007.小説の中の世界
ラスフィアはだんだんと逆行に慣れて来た瞳で、扉を蹴破り、店の中へと入って来た青年を見つめた。
再びの既視感。
ラスフィアは、この青年を知っている。
太陽の光を受けて輝く髪。健康的に焼けた肌。立派な体躯。力強い瞳。鋭い美貌。その美丈夫は黒色の隊服を纏い、腰にサーベルと拳銃を差している。青年は、警察隊だ。
だが、ラスフィアに警察隊の知り合いはいない。
以前にどこかで会ったことでもあるのだろうか。
そう考えたラスフィアは、青年を凝視した。
髪色は、灰色がかった薄茶。その髪の一房の所々には、黒い線が入っている。
顔は、とんでもなく整っている。
一度見たら、そう簡単に忘れられるような美貌ではない。
(でも、知ってる……!)
青年の、淡い色合いの金色の瞳。その瞳がはっきりとラスフィアの瞳を捕らえた途端、宝石のように煌めいた。
だがすぐにその視線は外され、次いで何かに気付いたように鋭く細められる。
「……その手を、離せ」
放たれたその声には、怒りが滲んでいる。
けれどリューンは青年の言葉を無視して、ラスフィアの髪を握ったままだ。どうやら威嚇されたことよりも、なぜ自分の犯行が露見したのか、その理由に意識が向いているらしい。
「お前等……、どうしてここが」
(お前等……?)
助けが来た事で余裕のできたラスフィアは、目の前の状況とリューンの落とした言葉の相違を、零さず拾い上げることができた。
見れば青年の後ろには、さらに二人の人物が控えていた。青年のすぐ後ろには、銀色の短い髪に青い瞳の男性。そしてさらにその奥には、濃い茶色の髪の女性が見えた。
そして驚いたことに、銀髪の青年にも、後ろで大きな目をさらに大きく見開いているその女性にも、ラスフィアは見覚えがあったのだ。
(なんで……? どうしてこの三人に、見覚えがあるの?)
だが、よくよく考えてみれば、この三人だけではない。ラスフィアは、リューンの顔にも見覚えがあったのだ。
知っているはずのない情報。
経験していないはずの記憶。
これは六歳ではじめて前世の記憶の欠片を思い出した時の状況と、相似していた。
(もしかして……前世に関係あるの?)
必死で記憶を思い出そうとしていたラスフィアだったが、その時ふいに、ラスフィアの髪を握る指にリューンが力を込めた。頭部に走った鋭い痛みにラスフィアが小さな悲鳴を上げたその瞬間、青年の表情が変わった。
「……離せって言っただろうが!」
青年の鋭い怒声に、ラスフィアの身体がびくりと震えた。
けれど怯んだのは、リューンも同じだったらしい。青年が怒鳴った瞬間、固く握られていたはずのラスフィアの髪が、リューンの指からするりと離れた。
髪をひっぱる力がなくなったと思ったと同時に、ラスフィアの横を疾風が過ぎ去り、なんらかの物たちが壊れる音が、背後で壮大に響いた。
だが、身体に力が入らないラスフィアは、そちらを振り向くことも出来なかった。ただ己の横に存在する、熱さえ放っているかのような圧倒的な気配に、カタカタと震えることしかできない。
「……レイド。彼女が怖がっているぞ」
その声に反応したレイドと呼ばれた青年が、瞬時にラスフィアの前に膝を突いた。
突然の青年のその行動に驚いたためか、震えが止んだ。
パチパチと目を瞬かせれば、その拍子に目の縁に溜まっていた涙が、ポロリと一粒零れ落ちる。その様子を見た青年が、わずかに眉を顰めた。
確かに、先ほどのこの青年は怖かった。しかし、この時のラスフィアは怖がっていたのではなく、まったく別のことを考えていた。
(レイド……、レイド。……そうだ、彼の名はレイド・ファルガス)
ラスフィアは目の前にある、所々に黒い筋の入った灰茶の髪を見つめた。
斑点に、見えなくもない。
(そして……オオヤマネコの亜人)
次にラスフィアはのろのろと顔を上げ、レイドの後ろに控える二人の人物を見た。
(銀色の髪の人は、ライナス・マクスウェル……狼の亜人。そして、あの女性は……。リアーナ……。リアーナ・トレスタ!)
ヒロイン。
そんな言葉が、自然と頭に浮かんで来た。
亜人が存在するこの世界。
見覚えのある顔。
会ったことはないはずなのに、名前はおろか、何故かそのバックボーンまで思い浮かぶ人たち。
これまでに目の前に現れて来た様々なパズルの欠片を組み合わせた結果、ラスフィアの頭の中で一つの答えが導き出された。
(……待って。嘘でしょ? ということは……。まさか、ここって……あの小説の中の世界⁉)
タイトルは忘れてしまった。
話の内容だって、詳細には覚えていない。
覚えているのは、メインの登場人物たちの名前と、挿絵に描かれていた絵姿くらいだ。
けれど、ラスフィアが前世読んだことがあり結構気に入っていたその小説は、確かに異世界を舞台としていた。
小説の舞台は、前世の世界でのおよそ1800年代後半から1900年代前半辺りのヨーロッパを、ごちゃ混ぜにしたような世界。
亜人と呼ばれる存在と人間が混在する世界で、種族の違うヒロインとヒーローが反発し合いながらも、やがて惹かれ合っていくという小説だった。
その小説のヒロインが後ろの女性で、ヒーローが、今ラスフィアの目の前にいる青年だ。
そして銀髪の青年はヒーローの恋敵役。ヒロインの心は、何もかも正反なこの二人の青年の間で揺れ動くという内容だった筈だ。
前世のラスフィアはヒロインの心情に自らを重ね、小説を読みながら一緒に悩んだり涙したりしたものだ。内容は碌に覚えていないというのに、感動したことだけは良く覚えている。
だが、だからといってその小説の中の世界への転生など、微塵も望んでなどいなかった。
(いえ、嘘。ちょっとだけ……。ちょっとだけなら、ケモミミケモシッポ本物見てみたいとか思ってた! 等身大のライオンに王子様の恰好してもらいたいとか、狼男にスーツ着てもらいたいとか思ってた!)
でもだからといって、本当に小説の中の世界に転生するなんて、思うわけないではないか。
(嘘でしょ……。小説の中に転生とか……)
突如突き付けられた思いもしなかった現実に、ラスフィアは思い切り項垂れた。
「……ごめん! 怖がらせた」
それを恐怖のための行動と勘違いした青年――レイドが慌てている。
(ああ……違う! 違うの!)
ラスフィアは慌てて顔を上げ、青年の瞳を見つめた。
「いえ……。大丈夫、です。助けて下さり、ありがとうございます」
唇と舌がまだ何となく痺れているため途切れ途切れの言葉になってしまった。だがその代わり、ラスフィアは感謝の心が伝わる様にと、精一杯の笑顔を浮かべた。
すると何故かレイドが眼を見開いたと思ったら、瞬時にその目元を仄かに朱に染めた。
(ええ……? お礼を言われて照れたの? 純情なの? 何それ可愛い)
小説の中のレイドは、ラスフィアの覚えている限り俺様な性格をしていたはずだ。
けれど本物は意外と純情だったとラスフィアが感動していると、誰かから遠慮がちに声がかけられた。