08.足跡を辿り向かう先
「ジャック! あんたいつまでそこで寝てるんだいっ! イルギン、遠慮なく叩き起こしなっ!」
「だとよジャック。いい加減起きろー」
慌しく戻ってきたホーンの様子など特に気にもせず、イルギンは片腕でやる気なくジャックの頬を叩いた。
ぺちぺちと叩かれているジャックに、目覚める気配ばない。
そんな光景など眼中にないホーンは、アジトの奥へずかずかと突き進む。
その顔は、どこか青ざめながらも怒りの形相だった。エメラルドの瞳を吊り上げて、奥の部屋でぐだぐだとカードを弄っていた野郎共を見下ろし、腹の底から声を出す。
「仕事だよっ! 今すぐに動き出しなっ!」
【トナカイの角】の男たちは、ぎょっとしてカードを投げだし、条件反射のようにぴしっと背筋を伸ばして立ち上がった。
「堕落しても、あんたたちの腕は鈍ってないだろっ? 親父の代わりに指示を出すから従いなっ! 【トナカイの角】を動かすよ!」
「ホ、ホーン? 一体どうしたって」
「あたいが聞きたい返事は一つだけだよ! 返事はっ!」
「お、おう……!」
戸惑いながらもホーンの迫力に推され、彼らはそろって返事を返した。その様子にホーンは一つ頷き、一人一人に指示を出す。
「ルーフェ、あんたは今まともな奴に連絡をとりなっ!」
「お、おう!」
「アグムは今狂っちまってる【トナカイの角】の奴らの居場所を突き止めな! レギクスとジズを引き連れて行って構わないからね、殺すんじゃないよ!」
「分かった。おい、行くぞっ! ぐずぐずすんなっ!」
「ゴーヴェン。あんたは城の見張り。兵が来たらすぐに知らせな。あんたの手下全部引き連れて、国中くまなく見張るんだ、失敗は許さないからね!」
「俺を誰だと思ってやがる? みくびるんじゃねぇ!」
「頼もしい限りだね。後動ける奴は各町に散らばって、何か変わったことないか情報収集! いいかい、決して一人で行くんじゃないよ!」
「おうっ!」
「……あぁ、ルーフェ、あんたは連絡つけたら待機」
勢いよく飛ばされる指示に、素早く動く男たち。
白フクロウの伝達筒に入れるメモを作成している青年に向かって、ホーンは思い出したように付け足した。
「はぁっ? なんでだよ!?」
「あたいを甘く見るんじゃないよ、あんたが左肩痛めてるのは知ってんだ。イルギンと大人しく待ってな」
無理すんじゃないよ、とばかりにその痛めている肩に手を添えられ、釈然としないものを感じながらもルーフェは頷いた。
「あんたが動きたくて仕方ないのは分かるさ。だけどね、これは前準備に過ぎないんだ」
「ホーン、お前一体何をしでかすつもりなんだ?」
「これから行う、でっかいことさ!」
その本番に備えて、今は大人しくしておきな。仕事は後で嫌と言うほど与えてやるからね。
そう続けたホーンは、ルーフェに向かってニッと笑いかけた。しばらくホーンを見つめていたルーフェだったが、やがて仕方ないな、とでも言うかのようにゆっくりと息をつく。
「了解だ、お頭の娘の指示に従う」
「よし。んじゃ、イルギンと同じ薬でもつけて耐えてな」
「うわっ、あれだけは勘弁」
どこかおどけたように笑うルーフェは、再びメモの作成に取り掛かっていた。
何故、ホーンのような小娘の支持に従わなければならないのだ、と反発するものはいない。年が一回り以上も離れている者だって中にはいる。
それでも反発しないのは、ホーンが【トナカイの角】の娘だからだろう。
自分たちのお頭の娘だから、信頼できる。お頭の娘だからこそ、こうして従えるだけの安心感がある。
親の七光りだけではなく、ホーンが実際に自分達と何度も同じヤマをくぐり抜けてきただけの実力を兼ね備えていることを自分たちは知っている。だからこそ、従おうという気にもなれるのだろう。
この【トナカイの角】の娘なら、自分達の娘であるというのも同じ。娘の成長を見守るのも、手助けするのも、自分達の役目なのだから。
「立派になったもんだ、あのじゃじゃ馬が」
昔は自分の気に食わないことがあると、おぶさっていた母親の耳を引っ張ったり噛み付いたりしていた、あのきかん坊が。今では【トナカイの角】をお頭の代わりに引っ張っていくような立派な山賊になって。
イルギンはしみじみと頼もしく成長したホーンを見ていたが、ふいに視線がばっちりと合った。
「なんだい?」
「いーや、なんでもねぇよ」
「ならい……こんの馬鹿まだ起きないのかいっ!? イルギン、どきな!」
「あ、こらホーン!」
イルギンの制止もむなしく、つかつかと歩み寄ってきたホーンは、未だ意識を取り戻さないジャックの胸倉を掴み上げ、拳を固めた。
「いい加減起きなっ! この、最低男っ!」
「いっ!?」
勢いよく拳を振り下ろされたジャックの頬から、みしり、と嫌な音がなった気がした。
……これさえなけりゃぁな。
その様子を後ろで眺めていたイルギンが、小さく溜め息をついたことをホーンは知らない。
* * * * *
冷たい冬の風。舞い落ちる粉雪。
ちらほらとわたしの頭や顔に着地して、熱を奪って溶けてゆく。吐く息は白くて、指先も赤く冷たくなっている。
空は曇り空のまま。風は微風。風向きまでは、ちょっと分からないかな。
下ろした長い髪が風にもてあそばれるのを押さえながら、そっと見上げた。
普段は帆を張られて、その姿を下からは見ることができない主要マストの見張り台。そこにいるんじゃないかって、勝手にそう思ってこんな寒い甲板に出てきた。
ねぇ、チェシャ。チェシャだよね? わたしのところに来たのは。
どうして、わたしのところに来たの?
何を言ってくれたの? 何を考えていたの?
わたしは、あなたを避けてなんかないよ。もう、怖くもない。
「チェシャは、ずるい」
自分の好きなときに現れて、わたしの都合なんかちっとも考えてくれない。そんな自由奔放なのがチェシャ猫なんだろうけど。
でも、わたしが伝えたい言葉は、一つも伝えさせてくれない。
意地悪にもほどがあるよ、本当にもう。
「……本当に、ずるい」
船縁に積もった雪を払って、そこに肘を置いた。腕を組んで、あごを乗せてみる。
呟きは白い息の中に溶けて消えた。今ここで何を言っても、きっと全部伝えたい相手に届く前に消えてしまうんだろうな。
どうせ届かないって分かってるなら、ここで全部吐き出してしまおうかな。なんて、そんなことを考えた自分に自嘲を漏らした。
「……アリス?」
「うわっ、と、あ、はいっ!」
そんなときに後ろから声を掛けられたものだから、ものすごくビックリした。よかった、本当に口には出さなくて。
もし心の声聞かれてたら、今すぐに海に飛び込んでしまいたくなるところだった……!
「驚かせた……?」
「あ、いや。マーチのせいじゃないので」
軽く首を傾げられた。そりゃそうか、声を掛けただけなのに、ちょっと大げさに反応しすぎたもんね。ごめん、マーチ。
「それより、マーチが甲板に出てくるなんて、珍しいですね」
「……雪が積もるから、こまめに雪下ろしをしないと」
ちょっと積もっただけでも、船の総重量が変わってくるから。
そう続けたマーチは、船の雪下ろしの前に、わたしに降り積もった雪を軽く払ってくれる。な、なんだかくすぐったい。
動いてもいいのかどうか分からなくて、とりあえずじっとしていると、さらりと頬に触れられる。
「……冷たい」
マーチの手は、暖かい。冷えて赤くなった頬に添えられた大きな手は、じんわりとぬくもりを分け与えてくれてるみたい。
冷えた自分の手を重ねると、マーチはぎょっとしたように手を引いた。
「……ごめん」
「え? や、わたしの方こそスミマセン」
何をやってるんだろう。よくよく考えてみると、わたしの行動っておかしくない?
いや、わたしの行動って言うか、今の状況?
「寒いなら……、中にいた方がいい」
あれ? と考え込んでいるわたしの両頬をそっと包んで、マーチは目線を合わせるように屈んで……屈んでこないで! 近い! 近いから!
わたわたと妙に慌てるわたしの心の中なんか、マーチに伝わるはずないだろうけど。でも、あのですね!
顔が熱いのは、マーチの手のぬくもりのせいじゃないような気がするのですが!
「こんなに、赤くなってる」
「いや、あの、大丈夫! むしろ、全然っ! ちょうどいいくらいだから!」
「……でも、震えてる」
別の意味で、そりゃもう頭の中大パニック中ですから。
顔が赤いのも、体が小さく震えるのも、今すぐマーチがその手を放してくれれば、きっとすぐによくなるだろうから!
「あの、マーチ?」
「何……?」
「ちょっと、放してもらっても、いいかな?」
控えめに頼んでみると、マーチはそっと手を放してくれた。
吹き付けてくる冷たい風が心地いいって思えるくらいに、わたしの顔は熱かったみたい。
激しく胸を叩く心臓を押さえて、深く息をついたわたしを見て首を傾げるマーチは、やっぱりというかなんというか、特に意識していない行動なんだよね。
分かってたけど、これ心臓に悪い……!
「そんな薄着じゃ、風邪引く」
「だ、大丈夫。これ意外と暖かいんですよ?」
「そう?」
わたしは今、ダムさんとディーさんが仕立ててくれた、あの丈の短くて薄い偽者アリスの服の上から、ホーンと一緒に編んだ厚手のショールを羽織っている。
さすがにすぐこんな寒い場所に行くなんて思いもしなかったんだろうから、冬服が一枚も無かったんだよね……。かろうじて、ニーソの代わりに厚手のタイツがあったくらい。ないよりましだから、それ履いてるけど。
ショールの前をかき合わせてるだけだけど、これからずっと外にいるのに、それに耐えられなくなるのが怖いんだよね。ホーンのところで着ていた暖かい服なんてここにはないし。
「わっ!?」
そんなこと考えていたら、ぱさりと、上から何かを被せられた。
肌を刺すような風が遮られて、それだけでも暖かい。でも、それだけじゃなくて……
「着てて」
「え、ちょ、マーチ?」
マーチが羽織っていたコートだってことに気付いて、慌てて返そうとしたけど、マーチはするすると補助ロープを伝って畳まれた帆の部分まで上がってしまった。
返すに返せないじゃないか、なんて。温かさに包まれたわたしが言う言葉じゃないな、これは。
「……ありがとう」
きっと聞こえないだろうけれど。
袖も丈もぶかぶかになるだろうそれを肩から羽織って、マーチが作業している方向に向かって呟いた。
ここからじゃ遠くて、何をやっているのかはよく分からないけれど。ちらほらと舞い降りてくる粉雪が、マーチがいるだろう辺りからは少し多く落ちてきている気がする。
ゆっくり動くマーチはこうした作業にも慣れているのか、落ちないかなって、そう心配させない。なんだか安心して見ていられる。
「アリス、そろそろ上陸するけど、準備できた?」
マーチが雪を落としている光景をしばらく眺めていたそんな時、ヤマネくんがひょいと甲板に顔を出した。
「うん、大丈夫。今行く」
準備するものなんか、わたしにはない。しいて言うなら、わたしの中の考えがまとまるかどうか。
それから、【主人公】らしく、諦めずにやりとげられる心意気でいられるか。
そんなもの、本当はどこにもないけど。でも、やれるだけのことはする。そう決めてる。
借りていたコートを畳んで、見上げる。
「マーチ、ありがとう! ここ置いときますね!」
声を大きく叫び伝えると、マーチは片手を上げて応えてくれた。
伝わったなら、いいかな。綺麗に畳んだそれを、雪を払った積荷の上にそっと置いて、ヤマネくんの方へと駆け出そうとして……止まった。
「アリス?」
ヤマネくんが不思議そうに声を掛けてくるけど、待って。
だって、わたしまだこれ言ってない。
「マーチ! それからチェシャも!」
姿は見えないけれど、きっとそこにいるんでしょ?
マーチに声が届いているなら、チェシャにも聞こえていると信じて。わたしは、にっと口端を持ち上げて叫んだ。
「いってきますっ!」
だから、わたしが帰ってきたときには、おかえりって、そう迎えてもらえたら嬉しい。そんな思いを込めて笑った。
「行こう?」
「うん」
いってらっしゃいの声は聞こえてこなかったけど、きっと届いているよね?
そう信じて、わたしはヤマネくんの後を追って船の中へと入った。
「えっとね、船を陸に近づけると兵士が来ちゃうだろうから、上陸はマッドの魔法で行くことになってるんだ」
と、言うことは、今船長室に向かっているのかな? あの公爵夫人の島に上陸したときみたいに。なんだか懐かしい、とか思ってしまうのは、わたしだけかな?
日が昇っていると言うのに、薄暗い船内に灯る橙色の明かり。わたしとヤマネくんの足音が、赤い絨毯に沈んで微かにしか聞こえない。
「あとは、えっと……。ダムとディーの仕立ててくれた服の中に、コートとか入ってなかった?」
「あ、うん。やっぱりあの短時間で仕立てるのは難しかったんじゃないかな?」
「うん、そう二人も言って嘆いていたから、今日追加で送られてきていたよ」
「……え?」
ごめん、今なんて言った?わたしの聞き間違いじゃなければ、送られてきたって……?
「はい、これ。他は全部部屋に運んでおいたから、後で確認してね」
腕に掛けていた濃紺のファー付のコートを、ぽんと手渡される。
フードの周りや袖口、あとやっぱり短めの裾元につけられた薄水色のファーはとっても可愛いんだけど、あの。 なんで今必要だって分かったのあの二人……!? 見計らったように贈られてくるとか、どこかで監視とかされてないよねっ?
思わずきょろきょろと辺りを確認してしまうのは、これはもう仕方ないよねっ!?
「そんなに警戒しなくても、ここにダムとディーはいないから」
分かるよその気持ち、とどこか同情されるようにヤマネくんに肩を叩かれた。ありがとうヤマネくん。
「さ、アリス。それを着て? 外は寒いから風邪引いちゃ大変だよ」
「あ、うん。そっか、そのまま外に移動するんだもんね」
ふわふわと揺れるもふもふのファー付コートは、当然なんだけどサイズがぴったり。動きにくくもないし、暖かい。風も多分通さないんじゃないかな?
色々と言いたいことはたくさんあるけれど、でも、本当に、腕だけは確かなんだよね。ダムさんとディーさん。
「うん、やっぱり可愛いね」
「あ、うん。このファーが特に可愛いよね!」
「違う違う、そのコートも可愛いけど、やっぱりアリスは何を着ても可愛いなって」
……一瞬、何を言われたか分からなかった。
あ、れ? つまり、それは、あの、うん。
「あ、ありがとう……」
お世辞と分かってても、そうストレートに褒められたら、なんだかくすぐったいような恥ずかしいような……。
特に意味も無く頬に掛かった髪を除けてごまかしてみたけど。そう無邪気に笑うヤマネくんの方が可愛いと思うんだけどな。
ダッフルコートのような、でも素材がちょっと固そうなそれ。わたしのと同じ濃紺だけど、それがなんだかヤマネくんを大人びて見せているような気がする。
笑うと可愛いのは変わらないけど、なんだか急に成長されたって気にさせられるような、そんな感じ。受ける印象が全然違う。
わたしが色々戸惑っているうちに船長室の前まで辿りついたみたいで、ヤマネくんが軽くノックをした。
「クイーン、ヤマネです。アリスを連れてきました」
「……入れ」
失礼します、と軽く断りを入れたら、これもどこかで予想していたんだけど内側からドアが開けられた。予想通り帽子屋さんのお出迎え。どうぞ、と促される。
ヤマネくんと帽子屋さんが揃うと、笑えないくらい淑女扱いされるよね、わたし。それに慣れてきているわたしもわたしだけど。
いつぶりだろう、船長室に入るの。ゆっくりと足を進めると、少し煙たい室内に薔薇のモチーフが入った調度品の数々。その奥にある執務机にいるのはもちろん。
「……準備は良いか?」
煙管をくわえた、我らが船長だ。
鋭い碧眼で、わたしを見下ろされる。感情が読めない雪の女王とは正反対の、深い深い碧。
その瞳に映るだけで、勝手に背筋が伸びてしまうような、そんな威圧感をまだ覚えるけど……。
「いつでも大丈夫です、船長」
でも、だからこそ、きりりと気が引き締まる。
この人の期待に応えたいと思う。それと同時に、この人に期待を掛けてもらえるような、そんな人になりたい、とも。
「僕らも、準備はできてます」
「では、参りましょうか。クイーン、どうぞご命令を」
すっと、横に立ち並ばれる。
右側のヤマネくんがわたしに向かって微笑んで、そっと手を握ってくれた。
左側の帽子屋さんは、さりげなく羽根付き帽をかぶり直しながら、そっと腰に手を回される。
三対の瞳で船長の命令を待っていると、船長は、煙管をことりと執務机に置いて、立ち上がった。
そして口を開く。
「『雪の女王』の【神子の玩具】を手に入れて来い」
ゆっくりと、視線を合わせられる。
それから、片頬を軽く上げて……
「【不思議の国】号のアリスなら、できて当然だろう?」
挑発された。
そんなの、答えは一つしかないに決まってるじゃないか。もちろん、それ以外に答える言葉なんか、言うつもりないけど。
「そんなの、当たり前です」
だからそこでどうぞふんぞり返って見ていて下さい。
ハートのジャックの裁判をひっくり返したアリスのように、貴方の予想を上回ってみせますから。
そう大口を叩いてみせると、船長は少し瞳を見開いて、今度は本当に口元に笑みを描いた。
「それは楽しみだ」
そんな船長の言葉を最後に、わたしたちの視界は光に包まれた。
* * * * *
「……いってきます、だって」
ロープを伝って見張り台まで辿り着くなり、マーチはぽつりと言葉を零した。
「知ってる」
吹きさらしになっている見張り台は、薄っすらと雪が積もっていた。そこに人がいるにも関わらず、手すりや台の中までも白く染める。
無造作にそこに座り込んでいたチェシャの紫色の髪にまで、雪が積もっている。なんとはなしにそれを払おうとしたマーチだったが、その手が髪に触れる前に振り払われてしまった。
「ウサギに聞こえてれば、俺にだって聞こえてる」
「……チェシャ」
「何?」
「不機嫌、なのか?」
こんなところで雪も払わずに座り込んでいるなんて、正気の沙汰じゃない。チェシャはしっかりと上着を着込んでいたが、その頬や指先は真っ赤に染まっていた。
「あんたにはそう見える?」
アーモンド型の瞳を細めて、ゆっくりと見上げられる。マーチは少し悩んだ後に、こくりと頷いた。
「見なよ」
そんなマーチに向かって、チェシャは己の手を掲げて見せた。
寒さから赤くかじかんだ手。剣だこだか銃だこだか分からないくらい、あちこちが固くなっており、歪な形をしている。細かな傷がいくつもついており、お世辞にも綺麗だとは言えない。
「俺の手、赤くなってる」
「……ここは、冷えるから」
「違うし」
挙げていた手が、ぱたりと下ろされる。同時に、金色の瞳も閉じられた。
「俺の手は、洗っても落ちないんだ」
赤い、血が。たくさんの人を切ってきたその返り血が、こびりついて落ちない。
「まぁ、今まで気にした事もなかったけどね」
「……赤く染まってるのは、俺も同じ」
「さぁ、どうだろうね。あんたはユキに触れても、拒絶はされてないし」
「アリス……?」
どうしてそこに彼女のことが出てくるのだろうか。
ただ、チェシャがそのことを気にしているのだけは分かる。否、マーチにはそれしか分からなかった。
「……チェシャは、アリスが嫌いなのか?」
「まさか。あんなに楽しい遊び道具は他にないし。嫌いどころか大好きだね」
「それなら、いい」
チェシャが彼女のことを気に入っているのは良く分かる。公爵夫人の島に行く前にそんなことを話したのだから、きっと違いない。
嫌ってなければ、それでいいじゃないか。そう考えてしまうのは、ただ単に自分が人の感情に疎いからだろうか。
「アリスは、いってきますって。そう言ったから」
「それはさっきも聞いた。あれじゃない? ウサギがいつもおかえりって言うから、そう言ったんじゃないの?」
「……あぁ」
そう言われてみれば、そうかもしれない。
マーチは確かに、船員が帰船すると、決まっておかえりと言う。それはもはや癖のようなものなのだが、他の者にとっては違うのかもしれない。
「いってきます、って言ったなら……帰ってくる気がある。そういうことだと思う」
「……何が言いたいわけ?」
チェシャは意味が分からない、とでも言うかのように片眉をあげた。
自分が思っていることを伝えるのは難しい、と思いつつも、マーチは再び口を開いた。
「アリスなりに【不思議の国】号の一員になろうとしているんだと思う」
「偽者アリスなのに?」
「だからこそ、余計に。この船に馴染もうとして……、【不思議の国】号を好きになろうとしてくれているんじゃないかって」
空から落ちてきた彼女は、自分たちの求めるアリスとは違っていたが、それでも、彼女は彼女のできる限りの知恵と機転を働かせて【神子の玩具】を手に入れようとしている。
今も、慣れない場所で、いや、彼女にとっては慣れない世界で頑張ろうとしているのだ。
どうしてそこまで頑張ろうとするのだろう。時折そう疑問に思っていたりもしたが、彼女が再び【不思議の国】号に戻ってきてからは、そう思うようになった。
それが、ただの自分勝手な思い違いかもしれないけれど。
「……ウサギの勝手な妄想かもね」
「かもしれないけど……」
それでも、彼女がここを帰り場所としてみているのは、とても嬉しい。
そうマーチが続けると、チェシャはおもしろくなさそうに顔を背けた。
雪は、まだ止みそうにない。




