そのなな:うさぎさんは意外と凶暴
「はくちゃん、あーん」
器用な箸使いで差し出された卵焼きに、ぱちりと目を瞬かせる。始めに説明しておくと、ここは家ではなく学校だ。
朝一番から体育の二時間連続を乗り越えたお腹の空き具合は結構なもので、授業が終わるとすぐに後ろの席の愛兔の机の上にお弁当を広げていた。
一番前の席はスポーツ刈りで顔の堀が深い赤坂君。二番目は入学初日に私が落とした消しゴムを親切に拾ってくれた尾上さん。三番目が私で四番目が愛兔。そして次がゴロちゃんの席だ。
ゴロちゃんは愛兔の後ろの席から椅子だけ持ってきて横につけている。今まで同じ学校に通ったことがなかったので気づけなかったけど、幼馴染でも名前がア行とカ行ならこういうとき便利でいい。
一番廊下側の席なのですぐ隣に薄く紗のかかった窓がある。窓はお昼時には開放されてるのが常で、今も赤坂君が窓を開けて廊下に来ている別クラスの友達を話をしていた。
「はくちゃん?」
こてり、と小首を傾げた愛兔の瞳が私を見詰める。なんだろう。大きな黒目がきゅるんとしててとても可愛いのだけど、逃避したくなってしまう。
自分の弁当から持ち上げたばかりの卵焼きの甘い香りにお腹がなるのを遠く聞きつつ、暫し動きを止めた。
この席から廊下の様子が窺えるということは、また逆も然りということだ。混じり気ない純粋な疑問を浮かべてこちらを見詰める愛兔の眼差しも心に突き刺さるけど、それ以前に赤坂君の側に開けられた窓からこちらを覗く視線も結構刺さる。
「愛兔、毎日言ってるけどね、学校では『あーん』はしないよ?」
「どうして?」
「どうしてって・・・」
普通に恥ずかしいからじゃないんだろうか。他に理由はないんだけど、世間の双子はお弁当の食べさせあいをするのが普通なんだろうか。
私と愛兔は厳密に双子じゃないが、世間的には双子と見られている。それでも中学時代も中学三年になればおかしいんじゃないって薄々気付き始めたのだけど違うのだろうか。
自分の口に入りそうで入らない卵焼きをそのままに視線をそっとゴロちゃんに向けると、頬張っていたおかずの肉じゃがのじゃがいもを飲み下した。
「はっきり言ってやるといいよ。そんな恥ずかしいこといつまでも『弟』となんて出来ないって」
「・・・んー」
ゴロちゃんの言葉に、愛兔の持っていた卵焼きがぴくりと動いた。もう意固地なまでに視線を向けないくせに、怒りの矛先が向いてるのが肌を刺す勢いで伝わってくる。
それでもギリギリのところで堪えている愛兔にさらにゴロちゃんの言葉が重ねられた。
「あ、でも僕ならいいかな。いい年した姉弟とするより、幼馴染の方が健全だよね」
にこやかに告げられた台詞が終わるか終わらないかのところで、ばきっと何かが折れる音が聞こえる。
視線を音のしたほうに向けると、黙り込んだ愛兔が箸を握りつぶしてゴロちゃんに思い切りガンを飛ばしていた。
言葉こそ発していないが怒りのオーラは凄まじく、額に青筋も浮かんでいる。これは怖い。私には絶対に向けられない怒りでも見てるだけで冷ややかさが伝わってくる。
なのに長年の付き合いで愛兔の怒りの波動にも慣れてるゴロちゃんは全然平気な顔で、硬直したままの私の箸を自分の口元まで持っていってぱくりと卵焼きに食いついた。
「あー!?ゴロちゃん、私の卵焼き食べた!今日は二つしかないのに、私の好物なの知ってるのに酷いっ」
「うんうん、だから僕の卵焼きあげる。はい、どうぞ」
「ありがとう」
当たり前の流れで差し出された卵焼きを一口で食べてから、はたと気付く。横から視線が突き刺さっている。絶対にこれ見られてる。
そりゃこんな至近距離でぱくついてれば絶対に隠せないよね。当然だよ、うん。
だらだらと額から汗が滲み出てくる。租借していた卵の味もだんだんしなくなってきた。ちなみにうちの卵焼きは砂糖がたくさん入ってる甘いので、ゴロちゃんちはしょうゆ味。私もゴロちゃんも卵焼きはどちらの味も好きなのでよく交換するけど、愛兔は卵掛けご飯には醤油をかけるくせに、卵焼きはしょうゆ味が嫌いで交換に応じるところは見たことがない。いやでもそもそもゴロちゃんは愛兔に交換を申し出たところを見たことがない気もするけど。
「・・・はくちゃん」
「ぅはい!?」
しまった、変な声が出た。口に残ってた卵を無理やり飲み込んで返事をしたので、気管にも卵が入って喉が痛い。
「大丈夫?虎珀。はい、お茶」
「あ、ありがとう」
「・・・はくちゃん、お茶」
「え?ありがとう」
「・・・はい、お茶」
「うん、ありがとう」
「お茶」
「いや、もういいよ!愛兔、自分のお茶がなくなっちゃうよ?」
最初の一杯は普通に助かった。胸を叩きながらなんとか気管を塞いでいた少しの卵を飲み下して呼吸も落ち着いた。
二杯目も、まあ普通にいけた。でも三杯目、四杯目となればお腹もお茶で膨らんでくる。なのに強固に自分ようの水筒からお茶を差し出してくる愛兔は、お茶を差し出すだけなのに雰囲気からして鬼気迫っていた。
「お茶、飲んで」
「それもう私の水筒のお茶だよっ」
「飲・ん・で」
「・・・はい」
目力に押し負けた。500mlの水筒のほぼ全部を一気飲みしてお腹がタプタプしてるのに、差し出された水筒のコップを拒めない。
これを飲んだら新しい一杯が追加される気がひしひししてる。それでも拒絶するには愛兔の必死な眼差しが心に突き刺さる。
覚悟を決めて五杯目のお茶を受け取って揺れる水面をじっと見詰めていたら、ふと空気が揺れた。
「ははっ、虎珀は本当に大野に弱いなぁ。あ、購買で余分に割り箸貰ってたやつから箸わけてもらったから。どうぞ」
「・・・」
「ゴロちゃん、ありがとう!」
色々な意味で助かった。これ以上お茶を飲んだらご飯が入らなくなってしまう。いや、もうほとんど入らないけど、でもこのままでは今日一日の後半が持ちそうにない。授業中にお腹がずっと鳴ってたら恥ずかしいし、ここはちょっと無理してでも食べきりたいところだった。
愛兔の勢いを見てると、もう半分以上ムキになってたからお茶を飲み干してもまた新たに自販機でお茶を買ってきそうで、どこで止めるかタイミングを計っていたからゴロちゃんの介入は本当に助かった。
「愛兔もお礼」
「・・・・・・」
「ああ、別に大野は気にすることないよ。僕は虎珀のために動いただけだから。大野が邪魔してると虎珀はお弁当食べれないまま休み時間が終わっちゃうからね」
「・・・お前のそういうとこが嫌なんだ、狼野郎」
「僕は君のそういう単純明快なとこは嫌いじゃないよ、子兎さん」
ばしりと視線がぶつかる音が聞こえた気がした。ゴロちゃんも本当に性格が悪い。愛兔が名前にコンプレックス持っているのを知っていてわざわざ逆なでしている。
ブリザードだ。完全に私たちのいる一角にはブリザードが吹き荒れている。雪や風だけじゃなくて雹もあられも降ってきそうだ。
二人が角をつき合わせてる間にマッハで箸を動かしながら、視線だけで様子を窺う。ゴロちゃんと同じクラスで机を並べれるのは嬉しいけど、こうしょっちゅう昼食時に喧嘩をされたら慣れててもちょっと食事し難い。
「おい、大野姉」
「んー?」
舌戦繰り広げられる戦場に限りなく近い場所で一生懸命お弁当を食べてたら、こそこそとクラスを代表した男子が近づいてきた。
「これ、大丈夫なんだよな?殴り合いとかしないよな?」
心配そうに眉根を寄せて囁く彼に、嚙んでいた唐揚げを飲み込む。時間が経ってしっとりした唐揚げは、揚げたてのものとまた違った魅力があっていい。
「大丈夫。口喧嘩してる間は手が出ないから」
「そ・・・そうか。それはよかった」
汗も出てないのに額を拭った彼は、そのままそそくさと仲間内へ戻っていった。いつの間にかクラス中の視線が集中していたのに気付いて、にこりと微笑んで頷いておく。それにともなって室内がざわつき始めて、そこでようやく教室が静かだったのに気がついた。
慣れてる私がハラハラするくらいなのだから、まだ同じクラスになって一月程度のクラスメイトはもっとハラハラするのだろう。毎日ならともかく、ぶわりと火が燃え上がりそうなのは一週間に一度ある程度なので余計に。
きっとあと一月経てばみんなも慣れてくれるだろう。見てる分にはハラハラしても、存外に被害が少ない文字通りの口喧嘩に、食事を済ませてから仲裁に入ろうといっそう箸を動かす手を早くした。