兄の白猫
兄貴が猫を買ってきた。
白い猫だ、雌っぽい見た目だけど雄らしい。
いくらで買ってきたのかと聞いてみると、結構なお値段だった。
三日前に死んだ兎の倍以上だった、馬鹿じゃねえのって思った。
でもいつもどおりペット代は全部自腹という約束はきっちり守っているようなので何も言わなかった。
白猫は見た目が綺麗なだけでなく、どうやらアルビノとか言われる類の珍しい色であるのだということを知ったのは、夕食時に兄貴が自慢げに話すのを聞いた時だった。
それで私は、ああだから目が紫色なのかと思った。
アルビノの目の色は通常赤色であるらしいが、ごく稀に紫が生まれるという話を聞いたことがある。
「それじゃあその猫、結構お買い得な方だったってこと? あの兎だって珍しい奴だったらしいけど……そんな珍しいのなら普通三倍じゃ済まないんじゃない?」
「さすが我が妹、よく分かったな。そうなのだよとてもお買い得だったのだ……商人が所謂無能の類だったらしくてな、だいぶ安く手に入ったんだ……普通だったらあの兎の三十倍でも足りないくらいだと思うぞ」
兄貴はニタニタと笑いながらナイフで大きく切ったポークソテーを口に運んだ。
豪快な食べっぷりである、作った側としては気分がいい。
「ふーん、やっぱそうなんだ」
「ああ。……ところで今日の豚、うまいな。特にこのトマトソースが」
「そりゃあどうも。フライドオニオンとバジルを入れてみたら思ってたよりうまくて自分でもびっくり」
「なるほど……」
少々感心したような顔色の兄貴の隣で、白猫がやけに綺麗な手つきでポークソテーを食べていた。
食器を洗っていると、白猫がじいっとこちらを見てきた。
「そんな目で見ても助けてなんかやらないよ。そんなことしたら私が兄貴に何をされるかって話だし」
そう言ってみたけど、美しい白猫はただじいっとこちらを見ているだけだった。
言葉が通じているのやら、そうでないのやら。
まあ、どうでもいい。
兄のペットには口を出さない、兄が私の金と親の遺産に手を出さない限り、そういう約束だ。
だから気にはしない、可哀想だなんて思わない。
そんなことを思っていたら心がもたない。
きっとこの猫も遠からず死ぬのだろう。
あの幼い兎やそれよりも前のペット達と同様に、兄の欲望に押し潰されて衰弱して死ぬのだ。
夜は耳を塞いで、その上で毛布に包まって眠る。
十三歳の私の部屋から三十歳の兄の部屋は一番離れた場所にある。
それは肉欲に狂った兄の精神にひとかけらだけ残った人としての良心であるのだと思う。
それでも、しっかりと耳を塞がないと毎夜毎夜獣の悲鳴と獣と化した兄の声が、肉がぶつかる音が聞こえてくる。
それは今夜も同じ。
だから耳を塞いで目を閉じる。
早く朝になれと願いながら、今日もまた寝付けない長い夜が始まった。
翌朝、やけに色艶のいい兄貴にベーコンエッグとトーストを出してやった。
起きてはこないだろうと思っていた白猫は、驚くべきことにふらつく足取りではあるものの起きてきたので同様にベーコンエッグとトーストを出してやる。
結局昨日はいつまでやっていたのやら、途中で眠ることができた私にはわからないし、知りたくもない。
白猫は一瞬でベーコンエッグとトーストをペロリと平らげて、私の顔を思い切り睨む。
なんだ睨んでも私にはどうにもならんぞと思っていたら、空になった皿をずいとこちらに差し出してくる。
「まさか……おかわりを御所望か」
白猫は首を一回縦に振った。
兄貴の方を見ると、兄貴は嬉しそうに笑いながら「食い気があるのはいいことだ! 妹よ、我が猫におかわりを!!」と言ってきたので仕方ないからおかわりを用意してやった。
ベーコンエッグとトーストを出すと、白猫はそれを一瞬で平らげた。
そして先程と同様に私に皿をずいと差し出してくる。
兄貴と顔を見合わせた。
一回大きく頷かれたが、生憎ベーコンはさっきので最後だった。
玉子はまだあるが、残りは夜に使いたいので出せない。
仕方がないのでウィンナー数本をカレー粉と炒めて、いつぞや作ったポテトサラダの残りを添えたものをトーストと一緒に出した。
白猫はそれも一瞬で平らげた。
まさかまだ食べるんじゃないだろうなと思ったけど、白猫はそれで満足したらしい。
自室で明日売りに行く薬を作って、ケースにしまおうとしたら何故か白猫がいた。
「…………」
死ぬほどびっくりしたがびっくりし過ぎてかえって声が出てこなかった。
白猫は私の本棚の前でじいっとそのラインナップを見ていたようである。
こちらの視線に気付いたのか猫は振り返ってにやあと笑った。
「勝手に入ってくるな……って言っても通じてんのかな。はい、でてったでてった、この部屋そこそこ危険物あるから入ってくんな。下手したらうちが吹っ飛ぶ」
と、言いながら白猫を部屋から追い出そうとしたけど、白猫はびくともしなかった。
猫のくせにやたらと重くて、どうしようもない。
兄貴を呼ぼうかと思ったけど、兄貴は今の時間は出かけている。
仕方がないので兄貴が帰ってくるまで放置することにした。
白猫は私が彼を追い出す気を消した、というかできないことに気を良くしたのかさらににやあと笑った後、私の本棚から勝手に数冊の本を抜き取って読み始めた。
「おい……」
読みたいなら一応持ち主である私に一声かけろよとか、そもそも内容が理解できているのか突っ込んだけど、白猫は私などいないものとして扱うことにしたようで、兄貴が帰ってくる直前まで無反応を貫いた。
それ以降、白猫は兄貴がいない間だけ私の部屋に入り浸るようになった。
基本的に本を読んだり私の調合をただ見ているだけなので放置しているけど。
薬や危険物に手を出したり、何かを盗んだりしたら兄貴にチクろうと思うけど、そういうことをしない限りは黙っていることにした。
チクったらお仕置きと称して兄貴がこの白猫に何をするかわかったもんじゃないし、それでただでさえ煩い夜がさらに煩くなるのは嫌だった。
なので実害が出ないうちは今まで通り放置する。
この白猫はいつも腹にいくつも抱えていそうな顔をしているけど、存外大人しかった。
やらかした悪さも台所にあった生ハムの原木丸々一本とフルーツ類を勝手に全部食い尽くしたあの一回だけだ、あの時は流石に兄貴に報告したけど。
林檎を二、三盗んだペットは今まで何匹かいたけど、ここまで食い意地の張ったペットは初めてだったので私も兄貴も少し困惑した。
どうもやたらと燃費が悪いらしく、白猫はいつも腹を空かしているようだった。
仕方がないので食事の量を増やしているけど……まあ食べる食べる。
それでいて一切太る様子がないのだから恐ろしい。
どれだけ燃費が悪いんだろう、というか猫ってこんなに食うんだったか?
とはいえこのうちに飢えに苦しむものが存在しているのは非常に嫌なので、食事係として力は尽くしているつもりだ。
私も母が死んでここに引き取られるまでだいぶ苦しい思いをした。
土を食んで空腹を紛らわしたあの惨めさは今でも夢に見る。
だからせめて空腹だけは満たしてやろうと思っている。兄貴の獣欲からは守ってはやれないけど、それだけならできるから。
白猫が来てから約三ヶ月が経った頃、兄貴が腹上死した。
うっそだろって思ったが事実らしい。
いつかろくでもない死に方をしそうだと思ってたけど、本当にろくでもない死に方しやがった。
朝になる前に白猫に叩き起こされ、寝ぼけ頭で兄貴の部屋まで引っ張られた私が対峙したのは、全裸で死んでいる兄貴の死体だった。
流石に一瞬で目が覚めた。
「あに、兄貴お前……なんつー死に方を……」
ペットを食い散らかす以外は兄としてとてもできた人であったので、思いの外ショックが強かった。
血が半分しか繋がっていない、しかも見るからにみすぼらしい私みたいなクソガキをこの家で家族として扱ったのはこの兄ただ一人だったのである。
異常とでも言える獣欲を獣混じりの子供を使って発散しなければ人としてやっていけない事以外は普通に人格者だったと私は思っている。
だから、呆れよりも先に茫然とした。
私の人生において、一番初めに私を人間扱いしてくれたのはこの人だった。
飢餓に苦しみ食べること以外に何も求めない餓鬼のような私が人間の子供になれたのはこの人のおかげだった。
それなのに、死んでしまった。
いつまでもうじうじしていられないので、私は自分の顔を自分で引っ叩いてやるべきことを済ませることにした。
しかるべきところに連絡し、書かなければいけない書類を書いて、葬儀も行った。
日々は慌ただしく過ぎていった。
それで書類やらなんやらの処理に追われている時に、白猫が私の隣に陣取って唐突にこう言ってきた。
「お前、俺を相続しろ」
「は?」
思わず書類から顔を上げると白猫はにたにたと笑っていた。
今まで一度も喋ったところを見たことがなかったので、それに驚いた。
「……お前、喋れたんだ」
「なんで喋れないと思ってた?」
「だってずっと喋んなかったから……字は読めてるみたいだからてっきり喉を潰されてるのかと」
「面倒だったから喋らなかっただけだ」
むしろ一切喋らない方が面倒では? とは思ったけど、純粋な人間と獣混じりの人間じゃあ考えが違うのかもしれないと思ったのでその疑問は飲み込んだ。
「はあ……そう……。で、相続しろってどういうこと?」
「は? そのままの意味だが?」
こいつ馬鹿なのかって顔で見られた、なんで?
「いやだって……言ってる意味わかってんの? 自由にしろっていうならまだしも……私がお前を相続するってことは、お前は奴隷のままってことだぞ?」
「だからそういう意味で言ってる。お前、あの男の遺産を全部相続するんだろう? なら俺はお前のものっていうわけだ」
確かにその通りだけど、私はこの猫を相続するつもりはなかった。
兄貴みたいに獣欲が有り余ってるわけじゃないし、いてもいなくてもどうでもいいので自由にしてやるつもりだったのだ。
「いやまあそうだけど……帰りたいところとかないわけ?」
「ない」
即答された、まあ奴隷だし帰れる場所なんてないんだろうけど……
「あれま……うーん、しかし」
「猫一匹養う余裕くらいあるだろう?」
「いやー……?」
実はそこも相続したくない理由の一つだったりする。
私は元々薬売りとしてそこそこ稼いでいるし、それに加えて両親の遺産と兄の遺産がある、何事もなければ数十年は一人で生きていくだけの余裕がある。
けど、この猫を養う余裕があるかと言われると、実に微妙なのである。
「ああ、売った方が金になるとでも思ってんのか?」
色々と考え込んでいるうちに妙な誤解をされたので、慌てて口を開く。
「いや。そのつもりはない。というか売るくらいならその辺にほっぽりだすけど」
「あ?」
「人を売る外道にはできるだけなりたくないなと。それに最近人身売買の規制が強まってきたらしいし、なんかあったら面倒」
「あの兄の妹を平然とやってたくせによく言う」
「それを言われると弱いな……でもやっぱり無理だなあ……親の遺産もあるし私もある程度稼いではいるけど……お前、めっちゃ食うんだもん。食費は兄貴が出してくれてたんだけど、お前がきてから食費が今までの三倍になった。わかる? お前一人で私と兄貴の合計の二倍の量食ってんの」
「…………俺は燃費が悪いんだよ」
「うん。知ってる。だから養えないって言ってるの。けど奴隷としてほっぽりだす気はない。お金払えば奴隷は人間としての市民権を得られるから……そこまでは相続した者の義務として面倒みるから、出てってくれるとありがたいな」
そういうと、猫はしばらく黙り込んだ。
心なしか耳も垂れている。
奴隷として今後一生こき使ってやるというよりもだいぶ良心的なことを提案したつもりなんだけど、いったい何が不満だというのか。
「…………食費さえなんとかなればいいのか?」
「え?」
「食費さえ稼いでくればいいんだな?」
確かにそれなら理屈は通る、通るけど……
「何をするのかは知らないけど、食費を稼ぐあてがあるなら一人でだって生きていけるだろう? それならわざわざ奴隷として生きる意味、なくない?」
「そりゃあそうだが、お前の奴隷をやっていた方が面倒がなさそうだ。食費さえなんとかすりゃあ三食昼寝付きの生活が保証されてるんだからなあ。命を狙われる心配もくだらねえ勢力争いに巻き込まれる心配もねえ」
「……それは私のことを信頼しすぎじゃない? お前が私の奴隷になるなら、どんな無茶振りをしたっておかしくないんだよ?」
「お前はそういうことは命じないだろう? 甘ちゃんだからな。それにそういう命令をする理由もねえ」
確かにその通りではある、奴隷だからと何かを強要するつもりはないし、だからこそ手放そうとしているわけだけど。
あ、これちょっとやらかしたか?
そりゃあそうか、市民権を得たところでまた奴隷狩りにあわないとも言い切れない、というかこの見た目ならこの先一生いつ奴隷商人に捕まるかどうかを用心して生きていく必要がある。
だからこいつは私の奴隷をやっている方が安全なんだ、人の奴隷を盗るのは結構な重罪になるから奴隷の立場でいれば商人に狙われる心配はしなくていい。
その上で私はこの見た目の猫を売らずに市民権を与えて手放そうとしている愚者だ。
つまり、今この白猫は私のことを無害判定している上に利用しやすい馬鹿だと思っている。
これは対応を誤った、喜んで出ていくと思ったから普通に対応してしまったけど、もう少し有害さがあるように見せなければならなかった。
白猫はにたにたと人の悪い笑顔を浮かべている、これはもう何をしようと居座る気だ。
…………まあいいか、奴隷なら主人を害すような行動はできないはずだし。
「……仕方ない、しばらく置いてやる。ただし条件がいくつかある。それが聞けるっていうんだったら何年かは面倒見てやる」
「条件、ってのは」
「犯罪だけは犯すな。奴隷がやらかしたことの責任は主人が取らされることになってるんだ。犯罪行為もしくは犯罪すれすれの危ない行為は一切禁止。問題行動も起こさない、面倒ごとも起こさない。これが最低条件」
「……随分と甘っちょろい条件だなあ?」
「好きに言え。それでできるわけ? なんか随分自信ありげだけど、犯罪なしでお前はてめえの食い扶持を稼げんの?」
「楽勝だ。なんならお前の食い扶持も稼いできてやるよ」
「ふうん。そんなに自信があるんだ。じゃあいいや。……あとは私に危害を加えない、この家に危害を与えない……あと変な奴らを呼び込まれても面倒だから、この家に他人を連れてくるのも禁止。あと私の部屋は基本立ち入り禁止で」
「あ? 最後のはどう言うことだ? 今までなんも言ってこなかったくせに」
「いや、言ってたよちゃんと。言葉通じてるか微妙だったから最初しか言わなかったけど……お前が覚えてるかどうかわからないけど、あの部屋ちょっと洒落にならないものがいくつかあって……下手したら普通に死人が出て危ないから立ち入り禁止。……というか立ち入り禁止にしたところでお前に不都合ある? 読みたい本があるならタイトル言ってくれれば普通に貸すし、空き部屋なら常識の範囲内で好きにしていいよ」
「…………なら、その条件で」
白猫は不満そうな顔をしていたが、条件を飲むつもりはあるらしい。
何故そんなに不満げなのかと思ったけど、聞いたところでそこを妥協するつもりはないので理由は聞かないことにした。
「んじゃ、とりあえず今の条件で。互いに不都合があったら約束事はその都度増やしたり減らしたりしていこう」
「……わかった。それじゃあよろしくな、御主人」
一瞬なんかすごい不安そうな顔をした白猫はそれでも最後にいつも通りの笑顔で私にそう言ってきた。
兄貴が死んで数ヶ月経ったが、驚くべきことに特になんの不都合も起こらず平和な日々が続いた。
白猫はしっかり自分の食い扶持を稼いできたし、なんなら貯金するだけの余裕すらある。
最初に大金をどっさりと持ってきた時は本当に驚いた、まさか一日で龍を二体も倒してくるとは思わなかった。
……あの猫、どういう経緯で奴隷になんかなったんだろう、奴隷商人はあれだけ強いのをどうやって捕まえたんだろうか?
……空腹で倒れてるところでさくっと捕まえられたんだろうなと勝手に予想してるけど、本人に確かめる気は今のところない、聞いたところで何がどうなることでもないし。
食い扶持は稼いできているし、問題行動も起こしていなかったのでこちらも約束通り住食は提供している、衣に関しては最初にこの目だと目立つからって事で色付きのゴーグルを求められただけで、その後は自分の金で好きな服を買っているようだった。
そう、今までは特になんの不都合もなかったのだ。
実は白猫は猫じゃなくて獅子だし実は王族で、みたいなお話だったらしい。




