012.運命の恋など信じない/見つける
地面に鼻を擦り付けるようにして、ライナスが残された「彼女」の匂いを嗅いでいる。
他の男に匂いを嗅がせることに嫌悪感が湧き上がってきそうになるのを、レイドは理性で押し留めた。
「かなり大勢の亜人が、集まっていたようだ。……ここで何をしていたんだ?」
眉を顰めたライナスに、レイドも同じく眉を顰めた。
「どうせ喧嘩でもあって、その周りに野次が集まったんだろ。亜人は血の気が多いからな」
もし「彼女」の怪我がその争いに巻き込まれたが為のものだと言うのなら、そいつら全員見つけ出して殺してやると、レイドは冷静な口調とは裏腹に内心ではかなり激高していた。
「それと……もう一人、人間がいるな。……こちらは男だ」
ライナスのその言葉を聞いた瞬間、レイドの頭は沸騰しそうになった。
人間の「彼女」の傍に、人間の男。
そいつは一体「彼女」とどういった関係なのか。そして何故、そいつがいながら「彼女」が血を流すような事態になったというのか。そいつはその時、何をしていたのか――。
次々と湧いて来る疑問と男に対する殺意に、レイドは奥歯を噛みしめた。
「そう、怒るな。匂いが似ているから、おそらく肉親だろう。それに、亜人相手では人間ではどうにもならん」
「……わかってる」
それでも苛立ちは治まらなかったが、その男が「彼女」の肉親だというのならば、その苛立ちを直接ぶつけるわけにもいかない。「彼女」を悲しませてしまう。
だがもし――とレイドは思う。
考えたくもないが万が一「彼女」に何かがあれば、たとえ肉親だろうと許す気はないと。
しかしそう思う一方、会ったこともない「彼女」をそこまで想う自分に、レイドは戸惑ってもいた。
あの匂いを嗅いだ瞬間は、それが「誰か」のものであるという確信を、レイドは持っていなかった。匂いを追う内に、それは女性の、そして人間である「彼女」の匂いであるとわかったのだ。
レイドは女性の匂いに拘る質ではなかったし、特定の誰かの匂いに対し、感情を搔き乱されたこともなかった。だがこの「匂い」は、それまでのレイドのすべてを覆すかの如く、レイドの心を捉えて離さないのだ。
懐かしく、慕わしく、心地よい。
今も仄かに香る甘い匂いに、レイドは心を傾けた。
早く会いたい。
困っているなら助けたい。
そんな普段の自分らしからぬ感情が、自然と湧いて来た。
その感情がどういった種類のものかということには、あまり興味がなかった。まだレイドは「彼女」に会っていない。「彼女」の残り香を嗅いだだけだ。
この感情にどんな名をつけるかは「彼女」に会ってからだと、レイドにはまだそう思えるだけの余裕が残っていた。
ライナスがレイドを一瞥してから視線を地面に戻し、そしておもむろに立ち上がり、とある方向に向けて身体の位置を変えた。
「おそらく、匂いは西大通りに向かっているな。それと……二人のごく間近に亜人の匂いもする。匂いからして猿の亜人だろうが……」
そこでライナスが一旦言葉を区切り、考える仕草を見せた。
「猿? 大型か? 小型か?」
大型ならば森林猿、小型ならば山猿の仲間だ。
「わからん。あまり嗅がない匂いだ……」
ライナスの鼻は、亜人の種族まで特定することが出来るほどに精密だ。そのライナスがわからないと言うからには、相当に珍しい種族の亜人ということになる。
「――警部! レイド!」
遠くからこちらに向かって駆けてくるリアーナの姿を認め、レイドは眉を顰めた。
「……あいつも来たのか」
同僚であるレイドと上司であるライナスが文字通り飛び出したのだから、リアーナの立場としては後を追わないわけにはいかないだろう。そしておそらく、ライナスからもそう命令を受けている。
それはわかっていたのだが、今のレイドはリアーナの小言を黙って聞いていられる気分ではない。もしいつものような状況にでもなったら、牙を剥かずにいられるか自信がなかった。
「俺だけではお前を止められないかもしれないと思ってな。だが、誘拐事件の可能性も出て来たならば、リアーナだけでも足りないな。ここにある亜人の匂いは一人分だが、匂いを追って行った先で何人待ち構えているかわからん」
「何人いたって、俺とお前がいれば楽勝だろ」
レイドとライナスは亜人の中でも特に能力が高く、警察隊としても優秀だ。普通の亜人程度ならば、相手ではない。
「人質は“彼女”だけではないかも知れんだろ。実際“彼女”の他にもう一人いるんだ」
そう言われてしまえば、犯罪捜査を主な職務とする警察隊としては黙るほかはない。誘拐された人間が一度に一人とは限らないとは、ライナスの言う通りだからだ。
そしてレイドは「彼女」を見つければ、どのような状況であろうとも「彼女」を優先するつもりでいたし、「彼女」の身を他の人間に任せる気は微塵もない。だからこその増員でもある。
「……わかった。だが応援が来るまでの間も捜索は続ける」
しぶしぶだが納得したレイドに対し、ライナスが「それでいい」と頷いた。
「人質って……もしや誘拐犯を見つけたんですか⁉」
レイドたちに追いついたリアーナがライナスの言葉を聞き、驚きに目を瞠っている。
「まだ可能性の段階だ。だが……当たりかも知れないな」
ライナスは本部に数人の増員、そのうちの一人に必ず鼻の利く亜人を入れることを要求した。そしてリアーナには応援がくるまでその場で待てと指示を出し、レイドとライナスは捜索を続けた。後は応援に来た者たちがレイドたちの匂いを追ってくればいい。
捜索を続けていたレイドとライナスだったが、ふいにある地点で先頭を歩いていたライナスが足を止めた。そこは先ほど「彼女」の血の匂いを確認した場所から、数分程歩いたところだった。
「どこだ」
聞いたレイドに対し、ライナスは一軒の店を視線で指し示した。“喫茶”という看板を出しているその店は、一服するには丁度良いこの時間帯だというのにカーテンを閉め切っている。
「おそらく、あの店だ。だが本当に事件に関係があるかどうかは……――」
ライナスがすべての言葉を言い終える前に、レイドは店に向かって走り出していた。
事件に関係があるかどうかは、問題ではない。
問題は血を流した「彼女」が、あの店にいるということだ。その無事をこの目で確認しないことには、落ち着くことなどできはしなかった。
あの店に「彼女」はいる。
この距離ならば、レイドにも「彼女」の匂いは濃く薫って来る。匂いだけではない。聴覚の鋭いレイドには、現在の店内の様子もわかっていた。
三人分の呼吸音。部屋の奥に、犯人ともう一人。そして「彼女」がいる。
部屋の中にいるのはこの三人だけだ。
それでも中にいる「彼女」を怖がらせないようにと、正面から扉の把手を掴もうとレイドが手を伸ばすと同時に、中にいる男の声が聞こえてきた。
――そんなに睨むな。大丈夫、眠らせただけだ。死体の処理をするくらいなら高値がつかずとも売り払った方がいい。
男がそう言い放った瞬間、「彼女」の息を呑む音が聞こえた。次いで小さく吐き出された吐息には、嗚咽が混じっている。
その「彼女」の心の痛みを露にした微かな音を聞きつけた瞬間、気付けばレイドは店の扉を力任せに蹴破っていた。




