
「さっき、マッドから聞いたよ。次の島を出航するまでアリスとして扱うって」
「《仮》だけどね」
「自分がアリスだって、言わないの?」
「わたしは最初からアリスじゃないって、言ってはいたんだけど」
「あぁ、クイーンが可能性は捨てきれないって言ったんだよね? いつものことだけど」
あはは、と苦笑するネズミくんにつられて苦笑した。
「うん、でもとりあえずはよろしく。僕はヤマネ。この船ではまだまだ下っ端だけど、困ったときは頼って?」
「ヤマネくんね。ありがとう、お言葉に甘えちゃうかも」
「遠慮なく頼ってよ」
にこっと笑ったその笑顔が胸にきゅんときた。
何この可愛い生き物。男の子にしておくのがもったいないくらいの、羨ましい可愛さだ。
絶対誰にでも可愛がられるって、断言してもいいかも。
「それから、そっちにいるのがマーチ」
「そっち?」
カウンターの向こうに向けられた視線をたどると、そこは厨房だった。やっぱり、海賊船にしておくには立派過ぎる設備だとは思うけど。
そこでグラスを磨いていたバンダナを巻いた男の人が、ふと、こっちをみた。
この人が、ウサギさん?
「……よろしく」
「えぇと、三月ウサギの方ですか?」
「……マーチでいい」
「はぁ、マーチさん」
そっけない言葉と向けられた無感情の瞳に、あんまり話しかけないほうがいいのかな、って思った。
首が痛くなりそうな長身で、無心でグラスを磨いているその様子はちょっと近寄りがたい雰囲気を出している。
「マーチはちょっと無愛想だけど、いい人だよ。少なくとも、猫よりは」
「チェシャ猫より?」
「うん、あの、猫よりも」
あのを強調して言うヤマネくんに、そんなにチェシャ猫が苦手なのかなって。
チェシャ猫も言ってたけど、ヤマネって言っても、ちゃんとした人間の男の子なのに。
「……キミがアリスってことは、またあの島にいくのかな?」
「あの島?」
「あれ? 聞いてない?」
きょとんと、目を丸くしたヤマネくんに思わず頬が緩んじゃいそうになる。
いけない、いけない。
「【不思議の国】号のアリスって認められるためには、アリスの【神子の玩具】を手にしなくちゃいけないんだ」
出た。
お約束って言うか、お決まりの試練的何か。ファンタジーの王道を突っ走ってる気分だ。
あれでしょ。勇者と認められるには、試練の祠に行って証をとってこいみたいな。
「ほら、【不思議の国】号って、海賊船っぽくない海賊船だからさ。競争率高いんだ」
「海賊船っぽくない海賊船ってのは同意だけど。えっと、そんなにいっぱいいるの? アリスって」
「自称アリスはいっぱいね。ほとんどがマッドやクイーン目当てでそう名乗った令嬢だったけど」
なんか納得。
確かに、クイーンさんや帽子屋さんって、無駄に色気が出てるしかっこいいし、お姫様扱いしてくれるもんね。
憧れる気持ちは分かるけど、わたしはもう遠慮したいかな、わたしの心臓のために。
っていうか、海賊船に乗り込める度胸がある令嬢ってすごいな。想像したら、なんだか怖かった。
「すごい根性……」
「僕もそう思う……」
思わず呟いたわたしの言葉に、しみじみと納得してくれたヤマネくんと顔を見合わせて、同時に噴出した。
声を上げて笑えるなんて、ヤマネくんといると落ち着けるから不思議だ。
何も分からなくて弱り果てていたさっきと比べると、うん。全然気が楽。
「えっと、で、なんだっけ?」
「……夫人の島」
「あぁ、そうそう。これから公爵夫人の島に行くんだ」
マーチさんの静かな声に、ぽんと手を打ったヤマネくん。
いちいち動作が可愛いな、なんて思ったことを口にはしないけど。
「公爵夫人の、島?」
「そ。【娘】が何人か訪れてはいるけど、アリスにしかその【神子の玩具】は手に入れられないって、言われてるんだ」
だから、それを手に入れられれば、本物のアリスってこと。
そう言ったヤマネくんは説明しなれているっていうか、その自称アリスに何回も言ったんだろうなって、思った。
「キミは本物のアリスなのかな?」
「きっと、偽者だと思う」
「珍しいね。ここは、馬鹿言わないで! とか、ネズミのくせに生意気! とか言うのが普通だったんだけど」
「だって、本当のことだもの。わたしはちゃんと、アリスじゃないって言ってるし」
「……変わってる」
ぼそり、と呟いた抑揚のない声に顔を向けた。
マーチさん、だよね?
「……そう、ですか?」
「……あぁ」
相変わらずそっけない返事だけど、それでも会話する気はあるみたい。
ただ単に、そんなに口数が多い人じゃないってだけなのかな?
「そうそう、いつもなら僕がこうして話すだけで怒るもんね。キミは怒らないの?」
「どうして怒らなくちゃいけないの?」
「生意気な口利いて! とか。敬語のほうがいいんでしょう?」
「そんなことで!? て言うか、わたしは普通に話してくれたほうがいいな、なんて……」
いや令嬢なら、そう言うかもしれないけど。
でも、わたしはただの一般人であってそこら辺の女子高生だったから、それで怒るのはおかしいと思う。
ここでは、異邦人だし。
郷に入っては郷に従えってやつだと思う。
「ほら、そんなこと言うんだもん。やっぱり変わってる」
「普通だと思うんだけどな」
困ったように言うと、ヤマネくんは何故か嬉しそうに笑った。頬を赤く染めて、満面の笑顔で。
こっちが恥ずかしくなるような、そんな笑顔だった。
「キミが本当にアリスだったらいいのに」
そしたら、僕がこの先絶対守ってあげれる。
そう、悲しそうに言った。
わたしにはそれに返す言葉が見当たらなくて、顔をうつむけた。
だって、わたしはアリスじゃないもの。
不思議な出来事に巻き込まれた、ただの、小娘。
夢から目が覚めるのが先か、この船から下りるのが先か。異世界にいるのか、これは、今日あったこと全てが夢なのか、それすら分からない。
でも、どこかで、これはありえないことだから、いつか終わりが来るものだと分かっていた。
そう、割り切っていた。
「……アリス」
抑揚のない声に呼ばれて、顔を上げる。
「……わたしは《仮》です」
「……魚と蛙は平気?」
「は!?」
いや、わたしの言葉は無視ですか!?
ちょっと、いきなり何? え? 魚が、何?
「……魚と蛙は平気?」
「どちらかと言えば、苦手ですけど。あのゲテモノ類は、……触りたくないっていうか」
「……それは、ちょっと困る」
だから、何が困るんですか。
困ったように小さく呟いたマーチさんに、聞くことも出来なかったわたしだったけど、後にその意味を身をもって知ることになった。
そんなこと、今は知らないけど。




