006.油断大敵
白猿の男性は、自らをリューンと名乗った。
名も、どこかしら異国の響きを持っている。
リューンに案内された喫茶はまだ開けていないと言っていた通り、カーテンが閉められているため店内が薄暗い。そこかしこに置いてあるいくつかのランプを灯したことで、ようやく視界が利くようになったほどだ。
「少し暗くとも、勘弁してほしい。カーテンを開けると開店したと勘違いされるし、電気は暗くなってからしか点けないんだ。電気代も馬鹿にならないからな」
「いえ、ランプの明りが良い雰囲気を出していますよ」
トルロイの言う通り、暖色の光を放つランプが薄暗い店内を照らし、とても幻想的だ。
(良い喫茶を見つけたわ……。常連になりそう)
店内の雰囲気は好みだし、店主は優しく好印象。これで提供される飲食物の味が良ければ、言うことなしだ。
「君たちは、もしかして観光客かい?」
「はい。隣国のリアンタから来ました。今度、娘がこちらの国で働くことになりまして」
「そうか。隣国から来たのか。リアンタへは、良く行くんだよ。あそこは良い国だ」
言いながら、リューンはラスフィアとトルロイの前に、珈琲の入ったカップを置いた。
まだ店を開けていないと言いながらも、手際良くラスフィアの手当てを済ませた後、珈琲まで淹れてくれたリューンに、ラスフィアもトルロイも恐縮して礼を言った。
「気にすることはない。困った時はお互い様だ。さあ、冷めないうちに飲んでくれ」
もう一度礼を言ってから、リューンの淹れてくれた珈琲に口を付ける。すると、芳醇な香りが一瞬で口内に広がった。味も良い。その珈琲は酸味の中に程よい苦さがあり、とてもラスフィアの好みだった。
「美味しいです……!」
満面の笑みをリューンに向けると、少し照れたようなはにかんだ微笑みが返って来た。
「農家から直接仕入れた、数種類の豆をブレンドしてあるんだよ。それによって独特の風味が出るんだ」
「ああ、確かに美味しいですね。うちでも取り扱いたいくらいだ」
トルロイは、商売に関してお世辞を言うことはない。となれば、本当にリューンの出す珈琲を気に入ったのだろう。
「それにしても……本当に助かりました、リューンさん。泊っているホテルまで戻るには少々距離があったもので、早くに手当てが出来て良かった」
そう言って、トルロイが今はガーゼに隠れているラスフィアの脚の怪我を見て眉を顰めた。
(本当にたいした怪我じゃなかったんだけど……)
「気にしないでくれ。美しいお嬢さんだからなあ、たいした怪我じゃなくて良かったよ」
「まったくです」
トルロイの親馬鹿加減が恥ずかしくなり、ラスフィアは頬を染めて俯いた。けれど、トルロイがリューンと親し気に話をする姿を見て、安堵してもいた。
トルロイもラスフィアも、基本的には亜人に対する恐れを持っていない。それは多分に、長い付き合いである蜥蜴の亜人、ディートヘルのおかげであるとラスフィアは思っていた。
けれど先ほどの亜人の喧嘩は、やはり怖いと思ってしまった。あのままリューンと出会わなかったら、トルロイもラスフィアも、亜人に対して嫌な思い出が残ってしまうところだったかもしれない。
(記憶の上塗りができて、良かったわ……)
そう思いほっとしたことで気が抜けたのか、何だかラスフィアの瞼が重くなってきた。
眠気を追い払うように、意識して瞬きをする。それからトルロイに視線を向けたラスフィアは、机に俯せる父の姿を目にし、一瞬思考を飛ばした。
「……お父、様?」
声を出したことで、いつの間にか己の唇と舌が痺れていることにも気が付いた。
震える手で持っていたカップを机に置き、その手で自らの唇と喉に触れる。
(珈琲の中に、何か入っていた……?)
ラスフィアが茫然と机に突っ伏しているトルロイを見つめていると、リューンがトルロイの手からカップをそっと取り上げた。その手つきはあくまで優雅で、トルロイはただ疲れて眠り込んでしまったかのように錯覚してしまう。
(でも、違うわ……。お父様は絶対、他人の前でこんな風に無防備に寝たりしない)
一見すると見た目も口調も穏やかで、些か頼りない印象を他人に与えるトルロイだったが、商人らしい抜け目のなさも警戒心もちゃんと持っている。そのトルロイが共にいたからこそ、ラスフィアもリューンに対し全く警戒心を抱かなかったのだ。
「本当に、大した怪我がなくて良かった。こんな上物はなかなか手に入らないからなあ」
「リューン、さん」
ラスフィアの震えながらもはっきりとした呼びかけに、リューンは不思議そうに眉を顰めた。
ラスフィアを見つめるつぶらな黒い瞳が、今は底なしの闇を宿しているように感じられる。
「おや? 君は薬が効きにくいのかな?」
リューンはそう言うが、恐らくそうではないだろう。
すでにラスフィアが見ている限り三口以上珈琲を口にしていたトルロイに対し、ラスフィアは最初の一口しか飲んでいない。あとは考え事をしていたため、カップから立ち上る芳しい香りを嗅いでいたにすぎないのだ。
(薬の味が、まったくわからなかったわ……。珈琲の苦みで消されていたの?)
ラスフィアの家は商家であるため、薬に関する情報ならば合法のものも非合法のものも、ある程度ならば集まって来る。ラスフィアの前世の世界ならばいざ知らず、この世界ではどのような薬であれ、何かしら味がするものなのだ。けれどいくら味の濃い珈琲に入れられていたとはいえ、ラスフィアもトルロイもまったく気付かなかった。
特にトルロイなどは食品も扱う商人であるため、食品の味の変化には敏感なはずだと言うのに。
「まあ、いいさ。もう父親の邪魔は入らない。か弱い君だけでは、どうすることも出来ないだろう」
わずかに飲み込んだ薬の影響と激しい動悸により、ラスフィアの視界がぐらぐらと揺れた。倒れまいと上半身を捻り、椅子の背に縋りつく。熱を持った瞼の下からは、同じく熱い涙がこみあげて来た。ラスフィアの歪んだ視界に、白い体毛に覆われたリューンの顔が映り込んだ。
(やっぱり……。どこかで見たことあるわ、この人。どうして……一体どこで……)
リューンは亜人の中でも希少種である、白猿の亜人だ。そもそもが、亜人が多く生活するこの国の生まれでないラスフィアでは、リューンに出会う確率はかなり低い。そして万が一、店の客としてリューンが来ていたのだとしたら、とっくに思い出しているはずだ。
(いえ……今はそんなことはどうでもいいわ。どうにかして、この場から逃げ出さなくちゃ……)
けれど逃げ出さなくてはと思っても、薬のせいか、はたまた恐怖のせいか、身体に力が入らない。どのみちただのか弱い人間であるラスフィアが、亜人であるリューンに敵うとは到底思えなかった。仕方なしにラスフィアは、誰かが助けに来てくれることを願って、時間を稼ぐことにした。
「ねえ。薬の……味がしなかったわ」
ラスフィアの言葉に、リューンがどこか誇らしそうに笑った。どうやら、自尊心を刺激することに成功したようだった。
「薬の味を消すのには苦労したよ。けれど、こういうものに詳しい悪友がいてね。今回使ったのも、その悪友に用意して貰ったものなんだ。その薬の臭みを消すために、何度も何度も、豆の配合を繰り返した。大変だったなあ。でもそのかいあって、美味しかっただろう? しかし、本当に美しい子だ。俺は人間にはあまり興味がなかったが、君ならば趣旨を変えてもいい。このまま売らずに、手元に置くのもいいか……」
リューンの大きな白い体毛で覆われた手が伸びて来て、ラスフィアの髪を一房救い上げた。そして同じく白い体毛で覆われた太い指に、ラスフィアの細い髪を絡めて遊んでいる。
髪から伝わるリューンの指の感触に、ラスフィアは寒気を覚えた。
「だが、隠したまま生活するのも面倒だしなあ……」
リューンはラスフィアの全身を眺めながら、独り言ちている。その間もリューンはラスフィアの髪を握ったり、くるくると巻いてみたりとやりたい放題だ。
このまま売られるにしてもリューンの手元に置かれるにしても、リューンがトルロイをこのまま解放するはずがない。トルロイは、はっきりとリューンの顔を見ているのだ。下手をすれば殺されてしまう。
否、先ほどリューンはもう父親の邪魔は入らないと言った。となれば、トルロイはもしかしたら、もう――。
残酷な己の考えに、ラスフィアが蒼褪める。するとそんなラスフィアに気が付き、リューンが含みを込めた笑みを見せた。相手を馬鹿にしたような厭らしい笑みに、ラスフィアは恐怖を忘れ、思わずリューンを睨みつけた。
「そんなに睨まないでくれ。大丈夫、眠らせただけだ。死体の処理をするくらいなら、高値がつかずとも売り払った方がいいからね」
ただ眠らせただけというリューンの言葉に安堵しつつも、続いた言葉に息が止まった。
私だけではなく、トルロイも売り払う。
殺されないだけ、マシなのかもしれない。けれどあまりにも二人の命と人権を軽視しているリューンに対し、ラスフィアの心に湧いてきたのは止めどない怒りだった。
そんなの冗談じゃない。
震える唇でラスフィアがそう言葉を紡ごうとした矢先、轟音を立てながら、店の扉が何者かによって蹴破られた。
床に打ち付けられた扉が店内に木くずと粉をまき散らし、扉のあった場所から入り込んだ眩い光が、薄暗闇に慣れたラスフィアの瞳を刺激する。
そうして、扉の無くなったその場所から現れたのは、一人の青年だった。
陽の光に照らされ輝く髪。逆光の中でもその瞳は爛々と輝いており、歪んだ口元から漏れる呼吸音は、獲物を前にした獣の唸り声のようだった。
(こ、怖……!)
まるで、目の前に猛獣が現れたかのような威圧感。
一瞬また別の脅威がやってきたのかと絶望しかけたラスフィアだったが、さらに一歩店の中に入って来たその人物の姿を見て、驚愕に目を見開いた。




