065.変わる運命
暗い海の中に沈んでいく車の中で、ラスフィアは無我夢中で窓ガラスを蹴っていた。
両足首を縛られているものだからほとんど力は出なかったが、わずかながらヒールのある靴を履いていたことが幸いした。硬いかかと部分が、窓ガラスに当たったのだ。
一撃で窓ガラスにひびが入ったのを確認したあと、腹筋に力を籠め、もう一度縛られた両脚を膝を曲げた状態で宙に浮かせ、思い切り前へと伸ばした。
その再度の一撃でどうにか窓ガラスを割ることができたのだが、その途端、勢いよく海水が流れ込んできた。車の中が海水で満たされる前に、ラスフィアは慌てて大きく息を吸い込んだ。
それから若干の重さを感じさせる動きでもって海の底へと沈んでいくガラスの欠片を見届けてから、両手を縛っていた布を、割れた窓ガラスの先で切り裂いた。
両手が自由になれば、後は口を塞いでいた粘着テープも、縛られた脚もどうにかすることが出来る。
布を切り裂くときわずかに手首に痛みを感じたが、今はそんなことを気にしている余裕はない。まごまごしていたら、溺れてしまう。
ようやく両手を縛っていた布が外れると、ラスフィアは息苦しさが増してくる中、口を塞ぐ粘着テープと、両脚を縛っていた布を解いた。
それから後部座席の扉を開けようと力を込めてみるも、水圧のせいかすでに力が出なくなっているせいか、扉はびくともしない。
こうなればもう、割れた窓から外に出るしかない。
だが残っている窓ガラスの欠片を外そうと力を込めた瞬間に、わずかに海水を飲み込んでしまった。焦りと恐怖で、だんだんと意識も遠のいていく。
本当に、もう駄目なのか。自分は、死ぬしかない運命なのか。
そう思った途端、頭の中に様々な映像が浮かんで来た。
両親と弟の顔。友人たちの顔。笑った顔、怒った顔、泣いている顔。幼い頃の思い出。家族で遊んだ川辺。勉強をしに通った教会。
そして、このガルストラへ来てから出会った人たち。その人たちの顔が次々と浮かんでくる中、最後に浮かんで来た顔に、ラスフィアの心は後悔で埋め尽くされた。
どうして、素直にならなかったのか。どうしてもっと、関わらなかったのかと後悔した。今頃後悔しても、何もかもがもう遅いのに――。
きっと、最初に助けてもらった時から、ラスフィアはレイドに惹かれていたのだろう。けれど、リアーナに対し遠慮があった。二人の邪魔をしてはいけないと、そう自分に言い聞かせていたのだ。
友人だと言って貰った時は、嬉しかった。そして、自分がレイドの「番」だと知ったときからは、きっと恐れも抱いていた。
レイドにはリアーナがいるのに。そう決まっているのに。
もし、ラスフィアがレイドの番だという事実を、受け入れたとして。受け入れて、レイドを好きになったとして。
きっとレイドは、「番」であるラスフィアを無下には扱わない。だからこそ、ラスフィアがレイドを好きになれば、レイドを縛り付けることになってしまう。
本当はリアーナが好きだとしても、仕方がないから、レイドはラスフィアの傍にいてくれるかもしれない。
けれどそんなの、あまりにも切なすぎる。惨めすぎる。
自分の存在が誰かの邪魔になるくらいなら、自ら身を引いたほうがよほど良い。
好きな相手に疎ましがられるだけの存在など、誰がなりたいものか。
だから、ラスフィアは最初から負けを受け入れていたのだ。リアーナには勝てない。ヒロインには勝てない。運命の恋には勝てない。そう言い訳をして。
けれど。
こうやって死んでいく運命だったと言うのなら、せめて想いを伝えておけば良かったと後悔した。振られたとしても、ヒロインには勝てなくても、選ばれなかったとしても。それとラスフィアのレイドへの気持ちとは、本来なら何の関係もないのだから。
(そうよ……。逃げてただけじゃない……。番とか、関係ないわよ。失恋くらい、誰だって経験していることだわ……)
番は、絶対的な関係じゃない。少なくとも、人間であるラスフィアにとっては。番に拒否されたからといって、ラスフィアの存在自体に価値がなくなるわけじゃない。
(もし生きて帰れたら、レイドさんに気持ちを伝える……!)
不思議なことに、レイドへ気持ちを伝えようと決意した途端、なんだか力が湧いてきた。
(……死んで、たまるか)
死ぬ運命って、なんだ。
そんな運命、知ったことか。
(そんな運命、私はぜったい、信じない――)
せめてレイドに想いを伝えるまでは、死んでも死にきれない。
そう自分を鼓舞して、ラスフィアは気力を振り絞った。
(――死んでたまるか!)
心の中で叫んだその時、割れた窓の向こうに突如、レイドの姿が現れた。
水の中なので視界は歪んでいるが、間違うわけがない。もう、何度も助けられているのだ。最初に助けられた時から、何度も何度も。
(……レイドさん、来てくれたの? それとも、夢?)
これは死ぬ間際に見る夢なのか。そうだとしたら、例え夢でも良いから、レイドに伝えたい。
そう思うのに、もう瞼が重くてしかたないのだ。海水が眼球にもたらす痛みと相まって、ラスフィアはとうとう瞼を閉じてしまった。
(言えなかった……でも、最後にレイドさんに会えた……)
ああ、このまま自分は死ぬのだなとラスフィアが覚悟をした時、力強い腕に身体を引き寄せられた。
夢にしてはおかしいと思ったラスフィアが瞼を開けば、こちらを見つめるレイドと目があった。
(レイドさん……本物?)
レイドはラスフィアを抱きしめたまま、どんどんと海面を目掛けて浮上していく。透明な海面の向こうに明るい光を感じた直後、ラスフィアは海上に顔を出していた。
「ラスフィア! ラスフィア!」
レイドが必死に己を呼ぶ声を聞きながら、ラスフィアは懸命に息を吸おうとした。けれど苦しくて苦しくて、吸おうとしても空気が肺に入ってこない。
「おい! 早く陸に上げて海水を吐き出させろ!」
(ギーさんの声も聞こえる……)
レイドに身体を持ち上げられたと思ったら、上から誰かに引き上げられた。
「お嬢さん! 全部吐け!」
ギーに口の中に指を入れられ、喉の奥を刺激される。途端に、胃の中から大量の海水が吐き出された。わずかしか飲んでいないと思っていたが、結構な量を飲んでいたらしい。
(た、食べてなくて良かった……)
幸いにも昼に食べたものはすでに消化されていたらしく、海水しか出てこなかった。
先ほどまでかなりシリアスなことを考えていたというのに、現実に引き戻された途端、これだ。吐いたものの内容を心配しなければならないとは、まったく現実は恰好がつかない。
(でも……好きな人の前だし……)
そもそもが好きな人の前で胃の中のものを吐き出すこと自体、できれば避けたいことのベストテンくらいには入っている。
しかも、吐いたあとには、しばらく咳が止まらなかった。食べ物が間違って食道ではなく気道に入ってしまった時のような感覚、それをさらに重症化させたような息苦しさだった。
ようやく咳が落ち着いてきた頃、レイドに名を呼ばれた。
「ラスフィア」
呼ばれ、顔を上げると、心配そうにこちらを見つめるレイドと目が合った。それから分厚い毛布のようなものを身体にかけられ、包まれる。
「レイドさん……ありが……とう、ございます」
「遅くなって悪かった」
息も絶え絶えで礼を言ったら、何故かレイドに謝られた。しかもレイドは今にも泣きだしそうな表情で、ラスフィアを見つめている。
遅くなどない。自分はこうして生きている。レイドのおかげで、生きているのだ。
そう言いたかったのに、ラスフィアには首を横に振ることしか出来なかった。
もう一度会えたことへの歓喜、また助けられたことへの感謝、そして、助かったことへの安堵が一気に押し寄せて来て、とても声を出すことなど出来なかったのだ。
ただ泣くだけのラスフィアを、レイドは何も言わずに抱きしめてくれた。




