09.不思議な世界に偽者アリス
「マッド、今すぐ出航しろ」
「かしこまりました」
「チェシャ猫、お前は奴らから目を離すな」
「船長、人使いが荒くない?」
「チェシャ、猫の手も借りたいと言うでしょう?」
光が収まったと思ったら、船長たちは慌しく動き始めた。
あぁ、【不思議の国】号に戻ってきたんだって思ったら、なんだかほっとしちゃってぺたんとその場に座り込んでしまった。
ここなら安心できる場所で、敵なんかいないんだって。
あんな戦いなんか起こらない場所なんだって。
「……おい」
「え?」
「座るなら他所で座れ。邪魔だ」
「わっ!? ちょ、船長」
座り込んだわたしを引っ張りあげて、船長は乱暴に船内へと続く扉の方へと突き飛ばした。
突然のことに足がもつれて動けないわたしは、ぐらりと傾いて……
「……平気?」
「だ、大丈夫。ありがとうマーチ」
倒れ、なかった。ぽすんと受け止められたおかげで怪我はない。
またマーチに受け止めてもらっちゃったんだって思うと、なんだか申し訳ない反面、よくちょうどいい場所にいてくれるなって思う。
長身のマーチを見上げたわたしに、マーチはぽすんと頭に手を乗せてきた。それから、その大きな手でゆっくりと撫でてくれる。
「……とりあえずは、お疲れさま」
抑揚のない声でのいたわりの言葉だけど、それでも嬉しかった。
色々いっぺんに起きすぎて疲れた。
正直、今すぐ何もかもを放り出してベッドに倒れ伏せてしまいたい。
ごちゃごちゃしたことを考えるのを後回しにして、全部忘れてしまいたいって思う気持ちがある。
そんな部分があるから、マーチの一言はじんわりとしみこんで、思わず涙汲みそうになった。
いやだな、こんなことで泣きたくなんかないのに。
「ウサギ、いい加減仕事すれば?」
「……おかえり」
「そんなことどーでもいーし。船長、奴ら動きだした」
「兎、砲撃の準備だ。おいマッド、まだか!」
「動きます!」
わたしがちゃんと立てたのを確認してから、マーチも慌しく動き出した。
帽子屋さんの一声で、ゆっくりと船が進みだす。
船の前にはあの大きな偽ウミガメがいて、波を起こしながらゆっくりと海を泳いで【不思議の国】号をひっぱってくれる。
またあの激しい揺れが始まるのかって思うと、疲労感が増すっていうか勘弁してって気分になるんだけど。
でも、見張り台に上ったチェシャや、甲板でまだ重そうな銃を握っている船長が【地下の国】号に鋭い視線を向けているのを見ると、そうも言ってられないのが分かる。
わたしは取り戻した“大きくなるケーキ”の入った箱を握り締めて、壁に背を預けながら黒い戦艦を見た。
立場が逆になるんだ。
わたしたちが追っていたのに、今度はわたしたちが追われる。逃げ切るなんて選択肢しかない、これこそまさにコーカスレースだ。
「……慣れない大きさに、先ほどと同じスピードがでないようですね」
「強硬手段過ぎたか。まぁいい、そうなれば次の手を使うまでだ」
船長は挑発するようにうっすらと笑い、追いかけてくる【地下の国】号を見据えた。
「クイーン、威力は抑えてくださいよ」
「気が向いたらな」
突き出された指先に、ぽうと、青白い光が灯った。
それから、急速に大きな光に変わって一つの魔方陣が現れる。複雑な記号と文字が並ぶ魔方陣は、わたしにとって本当に映画でも見ているような感じで……。
「少しは頭を冷やせ」
すいと、魔方陣を振り払うように腕を振ると、ざぁと勢いよく水柱が上がった。
【地下の国】号を覆い囲む檻のように。何本もの巨大な柱が天へと上がったかと思えば、パキパキと音を立ててそれが固まっていく。
水柱が氷の檻に変わって、【地下の国】号を閉じ込めた。
「……綺麗」
そんなこと呟いている状況じゃないって分かってても、キラキラと舞う氷の柱に目が奪われた。
「動きは完全にってわけじゃないけど、とまったみたい。さすが船長、やること無茶苦茶」
上から降ってくるチェシャの声に、わたしは大きく息をついた。
「マッド、後は何とかしろ」
「かしこまりました」
同じようにゆっくりと息をついた船長に、帽子屋さんが困ったような声で返していた。
それから、気だるそうにこっちに向かって歩いてくる船長は、ふと壁に背中を向けて張り付いているわたしを見た。
何でまだここにいるんだとか言われそう。
「……」
ち、沈黙が痛い。
何も言わないでじっと切れ長の碧眼を向けてくる船長を、恐々と見上げようとしたら軽く頭を叩かれた。
「ちょっ!?」
「馬鹿かお前は」
叩かれた頭に手をあてて、抗議しようと睨みあげたら今度は頬をつまみあげられた。
いや、ちょっと遠慮がなさすぎるって言うか、女の子にするような態度じゃないよね!?
「船長っ!」
「こんなことしてる場合じゃないだろうが」
「へ?」
ぱちんと離された手に今度は頬を押さえていると、船長は呆れたようにため息をついてわたしの頭をくしゃりと撫でた。
さっきは叩いてきたのに今度はちょっとだけ優しく。
「お前にはまだ、やるべきことが残ってるだろう?」
わたしのやるべきこと。
【神子】にアリスの【神子の玩具】を二つ揃えて返すこと。
今は取り返しただけで、まだ終わってなんかない。
“大きくなるケーキ”が入った箱をしっかりと握り締めて、わたしは船長の碧い瞳を真っ直ぐに見上げた。
「はいっ」
「着くまでにはまだ時間がある。しっかり身体を休めとけ」
それだけ言って、船長は歩くのも面倒臭そうに船室へと消えていった。
少し乱れた頭を手櫛で梳いて整えてから、深く息を吸って、吐く。
まだ、終わってなんかいない。あの子の涙を止めてない。
「よし」
もう一回公爵夫人の島に戻るんだろうから、それまでに色々考えたいこととか、整理しよう。
どうせまたあの激しい揺れに寝ていることも、まともに立っていることさえできないんだから、時間はある。
そうと決まれば大人しく船室にいようと、そろそろと動き出したわたしの腕を誰かに引かれた。
「アリス」
「帽子屋さん?」
「少々、お時間をいただけますか?」
船長と似たような顔立ちで、でも船長とは違う甘い雰囲気を醸し出す帽子屋さんに、なんだろうと首を傾げた。
甘く微笑んだ帽子屋さんの目は、少し複雑そうに揺れている。
話を聞かない方がいいのかもしれない。
断った方が、帽子屋さんにそんな目をさせないのかもしれない。
そう思いはするんだけど、わたしは促されるように頷いていた。
「ありがとうございます、ついでにヤマネの様子を見に行きましょうか」
「あ、ヤマネくんは……?」
「自室で眠っています。ちゃんとベッドで寝ているといいのですが」
困ったように笑う帽子屋さんに、ヤマネくんの姿だけ見てないなって思い出させた。
そう言えば、ヤマネくんは眠っちゃうからとかなんとかで、一緒に来れなかったんだっけ。
誰も握り締めてくれない手を、後ろでそっと握り締めた。
「チェシャ、見張りを続けていてください。彼女のことも、変化があったら連絡を」
「あんたの言うこと聞く筋合いなんかないんだけど」
「ご冗談を。ご自分の役割をも放棄するつもりですか?」
「役立たずはいらないってことでしょ? 最低限くらいはしとく、気が向いたら」
はっきりしない言い方しかしない二人のやりとりに、目を白黒させていたけど、帽子屋さんがわたしの手をいつの間にか引いていたから気にしなくてもいいのかなって思った。
「あぁ、マーチ」
「……分かった」
目と目を交わすだけで伝わるやりとりに、わたしには分からない何かがここの船員にはあるんだろうなってそう思わされた。
部外者で偽者のわたしがそれを知る必要なんかないんだけど、それでもちょっとだけ、【不思議の国】号から疎外感を感じた。
「参りましょう。お手をどうぞ、我らがアリス」
差し出された手に自分のそれを重ねることに、今はもう躊躇なんかないけれど、それでも、この淑女的扱いはやっぱりなれないななんて思うのは仕方ないよね。
帽子屋さんに手をひかれながら船内を進むと、やっぱりと言うかなんと言うか、徐々に大きくなっていく揺れに振り回され始めた。
ふらふらとしてしまうわたしを見かねたのか、帽子屋さんは慣れた手つきでわたしを引き寄せて、腰に手を回してくる。
「大丈夫ですか?」
大丈夫じゃないです、主に帽子屋さんの、手がっ!
ウエストに添えられた手はわたしを支えるためで、他意なんかないって分かってるんだけど!
でも、太ってるのバレるって言うか、お腹周りだけはやめてください本当に!
……とか面と向かって言えないけれど。
「はぁ、その、まぁ」
「耳、赤いですよ?」
「!?」
後ろから囁くように呟かれた言葉に、びくりと肩を震わせた。
み、耳に吐息が当たって……わざとじゃないよね?
思わず体を引いたわたしだったけど、ここが船だってことを忘れてて……。
「あぁ、離れるとあぶ」
「うわぁっ!?」
「危ないですから、離れないでください。少なくとも、今だけは」
揺れに足をもつれさせたわたしを、事も無げに元の状態に戻した帽子屋さんは甘いテノールでくすくすと笑った。
なんだか妹感覚で扱われているような気がするんだけど、そんなにわたし手が掛かるようなことしたかな?
なるべく迷惑をかけないようにって、そう思いながら行動してきたんだけど。
耳がまだ熱いのを自覚しながら、わたしは帽子屋さんにエスコートされながら、ヤマネくんの船室だろう場所にたどり着いた。
「失礼」
ひかれていた状態の手を離して、軽くノックをしたけど返事はない。
ヤマネくんは寝てるから、返事がないのは当たり前なんだろうけど。
帽子屋さんは律儀に断りを入れてから扉を開けた。
「あぁ、やっぱり」
「ヤマネくん!?」
ヤマネくんの部屋もわたしの部屋と対して変わらないんだけど、なんていうか、生活感があった。
椅子には船服の上着が無造作に掛けてあって、机の上には飲みかけの瓶と開きっぱなしの本。
それから少ししわが寄ったシーツのベッドは、ヤマネくんがそこから転がり落ちた跡がよく分かった。
この船室の主のヤマネくんは、ベッドの脇に転がり落ちていて、それでも起きる気配がないみたいですやすやと寝息をたてている。
「世話がかかりますね、本当に」
帽子屋さんはわたしから手を離して、少し困ったような口調でヤマネくんを抱き上げてベッドに戻していた。
わたしは、勝手に男の子の部屋に入っていいものかどうか悩んで、入り口にしっかりしがみついていたんだけど……。
「大丈夫です。こちらへ、アリス」
ヤマネくんを静かにベッドに横たえた帽子屋さんが呼んでくれたから、わたしはよろめきながらも側に駆け寄った。
「またヤマネが落ちると心配なので、こちらでも構いませんか?」
「あ、はい」
理由がちょっと目が話せない弟のようで、わたしは小さく笑いながら頷いた。
備えつきのサイドテーブルの近くに椅子を引いてきて、そこに座る。
さすがに、ベッドに座るっていうのも悪いって言うか、男の子が寝ているそこに座れるほど無神経じゃない。
「……そちらは、【神子の玩具】でしょうか?」
「はい、“大きくなるケーキ”です。ちゃんと本物ですよ?」
「疑ってはいません。我らがクイーンが認めたのなら、私たちはそれに従うまでですから」
膝の上に置いたガラスケースに、ポケットの中に入った小瓶。
これを秘宝の【神子の玩具】だって言うには信じがたいことなんだと思うけど、でも本当だとしか言うことができない。
これらは本当に、わたしの体を大きくしたり、小さくしたりしたんだから。
アリスがウサギ穴に落ちた後に、不思議の国への扉を開こうとしたのと同じように。
「貴女はそれを【神子】の元にお届けする。それは【神子】との約束ですから守るのは当然とでも言えるでしょう」
それが、今わたしがやるべきことで、できること。
意味が分からないままこの世界に落ちて、意味が分からないまま戦いに巻き込まれて、アリスと言われて。
分からないなりに、一つ分かることは、あの子をこれ以上泣かせていてはいけないってこと。
だから、わたしはこの使命を果たすことだけを考えていた。
「ですが、貴女は公爵夫人に認められていないのです」
『わたくしは貴方を認めないわ。たとえアリスの【証】や【神子】が認めたとしても、わたくしは認めない』
あぁ、そうだった。
そう言った公爵夫人にわたしは認めなくてもいいとか、そう言葉をぶつけて飛び出してきたんだった。
勝手にするって、【不思議の国】号の力を借りて【神子の玩具】を強奪してきた。
海賊船だから、奪い取って、逃げているんだ。
『【不思議の国】号は勝手にすればいいわ。わたくしには関係ない』
拒絶を繰り返した公爵夫人の島に、また否定と拒絶をされるんだと思うと哀しいけど。
「公爵夫人の力が強く働く場所ですから、【神子の間】に辿り着くまでに迷わされるのは目に見えて分かります」
「あぁ、えっと、幻術魔法とかなんとか……?」
「えぇ。あの時はアリスの“声”を聞く力で事なきを得ましたが、二度も上手くいくとは限りませんから」
“小さくなる飲み物”を公爵夫人の館で見つけたときと、同じようにはいかないってことだよね。わたしだってそう簡単に上手くいくとは思ってないけど……。
それなら、どうしたらいいの?
「認めさせてください。公爵夫人に、貴女が我らがアリスだと」
「え……?」
「公爵夫人は、【娘】と【主人公】を判断する役目なのですから」
どう言うことなんだろう?
【娘】と【主人公】を判断する役割って、言葉通りに受け止めれば伝承にある【神子の玩具】に関係ある人を見分ける的な意味なんだろうけど。
でも、『不思議の国のアリス』の公爵夫人はそんな役割をもってなんかない。
わたしの知っている話とは違うってこと?
「貴女は我々に、【不思議の国】号のアリスと認められたのは事実です。同じように、公爵夫人にも認めさせてください」
「でも、公爵夫人は、本物のアリスじゃないと認めないって言ってました……」
「えぇ。ですが貴女が限りなく本物に近くて遠い偽者だと言うことは、周知のことです。夫人も分かっていらっしゃるでしょう」
帽子屋さんは分かっているって言っている。
癇癪もちの公爵夫人だって、自分でも分かってると叫んでいた。
でも、どうしてみんな本物のアリスを捜し続けているの?
船長だって、公爵夫人だって、先生だって、みんなアリスに固執しているように思える。
本物のアリスって、何なの?
「帽子屋さん」
「なんでしょうか?」
船の揺れと一緒に、ヤマネくんがベッドの隅に寄っていくのを止めた帽子屋さんは、穏やかな声で答えてくれた。
わたしは、どこかぼんやりとした視線を向けて、ぎゅっと箱を握り締めた。
「本物のアリスって、何なんですか?」
わたしはただの女子高生だったはずなのに、今は都合のいい夢を見ているような不思議な体験をしている真っ最中。
童話が好きだから、他の人より詳しいのは認めるけど、それ以外にはなんのとりえだってない、可愛くない女の子だ。
「本物のアリスがいないって、どう言うこと何ですか?」
名前だってアリスじゃない。幸。
あんなに小さな女の子じゃないし、性格だって全然アリスとはかけ離れてる。
どうしてわたしがアリスって呼ばれなくちゃいけないんだろう。
どうしてわたしが偽者って呼ばれなくちゃいけないんだろう。
「アリスって、何なんですか……!?」
わたしはわたしなのに、偽者なんて呼ばれたくない。
でもアリスじゃないとここにはいられない。この船にいられない。
本当は帰りたいのに、帰り方すら分からない。
何も分からなくて、何が苦しいのか何が哀しいのかも分からないけれど、でも、妙に胸が苦しかった。
「……答えてください」
喉に詰まりそうな言葉を吐き出した。苦しくて、指輪を握り締めた。
帽子屋さんの碧い瞳が揺れていた。
長いまつげを伏せて、わたしから視線を外す。
「答えてください!」
あぁ、卑怯なことしてる。
答えたくないって、そう強張った肩から分かるのに。
それでも責めるように叫びだした声が帽子屋さんを追い詰めてる。
それ以上何も言えなくて、唇を噛み締めた。
断続的に続く波の音と、ヤマネくんの規則的な寝息だけが聞こえる。
「……アリスは、いません」
ぽつりと、帽子屋さんが震える声で呟いた。
とても小さな声だったのに、妙に耳に残るその言葉は何度も何度もわたしの頭を繰り返す。
「本物のアリスはいません。それが、全てです」
アリスはいない。
本物のアリスはいない。
それじゃあ、本物がいなくなった偽者は、どうすればいいの?
「アリスがいないって分かってても、アリスを立てるんですか? わたしだけじゃなくて、【地下の国】号のアリスみたいに」
「アリスがいなければ、話が崩壊してしまいますから」
ゆっくりとまぶたを押し上げた帽子屋さんは、何事もなかったかのように穏やかに微笑んだ。
「ですからアリスにより近い偽者が物語には必要なんですよ」
それ以上は聞けない。
聞いちゃいけないと、これ以上踏み込んじゃいけないんだと感じて、わたしは曖昧に頷いた。
わたしが知るようなことじゃない。
わたしが興味をもっていいことじゃない。
「貴女は我らが【不思議の国】号の偽者アリスでしょう?」
どうせ目が覚めたら、夢の中の出来事だったって思うだけなんだから、こんなこと気にしなくてもいいじゃないか。
こだわる必要だってないじゃないか。
これは半分現実で、半分夢の、『不思議の国のアリス』の奇妙なお話なんだ。
アリスは何も知らなくても話を進めていったんだから、わたしも同じように目隠しのまま先に進まないと、いつまでたっても夢から目覚められない。
「そう、ですね」
でも、わたしはアリスじゃないから。
本物のアリスの代役だから、そんな知らないままとか、納得しないまま物事を進めたくなんかないよ。
何故だかじくじくと痛む胸を押さえて、わたしは小さく頷いた。
「貴女には酷な事を申し上げてしまいますね。女性にはこのように接したくはないのですが……」
「優しくなんか、されたくないです」
「貴女は、少し強情ですね」
困ったような言葉に、優しく頭を抱き寄せられた。
帽子屋さんの肩に顔を押し付けるような形で、優しく髪を梳くように撫でられる。
“アリス”と言う存在に翻弄されていたわたしを落ち着かせてくれようとしてくれてるのか、ぽんぽんとあやすように背中を叩かれた。
……どうしよう、ちょっと泣きそうだ。
「泣いてもいいんですよ」
「……嫌です」
「気丈に振る舞わなくても、誰も責めたりしません」
じわりと緩みそうになる涙腺を意地でも止めて、息を殺した。
優しい手に暖かな温度は、何も分からなくてぐしゃぐしゃになっていたわたしを全部包み込んでくれそうで。帽子屋さんに縋って泣いてしまったらって思う。
でも、そんな帽子屋さんの好意に甘えたくない。
ここで泣くのは間違ってる、泣いたって何も変わらないんだから。
「泣いてる場合じゃ、ないですから」
震えそうになる声でハッキリと言って、そっと帽子屋さんの胸を押した。
「強い、ですね。貴女は」
「強がってるだけです。だから、優しくなんて、しないでください」
「それはお約束できません」
さらりと、名残惜しいとでも言うように、わたしの黒髪が帽子屋さんの白い手袋から流れ落ちた。
「貴女の助けになりたいと思うのは、ご迷惑でしょうか?」
真っ直ぐに向けられる優しく細められた碧眼。
愛しく思われているって、勘違いしてしまいそうだけど、その言葉を拒否することなんかわたしにはできなかった。
帽子屋さんは優しくて……優しすぎて、わたしなんかにその優しさを向けてもらうのはお門違いだとか思うけど。
「迷惑なんかじゃ、ないです」
「ありがとうございます。微力ではありますが、お力添えになれるよう尽力いたしますことを、お約束しましょう」
覗き込まれるようにして真っ直ぐに目を合わせられた。
あの、顔、近いんですけど……!
白い肌に長い睫毛に縁取られた碧に映りこむ、わたしの顔が赤いのが分かるくらいに近い。
こんな状態でまともに言葉なんか返せなくて、わたしは無意味に口を開けたり閉めたりしていた。
そんなわたしを見て、小さく笑った帽子屋さんはそっとわたしから離れて、羽根つき帽を被りなおした。
「公爵夫人の元に、お伺いする旨をお伝えしてきます。それから、我らがクイーンのご機嫌をお伺いに」
肩に零れた一つに縛った長い髪を背中に流して、ゆっくりと扉の方へ歩いて、ふとわたしの方を振り返る。
「先程よりは速度を落としてますので、まだ歩き回ることは可能だと思うのですが……」
「あ、それは全然大丈夫です!」
「では、また後ほど」
尚も揺れる船で華麗に礼をした帽子屋さんに、わたしは返す言葉が見つからなくて、しばらくその場から動けなかった。
* * * * *
「クイーン……?」
ノックをしても返事が無いことに疑問を覚えた帽子屋は、一応部屋の主に一声かけてから船長室の扉を開けた。
室内は明かりさえ灯していないようで暗い。
勝手なことをするなと怒られることを承知で、帽子屋は小さく明かりを灯した。
「……余計なことをするな」
「おや、そちらにいらしたのですか」
腕を額に当てて光を遮るような格好のまま低く呟いたクイーンは、部屋の中央に置かれたソファーの上で寝そべっていた。
土ぼこりで少し汚れたらしい上着を机の上に放り投げて、肘掛の部分に頭を乗せて、長い足をはみ出させながらも仰向けに横たわっている。
「やはり、無理をしたのでしょう? 魔法陣を出現させるような力を使っていたので、こんなことになっているとは思っていましたが」
「……煩い」
「私より九つも年上のくせに、子どものようなことを仰らないで下さい」
我が儘で、高慢で、それでいて無茶をするクイーンを支えるのが帽子屋の役目だ。そんな兄であり船長を支えるのが、弟であり副船長である自分の役目だと思っている。
手の甲をまぶたに押し当てているクイーンは、疲れきった態度を隠そうとはしない。
「力の消費率が高いのは、あいつも同じだ」
「おや、トドメを刺さなかったのですか?」
何も返してこないクイーンに、催促するでもなく静かにその言葉を待った。
「……マッド」
「はい」
「忘れるな。あいつもアリスの妄執に囚われた一人だ」
共通しているのは、本物のアリスを求めて、アリスを捜し求めていると言うこと。
本物のアリスはもういない。
その事実を、例え我が目で見ていたとしても否定し続けている。
それは、アリスに関わったもの全てに共通することで、それほどまでにアリスは強烈で、消えることのない存在。
「……俺はまだ、あの人に会いに行くことはできない」
苦しそうに呟かれた声に、帽子屋も小さく顔を伏せた。
クイーンの苦しみも、公爵夫人のかんしゃくの原因も、先生がアリスに固執する理由も、本物のアリスが何かも帽子屋は知っている。
知っているだけで、それをどうすることもできない自分に歯がゆく思っているのも事実。
だがそれを他人に伝えることができないのも、まだ事実なのだ。
「えぇ、まだ誰もアリスを捕まえたままですから」
「あいつを認めた時点で、解放できると思ったんだがな。そう甘くもないらしい」
「アリスに近くて、遠い方ですからね」
偽者だと主張し続けていた不思議な少女。
彼女はアリスのような強さはないが、アリスにはない強さがある。
それはもろく儚いものだと思うが、それでもアリスを解放してくれる存在であればいいと思う。
そしてそれを手助けできれば、前のような傍観者にならないようにできればと願う。
「……情けないな」
「クイーンが弱音など、らしくもないですよ」
理解している帽子屋だからこそ、こうして弱い部分を曝け出していると解っていても、それに甘えさせたいとは思わない。
ハートの女王は、いつでも我が儘で、高慢で、自分勝手で、理不尽でなければいけないのだから。
それでこその【不思議の国】号の船長なのだから。
「永遠に時間を繰り返しているイカレ帽子屋に言われたくない」
「では、イカレた頭を取り替えましょうか?」
「……首を刎ねて欲しいとでも言うのか?」
「さぁ、どうでしょうか。イカレた頭ではまともな判断を下せません」
大きく息をついたクイーンは、ゆっくりと半身を起こして、尚も気だるそうな緩慢な動きで帽子屋を正面から見た。
互いの碧い瞳がぶつかる。
「……命令を下す」
「なんなりと」
「公爵夫人に、認めさせろ」
【不思議の国】号の偽者アリスを。
「そして、知らしめさせろ。世界に」
【不思議の国】号が、本気で動き出すと。
「かしこまりました」
アリスがいなければ、不思議の国の物語はずっと狂ったまま。
それに終止符を打てと言うのだ。
それが女王の命令ならば、従うまでだ。
女王命令は絶対なのだから。




