終 紀千菊 紀しず
「ふふっ、どれだけ生きたのかな。私は」
人からすればかなりの歳月がたったであろう。
我の膝の上で腰掛け、片腕で支えられながら話す年老いた彼女がいる。白髮で肌はもうしわだらけ。かつてあったはずの腕の肉は少なく、骨と皮だけしか見えない。
我より小さい身体も、あの時より小さくなったように思えた。
二人で見る空はいいものだ。我らを変わらず楽しませる。
しずと出会ってから、時間がたった。ああ、人からすればかなり経ったと言えよう。……あいつ、くず、相方にも紹介したかったが……訳あってまだ会えない。あいつは昔やらかした事の贖いから罰を受けている。現在進行だ。ったく、死ぬかもしれないのに自身の癖に溺れすぎだ。そんなクソ野郎を片隅において、彼女に目を向ける。
「今の時代にしてはかなり生きた方であろう。人としては長く生きたのかもな」
「人外からすると瞬きの間、でしょう?」
楽しげに笑う姿からはかつての有り余る元気さはない。折れぬよう、彼女の手に我の手を添える。自身の頬に触れさせる。温いが前より体温が下がっているように感じた。
我の行動が珍しいのか、彼女は驚いたように声を上げる。
「珍しいね。千菊様」
「……貴様の呼び方だけは、丁寧であったな」
「もう今更でしょう」
笑う姿を見て、我も釣られて微笑む。
我は、紀千菊の姿はしずと出会った時から変化していない。くずは、宗は、家族と過ごしている時は、こんなにも自分との違いを間近で感じていたのか。
あいつ自身は人の病にあまりかからず、丈夫で、身内の死を多く看取ってきた。むごい。だが、あいつが強く優しい理由もわかる。
彼女は話し続ける。
「千菊様は、いつ私を好きになったの?」
「……今まで、散々話しただろう」
呆れると、我が妻は「もう一度」という。仕方なく、こいつに話した。
「……知らないことを自分から知ろうとしたことからだ。我から多くを学ぼうとする貴様の姿勢は、感心に値する。気が付いたら目で追っていた。……小さいながらも、大きな我を受け入れてくれたことで惚れた。……何回言わせるつもりだ」
火を扱うのは得意なはずなのに、体が熱くなる。まったく、陳腐な事を言うのは恥ずかしい。我の恥ずかしそうな姿を見て、こいつはクスクスと笑う。
「何回も。残りは聞けるのか分からないからね」
にこやかに笑う姿は、年老いても良い。
……聞けるか分からない、か。確かにそうだ。半分人外で、人を多く知っているというものは本当に嫌なものだ。自分が人外であるせいか、その人間の弱っていくことすら分かるとはな。 ……自分が半分だけ人外であることを今は恨めしく思う。
我を見つめながら、しずは語る。
「あれから出会って、喧嘩して、お出かけして、子供を産んで……子供たちの成長を見守って、孫と曾孫を抱えられるまで生きるとは思わなかった。たくさんいろんなこと、あったね」
「そうだな。しずは自分の父と母の分を生きた」
「うん、誇れて……いけそう」
眠そうに瞼をおろしつつある。
──普通の人間ができることを我はできた。人を愛し、子を愛し、孫を愛でた。共に住み、共に食事をし、共に寝て、共に出かけた。末代が滅びるまで見守ってもよかろうと、そう思うぐらいには満たされた夫婦の生活を送ってきた。
最初は仕事で助けて死なせぬ為に契約した。何もなければ、あのまましずを贄として死なせていただろう。……しずと出会い、彼女を知れてよかったと今では思う。七十四年間、人を殺していない。役目としても、個人としても。最初に死なせるべきは己だと、彼女が言ったからな。
「千菊様」
声がかかる。
目線を彼女に向けると、若い頃のしずが微笑んでいるように見えた。
「──千菊様。私を死なせてくれる?」
一瞬で目を奪われる。
菖蒲の花が咲いたような、綺麗な笑顔だ。
……ああ、そうだな。しずは八十九。とても、生き抜いた。
「そういう契約だろう」
言葉遣いは良くない方だろうが、せめて言い方と声だけは優しくする。
「ふふっ、ありが……と……」
我の言葉を受け、彼女は嬉しそうに瞼を閉じて静かに寝息を立てる。
しずは妻として十分に役立った。延命の方法や不老不死にする術はある。だが、我は死なせる契約を果たす。死なせるという言葉の意味についてはものは言いよう。これについては未だに彼女からも文句はあるが、現在はもう言う力もない。
……彼女から聞こえる弱い音が、さらに小さくゆっくりになっていく。
しず、ゆっくりと父と母の元で休め。
契約を果たすというが、我にも我儘は一つだけある。だが、それは現在進行で叶っている。我儘というが、大した内容ではない。最後くらいはせめて、な。
──風が吹き、枝が揺れ木々の葉が擦れる音がした。
縁側を歩く足音が聞こえる。
「父さん」
低い男の声。我らの息子の声だ。
「……母さんは」
悲しげな声色だ。近くにいるのだろう。我は息子の方を見ず、しずを見つめた。目を閉じて動かない彼女を優しく抱き締める。我が頬に一筋、温い水滴のようなものを流れるのを感じた。
息子に伝える事は決まっていて、意味を知っている。我らの過去を我が妻が、よくせがれに話していたからな。
「──かつての口約束、その契りは果された。ただ、それだけだ」
(完)




