玻璃の破片を踏み潰すような
その薬を打つと激痛が走る。
だけど打たないと、私は私ではいられない。
痛いのは最初だけ、死ぬほど痛いのは最初の5秒間だけ。
そのあとはもう空っぽ、痛みも何も感じない。
――心を殺して、今日も私は理想の私を生かし続ける。
表層に張り付けた私は今日も元気に人生を軽くこなした。
しっかり勉強をして、友達と会話して、家族とコミュニケーションをとって、1日を終えた。
部屋の扉をパタリと閉じて、その直後に息が詰まった。
心臓をギチギチと握りしめられているような痛み。
もうとっくに慣れてしまっていてもおかしくないようなほど経験しているその痛みに自分はまだ慣れることができなかった。
だけどもう呻くことはなくなった。
だから今日も誰にも気取られないまま、私はみんなを欺き切った。
かつて、自分の理想を叶えた幼い少女がいた。
その望みを叶えてしまったことを思い出した少女の心は壊れた。
朝、今日も薬を自分の首に打つ。
いつも通りの痛みにいまだ慣れることはできない。
いつもこの薬を買っているあの人からこの薬の副作用を聞いていたけど、構うものか。
この心が粉々に砕けようと、全て忘れてしまったとしても。
この薬さえ打ち続ければ彼らにとっての私は私のままなのだから。
薬の持続効果がどんどん短くなっていく。
なんとかしろと怒鳴った私にあの人はただ黙って首を横に振った。
シャボン玉がパチンと弾けるように薬の効果が切れた。
「……」
それは誰かとの会話の最中だったらしい。
表層に浮かび上がってしまった私は、随分と久しぶりに見る彼らの顔を見て、動揺した。
「……っ!!?」
混乱に悲鳴も上げられずに、何もかもわからない状態で思ったことはただ一つ。
薬を。
予備の薬が入っているはずの鞄を引っ掴んで私はその場から逃げ出した。
薬の持続時間が目に見えて短くなっていく。
どうしよう、このままだと私は私でいられない。
注射器を何本も刺して、中身を全て血中に流し込む。
それでも足りない、まだ足りない。
どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう。
このままだと、私は私でいられない。
昔、一人の少女がいました。
少女はある日、魔法使いに出会いました。
願いを叶えるという魔法使いに少女は願いを口にしました。
優しい家族と友達が欲しいと。
魔法使いは少女の願いを叶えました。
少女の願いは現実のものになりました。
少女はとても喜びましたが、やがて自分が魔法使いに願ったことを忘れてしまいました。
――そして数年後にその願いを思い出して、自分の現実が自分の願いによって作られた虚構である事に気付いてしまったのです。
優しい家族も、気の合う友達も、自分の事を大切にしてくれる彼も。
全て少女の願いによって作られたまがい物だったのです。
「返して……!!」
薬が切れた状態で私は叫んだ。
誰もいないはずの教室で新しい薬を体内に打ち込もうと注射器を握ったら、背後から注射器を奪われたのだ。
何をしていると怒った声で言われた。
「……返して、返してよ……それがないと、私……私は……」
手を伸ばす、だけど彼はダメだと首を振った。
どうして、なんで。
「いや……いや、いや、いや、いや……!!」
痛い、心が痛い、身体が痛い。
痛い、痛い、痛い、痛い。
彼は怒った表情のままこちらを心配するような声をかけてくる。
やめて、そんな目で見ないで。
だって、あなたが私の事を心配してくれているのも、好きになってくれたのも。
全部全部、あの魔法使いさんの魔法でそうなったのに……!
あなたのその感情は、本当なら私に向けられるべきでないものだったのに。
ボロボロと目から涙が流れる、現実を塗りつぶした罪悪感がこんなにも重い。
自分の願いが現実を歪めてしまった事に気付いた時、私はあの魔法使いさんの妹に出会った。
私は彼女に願えなかった、塗りつぶした現実を元に戻して欲しいと。
代わりに私が願ったのは今までの現実に浸かり続ける事だった。
優しい世界に浸かり続けた私はその世界から抜け出すべきだと思いつつ、その選択肢を取れなかった。
だけど罪悪感に苛まれた私はそのままでいる事も、もうできなかった。
だから、私は彼女に願った。
自分が何も気付いていない頃の自分に戻れるようにと。
願った私に魔法使いさんの妹は私にあの薬をくれたのだ。
――感情を殺し自分の理想とする人格を作り上げるあの薬を。
その薬の副作用は本来の心を殺すというもの。
使えば使うほど、本来の心は砕けていく。
それでもいいと私はあの薬を手に取ったのだ。
返せ、と私は立ち上がって彼から注射器を奪おうとした。
だけど一瞬早く、彼は注射器を床に向かって投げつける。
華奢な注射器はたったそれだけで粉々に砕けた。
それを見た私の身体が崩れ落ちた。
彼が何かを言って私の身体を抱きすくめる。
あたたかいと思った。
その時、何かが壊れるような音がした。
玻璃の破片を思い切り踏み潰したような、そんな音だった。
その音を、さいごにきれいだとそうおもったきがする。
何もわからない。
なんでこんなにくるしかったんだっけ?
わたしは、なんだったけ?
このひとは、だれだったっけ?
――もう、なにもおもいだせない。




