暗闇の記憶
その女は目を閉じていた。
暗い牢獄の中、手足を鉄の杭で串刺しにされているその女は死体のようにも見えた。
しかし、その女は生きていた。
呼吸に合わせて上下する薄い胸がそれを証明していた。
その女は、こつりこつりと響く足音に目を開く。
いつの間にかふわりと灯っていた弱い照明によって、女の姿が露わになる。
薄く貧相な裸身は真白くシミ一つない。
その身体を覆う真紅の髪は白い肌に映えていて、まるで至高の芸術品のようだ。
足音を響かせている人物薄い影が牢獄に落ちる。
「……またきたのか。君も懲りないねえ……」
少しだけ掠れた、それでも澄んだ声が牢獄の中で小さく響く。
足音の主は女にとっての死神……になるかもしれない男だった。
男は何も何も言わずに牢獄の戸を開き、内側に入って閉じた。
男は無言で女の顔をにらんだ後、女の顔に手を伸ばす。
そしてその額に自らの右手を置いた。
「……何やってるの?」
不思議に思った女は男の手のほのかな暖かさを感じながら問いかける。
「……今からお前の記憶を見る」
「……はあ?」
押し殺したような低い声で男は答えた。
女は何を言っているんだこいつは、といった目で男の腕を見上げていたが、ふっと何か納得がいったような表情を見せた。
「ひょっとしてなんかの魔術を使うの?」
その男は最上級の魔術師だった。
かつて世界を救った一員でもあり、国一番目の、それどころか世界一強力な魔術師であるとも噂されている男だった。
そんな魔術師であるなら他人の記憶を見る程度の魔術くらい簡単に扱えるだろうと女は予測し、ヘラリと笑った。
「やめといたほうがいいよー?」
ケラケラと女は笑う。
女の人生を一言で言うのなら地獄。
そんなものを見ようとしている男の考えがおかしかったのだろう、奇妙な物を見るような表情で彼女は笑い続ける。
男は何も答えずに右手に魔力を集め、小さく呪文を唱えた。
男が使おうとしている術は他者の記憶を見る魔術の中でも禁術とされている強力なものだった。
そんなことは知ったことがない女は呪文を唱えはじめた男に苦笑した。
「バカなやつ。私の記憶なんて見ても何も面白くないのに」
女はヘラリと笑ったが、男はそれを無視して詠唱を続ける。
「――」
最後に男がその術の名前を唱えて、詠唱は完成した。
男の目から急速に光が失われていき、どこか遠くを見るように焦点が合わなくなる。
男の顔からは表情という表情が抜け落ちる。
男の体は女の額に手を当てた格好のまま、微塵も動かない。
「おーい……?」
女が不安げな声を上げるが、反応は全くない。
まるで1人だけ時が止まってしまったような男の様子は彫像か、或いは死体に似ていた。
彼がはじめに知覚したのは赤子の泣き声だった。
彼が目を開くと、その泣き声をあげる赤子とその赤子を、たった今生まれ落ちた彼女を抱える女の姿が見えた。
みすぼらしい女だった、10代の後半の少女といってもまだ通じるような、若い女。
その女は、たった今生まれた、たった今自らが生んだその赤子をまるで醜い獣でも見るような目で一睨みしたあと――未だ産声をあげるその赤子の首に両手をかけた。
「黙って!! うるさい!! 黙れ!!」
掠れた甲高い叫び声をあげながら、女は自分の子供の首を絞める。
赤子の泣き声はたった数秒で止まり、泣きもせず動きもしなくなったその赤子を女は荒い息を繰り返しながら見つめ、一瞬さあっと顔色を青くしたあと、唾を飲んで動かなくなった。
そして、おそらく生き絶えたであろう赤子を近くに掘ってあった深い穴の中に叩きつけるように放り投げた。
あらかじめ掘られてあったのだろうその穴を、女は近くに置いてあったシャベルでざっ、ざっ、と埋めていく。
そこで彼はふと、ここがどこであるのか気になった。
彼が周囲を見渡すと、そこはどうやら林の中であるらしかった。
遠くにみすぼらしい景観の町のようなものが見える。
おそらくこの女は、彼女の母親であるらしいこの女はその町からきたらしい。
「これでいい……これでいいの……子持ちだなんて知られたら……客がつかなくなるもの……」
女は譫言のようにそのような言葉の羅列を繰り返しながら、穴を埋めていく。
その言葉から彼は、その女がおそらく娼婦の類であるのだろうと推測した。
深く掘られていた穴は、時間をかけて埋められた。
穴がすっかり埋まったあと、彼の視界が闇に閉ざされた。
「……これが、お前の出生か……はは……」
暗闇に閉ざされた視界の中彼は乾いた笑い声を立てた。
彼が誰よりも深く憎んでいた不死身の女の出生は、それだけでも彼の精神に亀裂を入れた。
暗く重い土の中で、それでも赤子、彼女は生き続けた。
何故なら彼女は不死身で、何をしても死なないからだ。
彼もあの日からずっと彼女を殺そうとしている。
だが、何をしても彼女は死ななかった。
首を切り落としても、心臓を抉り取っても、灰になるまで焼き尽くしても、龍ですらたった数滴で死に至る毒を飲ませても、全身を細切れにしても、女は死ななかった。
そして、とある行為以外の全ての苦痛や痛みを受けても彼女は平然と笑っていた。
こんな仕打ちは苦痛でもなんでもないと、こんなありきたりの痛みには慣れきっているとでもいいそうな顔で軽やかに笑っていた。
重い土の中で赤子である彼女は生と死を繰り返し続けた。
窒息死と再生を繰り返し続けた。
土の中にわずかに存在する空気を吸いながら、生と死を繰り返し少しずつ成長していった。
その様子を、彼はずっと見ていた。
この他者の記憶を見る禁術は、対象者の人生を初めから現在まで全て閲覧する大魔術だ。
この術で記憶を閲覧している術者に時間の概念は取り除かれる。
彼の精神は彼女が生まれてから現在まで二十数年ほどの時を彼女の記憶の中で過ごすが、他者から客観的に見ると、彼の術はたったの5秒で終了する。
故に、彼の精神は彼女が地中から這い上がるその時まで、約3年の時を、ただ暗いだけの地中で過ごすこととなる。
それは、ただそれだけで気が狂うような、長い時間だった。
小さな光が見えた。
もはや何も考えられなくなっていた彼の思考がその光を認識して急速に動き出す。
ああ、やっとこの暗闇から抜け出せるのか、と息を撫で下ろした。
光は強くなる、地中から這い出ようとする赤子――幼児の小さな掌が、彼の目に映った。
早く、もっと早く、と彼は無意識に願っていた。
そして、とうとう彼女の顔が、体が地上に這い出た。
彼女がほぼ初めて見た地上の光、彼が三年ぶりに見た光は、強烈でかつ暴力的だった。
精神体である彼ですら久しぶりの光に思わず目をふさいだ、それでも痛いほどの強烈な、絶望的ですらある光は彼の目を灼いた。
それは生身の身である彼女にとっても同様だった。
彼女がほとんど初めて見る光は、生まれてからずっと闇の中にいた彼女の目を何度も焼き、その機能を破壊した。
それでも彼女は無限の再生力を持つ不死身の女だ、機能が破壊されるごとにその目は再生され、再び破壊される。
それを1時間と少し繰り返して、彼女の目はようやっと地上の光に慣れた。
そして、彼女は初めて『世界』を見た。
暗い森だ。
じめじめとしていて、どこか重苦しい空気が漂っているどこか不気味な森だった。
しかし、彼女にとっては違った。
ただ暗く、黒いいだけの色しか知らなかった彼女にとってその森の光景は、色鮮やかな極彩色の世界だった。
まず目を引いたのは、ごつごつとした木の幹にうっそうと生い茂る深緑、その深緑に目を引かれて、更に見上げた彼女の目に映ったのは、あまりにも鮮明な青と、白。
「…………?」
どれも彼女が初めて見るものだった、どれも彼女が知らなかったものだった。
いったい何なのだろう、と言葉も知らぬ彼女はぼんやりとそう思考して、ただ世界を見つめていた。
彼女はいつの間にか苦しくなくなっていることと、自分の体がふいに止まることがなくなったことに気づいたが、それは世界に触れた彼女にとって、とても小さなことでしかなかった。
どれだけの時間、彼女は世界を見つめていただろうか。
おそらくは数時間、上り始めた太陽が頂点に上り、下り始めたその時まで彼女は身動きすることなく極彩色の世界に圧倒されていた彼女の時間を遮ったのは、がさがさという物音。
彼女は何度か音を聞いたことがあった、時折だけだが、森にやってきた人間の声や魔物に追い立てられた何かの悲鳴を耳にしたことがあった。
音が聞こえてきた方向に彼女が顔を向けると、現れたのは一人の男だった。
襤褸布のような服を身にまとった小汚い男だ、がりがりにやせていて、ひどくみすぼらしいその男は彼女の姿を見て目を見開いた。
きっと土と泥にまみれた彼女が何であるのかわからなかったのだろう。
しかしその男はすぐに彼女が人間の子供であることに気付いたようだ。
「なんだこのガキ……」
男が発した声に彼女は少しだけ首を動かしたが、反応はそれだけだった。
彼女はただ、目の前に現れた男を、彼女にとってはよくわからないその存在を見つめるだけだった。
男は気味悪そうに彼女の顔を眺めていたが、その男の目にふとよこしまな色が見えた。
「なんだこのガキ……泥まみれだがえらい整った顔をしてやがる……」
ぼそりと呟いたその男はもう一度改めて彼女の顔を見つめる。
確かに泥まみれではあるが、彼女の姿は美しかった。
見つめられている彼女はただ状況も何もわからずにぼうっとしているだけ。
「おい、ガキ」
男は彼女に呼びかけるが、彼女は何の反応も見せない。
「お前の事だ、少しくらいは反応しろや」
男は泥にまみれた彼女の両脇を両手で抱え上げる。
抱え上げられた彼女は驚愕したが、何がどうなっているのかも理解できず、何をすればいいのかもわかない彼女は、何もできずにされるがままになっていた。
何もできない彼女を抱えた男はその森を出た。
男が歩き始めた数分後には森を抜け、とても粗末な小屋にたどり着いた。
小屋のすぐ近くに細い川が通っており、彼女の興味はそれに移った。
太陽の光を反射して、きらきらと白く輝くそれに彼女が見入ってしまったのは仕方のないことだったのだろう。
彼女はそんなきれいなものを一度も見たことがないのだから。
彼女を地面におろしたみすぼらしい男は小屋の中から桶を持ち出してきて、その桶で川の水をすくった。
ざばり、と響いた水音に彼女は気をひかれた。
桶を持った男は彼女の前までよろよろと歩み寄り、彼女の真上でその桶をひっくり返した。
ざばり、と大きな音を立ててその桶の中身である水が彼女に降り注ぐ。
その冷たさと、衝撃に少女は驚愕し混乱した。
ただ不快感はなかった。
浴びせられた水によって彼女の泥が流されていく。
それでもたった一杯の水では足りなかった。
再び男は川から水を掬い、その水を彼女に浴びせた。
計5回、男が彼女に水を浴びせたころには細かい場所以外の泥は流れ落ちていた。
泥によって隠されることのなくなった、彼女の身体が晒される。
地中から這い出るまで一度も日に当たることのなかった肌は陶器のように滑らかな白。
泥を洗い流された髪は燃え盛る炎のように赤く、艶がある。
彼女を男は少しの間、ポカンとした表情で見つめていたが、すぐに正気を取り戻し、くつくつと笑い始めた。
狂壊の先(https://ncode.syosetu.com/n6180dv/)関連の話。
この後酷いことしか起こらない。




