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BLUE_LIGHT~海賊アリス~  作者: 葉山
Episode0.不思議の国のアリス
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09.不思議な世界に偽者アリス


 ヤマネくんがベッドから転がり落ちないように、見守りながら自分を落ち着かせたわたしは、一つ大きく深呼吸をしてゆっくり立ち上がった。


「行ってくるね、ヤマネくん」


 さらさらの前髪を軽く撫でて、部屋を後にする。

 二つの【神子の玩具】をしっかりと握り締めて。


 公爵夫人の島には、あとどれくらいの時間で着くかは分からないけど。でも、疲れて重くなった身体を休ませたらそのまま寝ちゃいそうな気がしたから、とにかく甲板に出てようと思った。


 波に揺れる廊下をフラフラとしながら歩く。

 もちろん、壁に手をついて転ばないようにしながら。


「揺れに慣れるってのも変な話だけど」


 一日くらいかな?

 船に乗ってればそういうものだって思える自分がいる。

 コレが夢なのか現実なのか幻なのかは分からないけど、それでもそういうものって割り切れるくらいには、色々慣れたみたい。


 そんなことを考えながら甲板に出ると……、マーチとチェシャがすっごく忙しそうに動き回っていた。


「ウサギ、ロープ! そっちじゃなくて隣の!」

「……投げるぞ?」

「これ終わったら、そっち」

「あぁ。帆の確認も、頼む」


 ひょいひょいと高いマストを危なげもなくロープを伝っているチェシャに、補佐する形でマーチが甲板から色々投げたり受け取ったりしている。


 え、なんなのこれ?


「……アリス?」

「え、や、あっ」


 忙しいそうだから気にしないで、って言おうとした言葉が焦って出てこなかった。


 妙に挙動不審なわたしを、変わらない表情でマーチは見下ろして、軽く首を傾げた。


「……どうかした?」

「えっと、公爵夫人の島って、あとどれくらいですか?」


 焦っていてもどうしようもないと言うか、結局気になっていた事を聞いていた。

 とっさの一言が、なかなか上手くでてこない。


 マーチはそんなわたしをじっと見てから、すっと偽ウミガメの頭の方を指差した。


「……見えるくらいには、近い」

「あ、本当だ」


 しぶきを上げて船を引いてくれる偽ウミガメの陰になってはいるけど、ぽつんと、青い海にぼんやりとそれっぽい影が見える。


「……まだ、時間は掛かるけど」

「それじゃ、まだ到着まで時間はあるってことですよね?」

「そうでもないですよ」

「!?」


 すぐ後ろで聞こえた声に、ビクリと肩を震わせた。


「……マッド」

「準備の方は?」

「大丈夫」

「ウサギ、サボってないで換えのロープ!」


 不機嫌そうに上から掛けられた言葉に、マーチは帽子屋さんへの言葉もそこそこに新しいロープをチェシャに投げ渡していた。


 なんでこんなことやってるんだろうって、わたしにはよく分からないけど。


「アリス」

「は、はい?」

「私たちは一足先に上陸します」

「えっと、魔法で?」


 羽根つき帽子を押さえながら、帽子屋さんはふわりと微笑んだ。

 その直視できない優雅な笑顔は、間違いなく肯定なんだろうけど。


「少々遠いですが、船の操縦をマーチに一任すれば大丈夫でしょう」


『マッドの魔力をもってしてこの船を動かしている。そんな大きな魔力を船に費やしていると、長距離の転移魔法は無理だ』


 船長に説明してもらった言葉を思い出すと、そんなことしても大丈夫なのか心配になるんだけど……、平気なのかな?


 そんな気持ちが顔に出てしまったのかもしれないんだけど、帽子屋さんが大丈夫ですよ、とわたしの肩を抱き寄せた。


「え、ちょっ」

「マーチは船を動かせるくらいの実力はありますから、【不思議の国】号のことはご心配なく」


 ご心配なくって言うか、その、肩って言うか、あの、抱き寄せられるの、やめてほしいんですが。

さっきの今なのに……!


「それでは、公爵夫人の島へ飛びますよ」

「待っ」


 待てません、と囁かれたかと思ったら、わたしは光に包まれた。




* * * * *




「ここに上陸していいと、許可した覚えはないわ!」


 光が消えた瞬間に投げつけられた言葉。

 ヒステリックな声に、ビクリと身体がすくんだ。


「おや、ですが先に上陸する旨の伝言は送ったと思いますが……」

「お黙り! 今すぐ帰りなさい! 何度来たって、わたくしは本物のアリスしか認めないわ!!」


 ゆっくりと帽子屋さんから離れて、視線だけで辺りを見回した。

 ここは、部屋の中。きっと、初めて公爵夫人に会った部屋なんだと思う。


 クイーンさんの船長室にあるような立派な漆塗りの執務机から乗り出すように、鋭い印象を与える公爵夫人が叫んでいるのがまず目に入る。

 それから、震えるように部屋の隅にいる、子どもくらいの大きさの服を着たカエルとかサカナとか……は、見なきゃ良かった。


「夫人、落ち着かれ」

「公爵夫人、あの子に会わせて下さい」


 宥めようと一歩踏み出した帽子屋さんの言葉を遮るように、わたしはガラスケースを握り締めながら、公爵夫人の琥珀色の瞳を真っ直ぐに見た。

 自分でもビックリするくらい声は落ち着いている。


「【神子】に、会わせて下さい」

「偽者がわたくしに命令するなど……!」

「偽者って分かってもらえているならそれでいいです。そんなことより、わたしは【神子】に会わせて下さいと、言っているんです」

「そんなことですって!?」


 そんなことだ。だってわたしは偽者アリス。

 アリスじゃないのは明白で、それが事実だと言っているんだから、それは些細な事。


 それよりも、わたしは【神子】の涙を止めてあげたいと思う。

 止まるかどうかは分からないけど、それでもこの二つ揃った【神子の玩具】は【神子】のものだから、返してあげたい。


「公爵夫人が許してくれないと、【神子】に会いに行くことはできないみたいだから」

「【神子】に会う資格があるのは、【娘】か【主人公】だけよ。それ以外は認めないわ!」

「公爵夫人……」

「わたくしは、本物のアリスしか、認めないわ!!」


 わたしから目を逸らしてぎゅっと瞳を閉じた公爵夫人は、強い言葉で叫びだした。

 それがとても悲痛な響きを含んでいるように思えて、この人に会ったときから感じていたことが、本当にそうなのかもしれないって思った。


 公爵夫人は、ずっと苦しんで、悲しんでいるままなんだって。


 わたしが本物の【アリス】に劣等感のような気持ちを抱くのとはまた別のものだけど、それでも彼女も悲しくて、苦しいと思っているんだと思う。

 本物の【アリス】が何なのかわたしには分からないけど、公爵夫人はとっくに認めている事実を捻じ曲げてしまいたくて、でもそれが難しくてあがいているように見える。


「本物の【アリス】は」

「アリスはアリスよ! お前みたいな小娘ではないわ! わたくしのアリスは、また、わたくしの元に帰ってくるのよ!!」


 全部わたしの勝手な考えで、公爵夫人が本当にそんなこと考えているのかどうかなんか分からないけど。


「わたくしのアリスはっ!」


 それでも、公爵夫人は傷付いている。


「わたくしのアリスはいるのよ!」


 本物のアリスと、わたくしのアリスと言うたびに、傷付いている。


「本物のアリスはいないのでしょう!? でもわたくしのアリスは、いるのよ!! ちゃんと生きて、存在しているのよ!!」


 矛盾を抱えて、空しさを吐き出して、心の中では葛藤を繰り返して。


 そうして、ボロボロに傷付いているんだ。

 ヒステリックで癇癪もちなんかじゃない。この人はそうした役だと言うことに逃げて、自分をどんどん追い詰めている。


 わたしはそんな公爵夫人に、なんて言えばいいのか分からなくて……。

 言葉が、見つからなかった。


「公爵夫人」


 帽子屋さんが、ゆっくりと公爵夫人の名前を呼んだ。


「【不思議の国】号は、我らがクイーンは、彼女を認めました」

「っ!?」


 弾けるように顔をあげた公爵夫人は、その琥珀色の瞳を大きく見開いた。

 信じられてないとでも言うように。


「【不思議の国】号の、偽者アリスとして」

「……まさか、あの人が、本当にそう言ったの?」

「えぇ。我々は彼女を偽者アリスと、認めました」


 決して大きくない声で、帽子屋さんは言い聞かせるかのように繰り返した。

 公爵夫人の瞳が揺れる。


「夫人は、どうなさいますか?」

「わたくしに、この子を認めろと言うの?」

「何を仰います、夫人はすでに認めていらっしゃっているではありませんか」


 偽者だと。


 羽根つき帽子をそっと胸に当てて、帽子屋さんはそう呟いた。

 確かに、公爵夫人はわたしを偽者だと何度も叫んでいた。初対面で開口一番に偽者だって言われたのも、そう。


「この子が偽者なのは事実よ」

「えぇ、ですから少し変えて認めてくださればいいのです」

「【娘】でも【主人公】でも、【アリス】でもないなら、わたくしが認める必要はないわ」

「いいえ、公爵夫人。貴女に認めていただかなくては困ります」


 【不思議の国】号の偽者アリスと。


 【娘】でも【主人公】でもなくとも、【証】に認められてその力を持つ不思議な少女と。


 あくまでも本物ではなく、全てにおいて偽者だと。


 そう認めて頂かないと困ります。

 帽子屋さんはゆっくり、一つ一つを刻み込むようにそう言った。


「……それで、わたくしにそれを認めさせて何をしようとするの?」

「私たち海賊がすることと言えば一つでしょう?」


 宝探し。【神子の玩具】を探すこと。


 本物のアリスがいなくとも、【不思議の国】号の物語を進めるには、【主人公】が必要だと、そう言いたいらしい。


「わたくしがこの子を認めることが、どういうことか分かっているのかしら?」

「もちろんですとも。公爵夫人に認められるということは、【主人公】の名を名乗ることを認められると言うこと」

「えぇ、それがわたくしの役目。だからアリスの名は名乗らせないわ! アリスの名は、わたくしのアリスにしか認めない!」


 話が堂々巡りになりそうで、平行線を辿っているような気がする。


 どうして互いに一歩も譲らないんだろう。帽子屋さんは一歩も譲らないんだろう。

 わたしなんかのために? 偽者のわたしなんかのために?


「公爵夫人。彼女は貴女のアリスではありません」

「何を言うの? この子はアリスなんかじゃないわ!」

「いいえ。彼女は私たち【不思議の国】号のアリスです。貴女のアリスではありません」

「わたくしのアリス以外のアリスは必要ないわ」

「夫人、彼女の方がよっぽど分かっています。頭で分かっていても、動かないと意味がない」


 それは、わたしが公爵夫人に最後に投げ捨てた言葉。


 自分に言い聞かせるように、そうでもしないと何も始まらなくて、せっかく掴んだ目的を達成させることだけを考えて、言った言葉を、帽子屋さんが繰り返した。

 改めて言われると、なんだか気恥ずかしいけど。


「公爵夫人は、変わろうとしないのですか?」

「あ、あなたに……!」

「私もクイーンも、変わろうとしています。夫人は、あの男と同じように“アリス”に縛られたままでいらっしゃるおつもりですか?」

「わたくしは、わたくしは……!!」


 苦しそうに胸元を握り締めて、あえぐように言葉を搾り出す公爵夫人に、下手な言葉を掛けられなかった。

 言葉をかけるだけでも、ますます彼女を追い詰めてしまうような気がしたし、変な慰めの言葉も気休めも跳ね除けられてしまいそうな気がした。


 泣きそうに眉を寄せた公爵夫人の琥珀色の瞳と、目が合ってただ真っ直ぐに見返す。

 何も考えないで、ただ見返すだけ。


 揺れる瞳を静かに閉じた公爵夫人は、やがて深く息をついて肩を落とした。


「……貴方もあの人も、全てを変わったわけではないのでしょう?」

「えぇ、ですから偽者と」

「わたくしもそこまでしか認められないわ。それが今の限界よ」

「構いませんとも。公爵夫人の英断に感謝いたします」


 帽子屋さんが深く頭を下げると、公爵夫人はそれを一瞥して、執務机から離れてわたしの方へと歩いてきた。


 しゃんと背筋を伸ばして、真っ直ぐにわたしを射抜いてくるような瞳を向けて。

 そして、さっきまで取り乱していたのが嘘のような堂々とした態度で、わたしの前に立つ。


「貴方は分かっているのかしら? 彼等がどのような存在で、貴方がこれからどんな立場になるのか」


 やけに落ち着いた声で、静かに紡がれる言葉をわたしはただ黙って聞いていた。


「何故彼らが海賊と言われるか分かっているのかしら? 【神子の玩具】を手に入れるだけでは、海賊とは呼ばれない」


 一つ息をついて、公爵夫人はハッキリと言い切った。


「【神子の玩具】と【娘】と【主人公】を強奪するから、海賊と呼ばれているのよ」


 【神子の玩具】と【娘】と【主人公】を強奪するから、海賊と呼ばれている。そんな危険だってある。

 そう言いたいのかな、公爵夫人は。


「貴方はそんな彼らを信頼できるのかしら? そんな行為をもする海賊たちを」


 それから、わたしが握り締めている“大きくなるケーキ”を見て、体験したなら分かるでしょう? と。


「どんなに恐ろしい目に遭うかも分からない。平穏なんかどこにもないのよ。そんな状況に貴方は耐えられるのかしら?」

「公爵夫人」

「何かしら? わたくしは事実しか述べていないわ」


 ずっと成り行きを見守っていたわたしは、ゆっくりと口を開いた。


 公爵夫人がやけに落ち着いた声と態度で言ってくれたからか、怯まないで言えた。


「どれだけ事実を言われたって、わたしには【不思議の国】号にしか帰る場所がないんです」

「いいえ、貴方にだって帰る場所はあるわ」

「……帰る場所はあるけど、でも、この世界にはないんです」


 視線が地面に向かってしまうのは仕方ないことって、許してほしい。


 大きな穴に落ちたわたしは、どうやって帰ればいいのかな。

 いつもの日常に。わたしの家に。わたしがいた世界に。


「帰り方が分からないから、わたしはどうしたって、【不思議の国】号に頼るしかないんです」

「あなたが伝承の中の【主人公】だったら、目が覚めるのを待つしかないわね。でも、あなたは偽者よ?」

「そうですね。でも、偽者でも【不思議の国】号の役に立つのなら、元の世界に帰れるまで」


 力になりたい。


 優しい船員がいる【不思議の国】号と言う海賊船の、力になりたい。


 本物にはなれないけれど、でも偽者でも必要としてもらえるなら、わたしは彼らの優しさに報いたい。


 そう強く思うからこそ、わたしは下がっていた視線を上げて、公爵夫人の目を見てハッキリと言った。


「わたしを、【不思議の国】号の偽者アリスとして、認めてくださいませんか?」


 偽者でいいから。


 それで誰かの役に立つなら。

 それがわたしの目的になるなら。


 わたしを認めてほしい。

 否定しないでほしい。


 不安定なわたしを、定めてほしい。


「貴方は、アリスのようでアリスじゃないわ」


 苦笑したように呟いた公爵夫人は、わたしの前に手をかざした。


 突き出された指先に、ぽうと、青白い光が灯る。

 それが急速に大きな光に変わって、わたしの目の前に一つの魔法陣が現れた。


 複雑な記号と文字が並ぶ魔法陣は、船長が【地下の国】号を足止めするときに使ったものと同じだけど、不思議と危機感を覚えなかった。


「公爵夫人として認めるわ。貴女は、【不思議の国】号の偽者アリスよ」


 すいと魔法陣を振り払うように腕を振ると、胸元に下げている指輪へとその光が吸い込まれて消えた。


 たったそれだけのこと。

 それだけのことなのに、指輪がしっかりとその存在を主張するかのように感じた。


 認められたって、偽者でもわたしがアリスでいいと認められたから嬉しいと思ってくれているの?

 【証】も、わたしを必要としてくれているの?


 そっと服越しに指輪に触れると、無機質なはずのソレが少し暖かく感じた。


「カエル!」

「ケ、ケロッ!」

「わたくしの情報網を使って、各船と国に知らせを出しなさい!」

「か、かしこまりましたですケロッ!」

「サカナは砲撃の中止を。【不思議の国】号を傷つけたりでもしなさい、その場で罰を与えるわよ!」

「かしこまりましたですギョ!」


 部屋の隅にいた哀れな召使たちは、変な語尾を付けて慌てて飛び出して行った。


 ……み、見るくらいなら平気かな。

 サカナとかカエルって言っても……、いや、やっぱまだ無理。


「偽者、何ぼんやりとしているの!?」

「うわ、あ、はい!」


 公爵夫人の鋭い声に反射的に返事をすると、後ろから帽子屋さんに腕を引かれた。


「貴女の目的を達成するのでしょう?」

「あ、そう! 公爵夫人、【神子】に会わせて」

「もうそこの扉を【神子の間】へと繋いだわ。勝手になさい。わたくしは忙しいの」

「ありがとうございます」


 これで、ようやくあの子に返してあげれる。

 そのことにひどく安心した。






 扉を開けた後は、初めてこの場所に来たときと同じ。


 ドーム状になっている室内に、わたしと帽子屋さんの足音がやけに大きく響き渡った。

 何もないがらんとした【神子の間】の中心に立って、胸元にある指輪を襟元から鎖を引き上げた。

 指輪がぼんやりと光だす。


 ドーム状になっている天井を見上げてわたしはあの子の名前を呼んだ。


「【神子】」


 パッと指輪から光がはじけて、天井へと吸い込まれていくように消えた光は、【神子】の背中の羽根の模様を天井全体に描きだした。


 天井に光で描かれた翼の付け根から、ゆっくりと【神子】の姿が現れる。

 ふわふわの髪をなびかせて、光で描かれた翼を淡く輝かせながらゆっくりと降りてくる【神子】に、わたしは“小さくなる飲み物”と“大きくなるケーキ”を差し出した。


「あなたのもの、でしょ……?」

「わたしの、たからもの」


 腕を広げて、わたしごと【神子の玩具】を抱き締める。


 おかえりと呟いた【神子】は、やっぱり赤い目をして泣いていたけど、でもこれは悲しいから泣いているんじゃないでしょ?


「わたしのたからもの、かえしてくれるの?」

「約束したでしょ? 返すって」

「これは、ほんとうにわたしのたからもの。やくそく、まもってくれたの?」


 白くて細い指で、確かめるようにガラスケースと小瓶を撫でる【神子】の頬に、新たな涙が流れ落ちた。


「約束守ったから、だから、もう泣かないで」


 そっとその跡を拭ってあげると、【神子】は溶けてしまいそうな儚い笑みを浮かべた。

 優しく瞳を細めると、零れそうになった涙が小さな雫となって目元に飛び散った。


「きみは、こうしゃくふじんにみとめられたんだね」


 そっと指輪をつまみあげた【神子】は、わたしの頬に甘えるように顔を寄せた。


「【証】もうれしそう」

「でも、わたしは偽者だから」

「にせもの?」


 不思議そうに離れて、ふわふわの髪を揺らして首を傾げた【神子】に、なんて言えばいいんだろう。


 【地下の国】号のアリスに言うのとはまた別で、言わなくちゃいけないのは分かっているんだけど、どう言えばいいのか分からない。

 ありのままを伝えればいいんだけど、それが複雑で、一言で説明なんかできない。






「きみが、にせものアリスでもいいよ」






 言葉にできないわたしの両頬に手を添えて、【神子】は目を合わせるように覗き込んできた。


 少し赤く充血した金色の瞳が、視界一杯に広がった。

 金色しか見えなくなるくらいに近くで、【神子】は繰り返す。


「きみが、にせものアリスでもいいよ」

「本当に、いいの?」

「だってきみは、やくそく、まもってくれる。どの【娘】も【主人公】も、わたしのこえをきいてくれないのに。きみだけがきいてくれる」


 額をあわせて、わたしに言い聞かせるようにそう言ってくれる。


「だから、にせものアリスでもいいよ」


 その言葉が胸に染み込んでいって、不覚にも泣きそうになった。


 じわりと視界が歪む。

 泣くもんかってそう決めていたのに、【神子】に泣かないでって言ったのに、わたしが泣いてどうするんだって話だ。


「なかないで」


 ほら、さっきまで泣いていた【神子】にまで泣かないでって言われた。


「大丈夫、泣かないよ。【神子】が泣かないなら、泣かない」

「つよいこ」


 額をこすりつけて、【神子】はわたしから二つの【神子の玩具】を受け取った。

 それからそれらにそっと口付けて、愛しそうに胸に抱き締めた。


「ありがとう」

「……でも、それだけじゃないんだよね?」

「ほかのたからものも、かえしてくれるの?」


 きょとんとした【神子】に、ただ黙って頷くと、【神子】はくしゃりと顔を歪ませて泣きながら笑った。


 それから、“小さくなる飲み物”と“大きくなるケーキ”を掲げて、そこにそっと息を吹きかける。

 二つの【神子の玩具】は、光の粒子となって【神子】が現れた天井に吸い込まれて消えていった。


「きみに、わたしのたからもののちからを【主人公】とおなじように、わけてあげる」


 ゆっくりとわたしの首から下がっている【証】を持ち上げて、【神子】はそっとそこに口付けた。


 その瞬間、指輪がぱっと光を放って、何も見えなくなる。

 思わず目を閉じたわたしがそっと目を開けた頃には、【神子】の姿がもうそこにはなかった。


「やくそく、おねがい」


 耳に残る泣きそうな声。

 緩んだ涙腺で溢れ出しそうになる涙を堪えるために何度も瞬きを繰り返した。


 返すって約束したから。

 【神子の玩具】と呼ばれるそれを、返すって約束したから。

 お願いって、わたしに頼まれたことだから。

 わたしが偽者でもいいと言ってくれたから。

 不安定なわたしに目的を定めてくれるから。


 だからわたしはそれに応えたい。


「【神子の玩具】は、【証】を持つ【娘】にしか見つけられない」


 部屋の隅で静かに成り行きを見守ってくれていた帽子屋さんが、静かに呟いた。


「そして、【神子の玩具】の力は【主人公】に与えられる」


 それは、【主人公】と呼ばれる存在にしか手にすることができない、と。

 それは、【神子】が認めた【娘】にしか見つけられない、と。


 伝承にあった部分が明確にされたことに、どこか納得したような様子で歩み寄ってきた帽子屋さんは、相変わらず穏やかな微笑を浮かべていた。

 念入りに目元を擦って、帽子屋さんを見上げる。


「我らがアリスは公爵夫人だけでなく、【神子】にも偽者アリスと認められましたね」

「【不思議の国】号に、偽者アリスは必要ありませんか?」

「いいえ、我らがアリス。貴女は【不思議の国】号に必要な存在ですよ」


 お手をどうぞ、と差し出された左手に、右手を重ねる。左手は【神子】に口付けられた【証】を握り締めて、背筋をぴんと伸ばして。


 【神子】と【不思議の国】号のために【神子の玩具】を集める。


 そうした目的があれば、元の世界への帰り方に不安を覚えることなんかないから。

 帰れないんじゃないかって不安を隅っこに押しやれるから。


「帽子屋さん」

「はい」

「わたし、精一杯頑張りますから」


 誰かのためと理由をつけて自分を保とうとするなんて、自分勝手で自己保身で自己満足に過ぎないことだけど。


「そんな貴女の役に立てるよう、尽力いたしましょう」


 それでも、帽子屋さんはわたしの力になってくれるって、言ってくれる。

 ヤマネくんだって船長だってわたしを守ってくれるって、そう言ってくれた。

 チェシャだって、マーチだって……【不思議の国】号は、わたしの味方だって言ってくれているんだから。


「戻りましょう、我らが【不思議の国】号へ」

「はいっ」


 帽子屋さんがさっと手を振ると、わたしの視界は光に包まれた。


 瞬き一つする間に、床は揺れてしょっぱい臭いが鼻をくすぐる。

 それから駆け抜ける潮風に、頭上に広がるどこまでも青い空。見渡す限り蒼い海に囲まれているこの白い船。

 それから……


「やっぱり、海賊旗」


 ハートの黒い目と赤い薔薇の背景が描いてある、海賊旗がはためいている。


「あれ? 何、もう帰ってきたわけ?」

「……おかえり」


 上から身軽に飛び降りてきたチェシャと、ロープを肩にかけたマーチが迎え入れてくれたように感じて、わたしは思わず口元に笑みが浮かんだ。


 その優しさに甘えるような自分が情けないけど、でも、そうやってわたしの力になってくれる人たちの力になれるなら……。






「ただいま」






 わたしは、出来る限りのことをしたいと思う。


 優しく笑ってそう言ったとたん、緊張の糸が解けたのかぐらりと視界が揺れた。

 あれ? と思ったときには何も考えられなくなって、視界も思考も真っ白になった。


「ユキッ!?」

「アリス……!」

「大丈夫です」


 ふらりと倒れた彼女を、繋いでいた手を引き寄せて抱きとめた帽子屋に、チェシャとマーチは慌てて駆け寄った。


 腕の中の彼女は、その瞳を隠して安らかな寝息をたてている。


「何だ、寝てるだけ?」

「色々あって疲れているのでしょう、このままそっと寝かせて差し上げましょう」


 空から落ちて【不思議の国】号に乗せられ、公爵夫人と立ち向かい、【地下の国】号から【神子の玩具】を強奪して、【神子】に認められた。

 それだけのことをやりとげたのだ。


 この偽者アリスの名を与えられた少女は。


「尊んでください。我らが【不思議の国】号の偽者アリスを」


 今はもう夢の中にいる彼女を見つめて、彼らはどこかほっとしたような表情をしていた。




* * * * *




 公爵夫人が【不思議の国】号の偽者アリスと認めた。


 公爵夫人の島から飛ばされた伝令は、【神子の玩具】を求める海賊船にすぐさま伝わった。

 海賊船のみならず各統治者が治める国へも。


「アリスと言っても、あの娘は所詮偽者。本物のアリスではない」


 【地下の国】号の船長はそう否定した。


「【娘】がまた一人認められたらしいじゃないか。面倒だねぇ」


 妖艶な色気を放つ女船長はそう呟いた。


「【主人公】はこれ以上必要ないよね」


 片割れをなくした孤独の少年は、その大降りの鎌を握り締めた。


「アリスはあたしだけで十分だわ!」


 甲高い声を張り上げて、我が儘な少女は叫びだした。


「【神子の玩具】を狙う不届き者が増えるとは、困ったものだ」


 若き国の統治者は、不適に微笑んで海を眺めた。


「偽者には興味がある。わらわが捕まえて、飼い殺してやろう」


 美しき女王は、偽者を捕らえておくために籠を用意させた。


 公爵夫人が彼女を何であろうと“認めた”と言う事実は、少なからず【神子の玩具】に関与するもの全てに影響を与えた。

 良くも悪くも、それが彼女にどんな脅威となり幸運となるかは分からないけれど。


「……わたくしが認めて差し上げたのだから、全力で守りなさい」


 公爵夫人はその琥珀色の瞳を据わらせて、小さくなっていく【不思議の国】号を見つめていた。


 たとえ偽者と言っても“アリス”なのだ。

 アリスは不思議の国を歩き回らなければいけない。

 何が待ち受けていようとも、何があったとしても、その持ち前の好奇心と機転を働かせて切り抜けなければならない。


「偽者の貴方にとっては、この世界は不思議の国と同じでしょう?」


 何も知らないで先へと進む少女。

 不思議な出来事に目を白黒させる少女。

 家への帰り方が分からない少女。


 違うのは、彼女が偽者だということ。


「せいぜい頑張りなさい」


 この理不尽な不思議な世界で。






「【不思議の国】号の、偽者アリス」







Episode0.不思議の国のアリス


133,270文字転載完了

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