【第一部 完結】第六十九章 チェックメイト
いつもありがとうございます!
このお話で第一部完結になります!
最後までお楽しみ下さい!
夜、文化祭の狂騒が嘘のように静まり返った、神城財閥本社の最上階。
重厚な黒檀の扉の奥では、財閥の命運を握る「臨時役員会議」が執り行われていた。
そこには、昼間のステージで伝説を作った「若き天才」の姿はなかった。
代わりに立っていたのは、冷徹なまでの静寂を纏った、神城家の血を引く「冷酷な支配者」としての神城透亜だった。
「――以上が、プロジェクト・アイギスの凍結、および一馬兄さんが私的に流用していた資金の完全回収のリザルトです」
透亜が端末を操作すると、巨大な円卓の中央に、一馬の罪状をミリ秒単位で解析した膨大なデータがホログラムとして浮かび上がる。
かつて一馬にコバンザメの様に追従していた役員たちは、青ざめた顔でそのデータを凝視し、沈黙を守るしかなかった。
「……見事だ。……神城透亜」
円卓の頂点に座る老人ーー神城財閥の相談役であり透亜の祖父でもある神城劉玄が、低く、しかし威厳のある声で呟いた。
彼はゆっくりと立ち上がり、冷酷な目で透亜を見つめる。
「一馬が失脚した今、神城の次期当主に相応しいのは、血筋、実力、戦術、そして『冷酷さ』を兼ね備えた者のみ。
……透亜。
お前はその全てを証明した」
劉玄の宣言に、役員会議室の空気が張り詰める。
その張り詰めた空気の中、透亜のわずか数歩後ろ、影のように控えていた翡翠が、音もなく一歩前へ踏み出した。
翡翠は黒のチャンパオに身を包み、顔を布で隠している。
その佇まいは、昼間の男装「ツルギ」とは全く異なる、主君を守護する絶対的な従者のそれだ。
彼女の手は、チャンパオの下に隠した短刀の柄に、いつでも抜けるよう添えられている。
翡翠の気配が動いた瞬間、劉玄の目が、わずかに彼女へと向けられた。
「…… 狐か。
……血塗られた過去を持つ『狐狸』を、神城の影として、お前の『私物』として完全に支配下に置いた手腕もな」
劉玄の言葉に、翡翠はピクリともせず、ただ主君の背中を見つめ続ける。
透亜は視線を上げ、祖父の視線を真っ向から受け止めた。
「当然の結果です、相談役。
僕の脳内計算に、敗北の二文字は存在しない」
祖父と孫の、氷のように冷たい視線が交差する。
劉玄はフッと口元を緩め、役員たちに向けて、その決定を下した。
「――本日、ここに。
……神城透亜を、神城財閥の次期当主に指名する。
異論のある者は、今すぐこの場から退場してもらう」
「「……ッ!」」
役員たちは息を飲み、同時に深く頭を垂れた。
異論など、あるはずがなかった。
一馬のデリート、アイギスの凍結、正式な当主指名。
全ての盤面は、この若き天才の掌の上で完璧に完成されていたのだ。
「……畏まりました。
当主指名、ありがたくお受けします」
透亜は冷徹に言い放ち、現当主に、そして神城の頂点に向けて、完璧な礼を示した。
翡翠もまた、主君に従い、音もなく深く頭を垂れる。
最高の祭りが終わり、神城の未来は、完全にこの若き天才と、その影たる従者の掌の上で輝きを増していくのだった。
会議が終わり、冷ややかな静寂が、神城家の当主執務室を支配していた。
重厚なマホガニーのデスクに刻まれた無数の傷も、壁に掲げられた歴代当主の肖像画も、すべてがこの部屋の重圧を物語っている。
つい先刻まで、ここには兄・一馬が座っていた。
冷酷で、野心に満ち、神城家を己の欲望のために歪めようとした男。
(……やっとここまで来たな)
透亜は深々と革張りの椅子に身体を預け、天井を仰いだ。
緻密な策謀、ミリ秒単位の脳内計算、血の滲むような暗闘の果て――兄・一馬を完全に失脚させ、実権を奪い取り、自分はこの苛烈な家の頂点に立った。
望んでいた結果だ。
計算通りの完全勝利。
だが、どれほど緻密な計算式を組み上げようとも、勝利の後に残る肉体と精神の磨耗までは拭い去れない。
指一本動かすのも億劫なほどの疲労感が、どっと押し寄せていた。
その時、重厚な扉が静かにノックされた。
「透亜様。失礼いたします」
聞こえてきた声に、透亜の瞳へかすかに熱が戻る。
扉を開けて入ってきたのは、翡翠だった。
いつもの黒いチャンパオを着て給仕をするその表情はどこまでも穏やかで、ただまっすぐに自分だけを見つめている。
「……翡翠か」
「はい。
お茶をお持ちいたしました。
当主としての初日、さぞお疲れでしょう」
翡翠は静かな手つきでカップをデスクに置くと、すっと背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
「神城家当主ご就任、心よりお慶び申し上げます。
……専属護衛として、感無量でございます」
その言葉には、主君への忠誠と、それ以上に一人の少女としての心からの安堵が滲んでいた。
透亜は差し出されたお茶の湯気をぼんやりと見つめ、ふっと口元を緩める。
「…あの、透亜様」
そんな当主の様子を見て、翡翠がいつもの喋り方に戻って話しかける。
「透亜様は、今まで、私にたくさん色んな物をくれました。
だからと言ってはなんですが…私、透亜様にお祝いというか…お礼をしたいのです。
透亜様、何が欲しいですか?」
首をかしげる翡翠に、透亜はほんの少しだけ目を細め、少しの間思案し、静かに問いかけた。
「……何でもいいの?」
「? はい。
私がご用意できるものなら、何なりと」
翡翠は何の疑いもなく、まっすぐな瞳で頷いた。
その純粋すぎる答えに、透亜の胸の奥がじりと熱くなる。
何の計算も必要ない。
今、この疲弊しきった心と身体が欲している答えは、最初から一つだけだった。
「……じゃあ、キスして」
「…………え?!」
静寂の中に、翡翠の素っ頓狂な声が響いた。
ピシッと固まった翡翠は、自分が何を言われたのか理解しようと必死に思考を巡らせているらしい。
みるみるうちに耳の先まで朱に染まっていく。
「何でもいいんでしょ?」
「えっ!
そ、そう……ですが……。
そ、それでいいん……ですか……?」
慌てふためき、両手をわちゃわちゃと動かす翡翠。
そんな彼女の動揺を愛おしく思いながら、透亜はもう一度、熱を込めて呟いた。
「うん。それがいい」
逃がさないように翡翠を見つめる。
その視線に射抜かれた翡翠は、逃げ場がないことを悟ったように、うう……と小さく唸った。
(透亜様が……お望みなのだから……っ!)
覚悟を決めた翡翠は、震える手で意を決して透亜の顔に手を添えた。
ひんやりとした彼女の指先が頬に触れる。
透亜は抗うことなく、美しいまつ毛をゆっくりと伏せて、その時を待った。
静寂の中、近づく気配と熱量。
――ちゅ。
控えめな、可愛らしい音が室内に落ちた。
至近距離で、透亜はゆっくりと目を開く。
触れたのは、唇ではなく自分の頬だった。
目の前には、爆発したんじゃないかと思うほど顔を真っ赤にし、目をぎゅっと瞑っている翡翠の姿。
「……そこじゃなくて」
透亜が低く、少しだけ意地悪く呟く。
「だっ……だって……うぅ……わ、わかりました」
翡翠は泣きそうになりながらも、決して「嫌だ」とは言わなかった。
震える息を吐き出し、もう一度、今度は逃げずに透亜の正面へ顔を近づけてくる。
透亜は再び、優しく目を閉じた。
直後――唇に、柔らかく温かな感触が優しく触れた。
羽毛が触れ合うような、あまりにも軽やかで、けれど息が止まるほど愛おしい感触。
ほんの数秒。
触れただけのそれがすぐに離れていく。
透亜がそっと目を開けると、そこには自分の顔を両手で完全に覆い、耳まで真っ赤にして崩れ落ちそうな翡翠がいた。
指の隙間から、潤んだ瞳がちらりとこちらを見ている。
当主の座を手に入れた瞬間も、これほどの充足感は得られなかった。
疲労も、孤独も、重圧も、すべてがその一瞬でどこかへ吹き飛んでしまっていた。
透亜の口元が、自然と破顔する。
普段のクールな面影はどこにもない。
少し照れて、けれどものすごく嬉しそうな、等身大の少年の顔だった。
「してもらうのもいいね。
……またして」
「……っ~!!」
照れくささの限界を迎えた翡翠が、手のひらの後ろで何かごにょごにょと意味をなさない言葉を呟いている。
「無礼です」とか「当主様がそんな」とか、きっといつもの真面目な屁理屈を言おうとして失敗しているのだろう。
透亜は椅子から立ち上がると、愛おしくてたまらないといった様子で、そんな彼女の華奢な身体をそっと優しく抱きしめた。
「……ありがとう、翡翠」
人間業じゃない動きをしているとは思えないほど小さな背中にそっと手を回し、その体温を確かめる。
過酷な戦いは終わり、自分たちの新しい時代が始まる。
最初は――
君をただの道具として扱った奴ら全員に復讐し、引きずり下ろすためだけに、この座を奪うつもりだった。
だが、途中で計算式は完全に書き換わった。
今の僕が当主になった理由は、そんな過去の清算のためじゃない。
君と対等に並び立ち、君と幸せになるためだ。
(ーー君の愛を、もっとちょうだい)
この温もりがある限り、どんな未来が来ようとも怖くはないと、新当主・神城透亜は心から確信していた。
第一部 完
最後までお読みいただきありがとうございました。
たくさんの方が読んで下さり、本当に励みになりました!
続きの話を書くときは、また、お知らせします。
違うお話を書くかもしれないです。
良かったよ、と思ってくださったら、評価やブクマで応援していただけると励みになります!




