蒼き翅のプシュケ
こちらはルルルカップ用に編集したショートカットバージョンになります。
第6回ルルルカップの落選作品です。
テーマは『身代りの恋』
既に長編版を読まれた方はご注意ください。
少女が目覚めた場所は、見知らぬ家の寝台の上だった。
(ここは一体……)
上体を起こし、辺りを見回す。木製の棚に並べられた書物、紗幕が引かれた窓、扉の横には手の込んだ綴れ織壁掛け(タペストリー)。その脇に鏡が置かれており、少女は自分の姿を見た。
胡桃色の二重の瞳。肌はやや日焼けしていて健康的な小麦色。ゆるゆると波打つ黄金色の髪は敷布までこぼれる。見える四肢は細く、体つきも華奢だ。ごわごわとした布で作られた服で身を包んでしまうと、わずかに膨らむ胸はまったく目立たない。
静かすぎる部屋に他の人間がいないのがわかると、少女はそっと立ち上がって窓の外を覗いてみた。
陽は高く外は明るい。この部屋は建物の二階ほどの高さにあるらしく、窓の下には赤い庇があり、さらに下には石畳と行き交う人々の頭が見える。白っぽい頭巾をかぶった女性、麦で作られた帽子をかぶる少女、鉄製の兜を乗せた青年、亜麻色の髪を揺らす少年――様々な格好をした人々が楽しそうに歩いている。
(何故、あたしはこの場所に……?!)
突然の頭痛が少女を襲う。あまりの痛みに、少女はこめかみに手を当てた。記憶を遡ろうとしたのだが、頭痛がひどくて思い出せない。さらに過去に何があったのか思い出せないだけでなく、自分の名前さえ忘れていることに気付いた。
(あたしは……誰?)
ここがどこなのか、どうしてここにいたのか。
少女は自分の肩をそっと抱く。身体が震えていた。
(そういえば……)
少女は窓際から足音を忍ばせるように扉へと移動する。扉の横に掛けられた綴れ織壁掛けが気になっていたのだ。
近付いて見ればよくわかる。とても精緻な細工が施された織物だ。大きさは並ぶように置かれた姿見と同程度。蒼い蝶の意匠が特徴的な作品だ。
(朱色の大地に舞う蒼き翅の乙女、か……)
遠くから見れば蒼い蝶が大地の上を舞っているように見えるのだが、よく見ればその胴は人の形をしているのだった。
「んっ?! ……いたたっ」
頭痛を伴って、一瞬何かが脳裏を過ぎる。誰かの影であったような気がしたが、鮮明ではなく判別できない。痛みが引くにつれてその姿も霞んで消えていく。
(なに、今の……)
この綴れ織壁掛けが閉じられた記憶に引っかかったらしい。少女は痛む頭に手を当てたまま再び視線を向けるが、それ以上は何も思い出せなかった。
しばらくそうやって綴れ織壁掛けと向き合っていると、扉がゆっくりと開いた。
「――あぁ、やっと気付かれたのですね」
「!」
至近距離からの男性の声に、少女は声にならない悲鳴を上げると素早く声の主に身体を向ける。
部屋に入ってきたのは一人の青年だった。焦げ茶色の短髪、紺碧の瞳、日焼けした肌。白い上着に袖のない胴着を合わせた格好をしている。優しげな表情ときちんとした身なりに、少女は警戒を少々緩めつつも、相手の次の挙動を窺う。
「安心してください。僕はあなたを害するつもりはありません」
「あなた、誰?」
肩の高さまで両手を小さく挙げて攻撃の意志がないことを表現する彼に、少女は睨んだまま問うた。
「僕はフィロス。フィロス=エフティヒアです。このエフティヒア商店の主ですよ」
彼は部屋の扉を閉めたものの、窓際に逃げるように後退りをした少女には近付かずに説明する。
「あたしは、どうしてここに?」
「それはこちらが聞きたかったのですが……そうですね。朝、この店を開けようとしたらあなたが店の前で倒れていたのですよ」
「倒れて……?」
どういうことだろう。少女は理解できずに額に手を当てる。
「身元がわかりそうな荷物が近くになかったものですから、ここはひとまず部屋で介抱し、気付いてからお話を窺おうかと思いまして。それでこちらに運んだのです。――あ、あの、気分が悪かったり、どこか痛かったりしていませんか? 必要であれば医者を呼びますが」
「い、いえ。そこまでしていただくわけにはいきませんから」
少女はフィロスの申し出に首を振る。
(彼は行き倒れになっていたあたしを拾ってくれた恩人と言うわけね。彼が言っていることが本当だとするなら)
すべてが真実であると受け入れるには早計である気がして、少女は自分の身体に違和感がないかどうか意識を向ける。露出している腕や足の肌はとても滑らかに見える。
(鏡を見たところでは変なところはなかったし、傷も痣もないみたいね。頭痛がひどいこと以外は、特に気分が悪いってことはないし……)
「あの……」
黙りこんで自分の容姿を確認している少女に、おずおずとフィロスが声を掛けた。
「は、はい?」
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか? どうお呼びしたらいいのかわからなくて」
「あぁ、そうですね……」
彼に名乗らせておきながら自分が名乗っていないことに気付き、少女は申し訳なさそうな顔をする。しかし、名前すら忘れているために自己紹介ができない。
「……名前を教えたいのですが、あいにく自分の名前を思い出せませんで……」
しぶしぶ正直に少女は伝えることにする。適当な偽名を使おうかとも思ったのだが、ぱっとすぐに浮かばなかったのだ。
「え?」
少女の台詞に、フィロスはあからさまに驚いた顔をした。
「記憶喪失ということですか?」
「えぇ、まぁ……そういうことのようでして……」
困った。視線を外して少女が答えると、フィロスは哀れむような表情をした。
「それはさぞかしお困りのことでしょう」
「い、いえっ。きっと一時的なことですから、心配には及びませんわ」
少女は首を横に振る。彼にこれ以上迷惑を掛けるわけにはいかない、そう思って少女は続ける。
「あ、あの、すぐに出て行きますので」
「そんなに慌てて出て行かなくても大丈夫ですよ」
「ですが、ご迷惑では――」
「僕のこと、嫌いですか?」
あまりにも寂しげにフィロスが言うので、少女は自分の調子を崩される。とにかくこの場を繋いで、追い出される前に自分から出て行こうと懸命に台詞を考える。
少女が考えあぐねている間に、フィロスは台詞を続けた。
「それに、迷惑だと思っていたら、助けてこちらに運んだりしませんよ」
それもそうかも知れない。そう納得しかけて、少女はあることに気付く。
「じゃ、じゃあ、あたしの身体が目的で――」
「えっと、その発想はさすがになかったな……でも、そうではありませんよ」
一瞬だけきょとんとした顔をして、フィロスは苦笑しながら否定する。
「でも……」
(この人は何を考えているのだろう……)
会話をしている限りでは悪い人間には思えない。少なくとも今は味方でいてくれそうだ。
(商人らしいけど、あたしを売ったりしないわよね……?)
疑惑の目を向けると、フィロスはやんわりと微笑んで見せた。
「そんなに信用ありませんか? まぁ、あなたの過去に何があったのかは存じませんので何とも言えませんが、頼ってくださって構いませんよ。僕は独り身でして、親も兄弟もここには住んでいませんから」
そう説明されて少女は目を瞬かせ、ふと思う。
(独りぼっちだから……?)
少女は彼が自分を保護してくれた動機にようやく思い至った。親切にしてくれた一番の理由は、寂しさが彼にあったからなのだろう、と。
少女の表情から警戒の色が消えていく。
「あなたの面倒をしばらく見ることができる程度には蓄えもあるつもりです。もし、行く当てがあるのでしたら無理に引き止めたりはしませんが、遠慮せず記憶が戻るまでこちらにいてください」
「そ……そうおっしゃるなら」
このままの状況で外に出たとしても、大海に落ちた一枚の葉のごとくもみくちゃにされて沈んでしまうことだろう。ならば、せっかく差し伸べられた手があるのだ、その手にすがるのも悪くはない。
少女がゆっくりと頷くと、フィロスはにっこりと笑んだ。
「――あの、あたしのことは好きに呼んでくださって構いませんから」
「ならば、そうですね……カルディアはいかがでしょう?」
「カルディア?」
しばし悩んだような顔をした後の提案。少女は与えられた名を繰り返す。
「思い付きですので、深い意味はないのですが。嫌でしたら他に考えますよ」
「いえ。――カルディア、か。いい名前ですね。ありがとうございます」
特に拒否する理由もない。何度か呟いてみて、不思議と馴染む響きだと感じられた。
「気に入っていただけたら何よりです。――そうだ。お腹は空いていませんか?」
言われて、少女は自分の腹部に手を当てる。ちょうどいい具合にぐぅと鳴った。少女の頬が赤く染まって、フィロスはくすっと小さく笑った。
「すぐに食事を用意しましょう」
「は、はい、すみません、フィロスさん」
こうして少女――カルディアはフィロスの家で厄介になることにしたのだった。
満月からわずかに欠けた月が沈む。
記憶が戻らぬまま、一夜が明けてしまった。フィロスの世話になったカルディアはただ何もせず部屋を借りるのが心苦しく、自分に何かできはしないかと考え、朝食が済んだところで彼に提案した。店を手伝わせてはくれないか、と。
カルディアの急な申し出に渋った顔をするフィロスに、さらに続ける。
「ほら、部屋に閉じこもっているよりは店で働いていた方が刺激があると思うのです。もしかしたら、それをきっかけに記憶が戻ってくるかもしれないじゃないですか」
懸命に付け足した台詞。カルディアの必死さも伝わったのか、フィロスは表情を崩した。
「確かに家にこもっているよりは、良いかもしれませんね。――わかりました。ちょっとだけ手伝っていただきましょうか」
建物の一階が店舗になっているらしい。初めて通された店内をカルディアは興味深く見回した。
広さは十人程度のお客なら全員が余裕をみて回れるくらいだろうか。通りに面した壁は店内を覗ける大きめの窓、そこに刺繍の入った朱色の紗幕が掛けられている。紗幕が飾り布で可愛らしく括られているのはフィロスの趣味なのだろうか。室内に外の明かりが入るように調整されているらしく、外を歩く人たちの姿が窓の向こう側に見えた。
出入り口に近いところには木製の小物類が、そして奥に行くにしたがって大きな布製品が並ぶ。入り口の正面に当たる壁には大きな綴れ織壁掛けが掛けられ、その明るい色彩が店内をよりにぎやかに見せる。手の込んだその作品に、カルディアは近付いて見上げた。
(だいぶ趣きが違うけど同じ題材、かしら?)
カルディアが使っている部屋に置かれた綴れ織壁掛けよりもずっと派手だ。使われている色もあの部屋の蒼き翅の乙女よりもずっと多い。縁に描き込まれた図形も細かく、とにかく凝っていた。
「この意匠はあたしが使わせてもらっている部屋に飾られている綴れ織壁掛けと同じですよね?」
「おや? この街では一般的な題材ですよ。ご存知ないのですか?」
頷くカルディアに、フィロスは意外そうな顔をする。そしてカルディアの隣に立つと、彼も綴れ織壁掛けに目をやった。
「この蝶の乙女、プシュケっていうんですよ。魂の化身だそうで。この街では、死んだ者の魂がプシュケとなって、残された者に会うためにひと月という期限付きで現れると伝えられているんです」
「プシュケに?」
「はい。ですから、プシュケを模した商品も多いのですよ」
言われてみればそうだ、とカルディアは思う。織物が目立つからそちらに視線を取られがちだが、よくよく見れば店内に並ぶ小物類もプシュケの意匠を使ったものが多いことに気付く。
「なるほど……。蝶を象ったものではなく、プシュケなのですね」
「――さて、説明はこの辺にして、仕事を教えましょう」
正午を知らせる鐘に紛れるかのように、様々な物が転がり落ちる音が店内に響く。
「カルディアさん……」
眉間にわずかにしわを寄せたフィロスがカルディアに迫った。
「す、すみません……で、でも、だ、大丈夫ですから」
カルディアは詫び、怯みながらじりじり後退する。カルディアの服には色とりどりの染みがついていた。それは彼女がこの店で仕出かしてきたことを物語る。
「あなたが大丈夫でも、僕が大丈夫じゃないんですよっ!」
「ひぃぃごめんなさいっ!」
(うぅぅ……こんなに役立たずだとは思わなかったよ……)
ぺたんとその場に座り込み、カルディアは自分の頭に手をやる。思い返せば悲惨なことばかりだ。
掃除の手伝いをしようとして、水の入った桶をひっくり返して床を濡らしてしまったのが事の初め。水気を取るために雑巾で作業をしていたのだが、それにばかり気を取られていて棚に並んでいた商品を落とす。拾い集めようとして慌てて立ち上がり、服の裾を踏んづけて織物を破ってしまうし、さらに商品を並べ直すまでは良かったものの、手に塗料が移っているのに気付かず、そんな手で触れた所為で価値を下げてしまった。それを見てさらに動転し、再び棚をひっくり返して――今に至る。
そんな苦戦の様子が服の染みに表れているのだった。
「まったく……」
ぽんぽんっと優しく頭を叩かれて、固く閉ざしていた目を開けるとおそるおそるフィロスを見る。視線を合わせるためにしゃがんでいたフィロスの穏やかな顔が目に入った。
「そんなに頑張らなくていいんですよ? 細々とやっている家業なんですから」
怒っているはずのフィロスは、しかし安心させるような笑顔を向けていた。
「うぅ……でも、あたし、申し訳なくて」
涙ぐんでしまいそうだ。カルディアは俯いて、手の甲で目を擦る。
「なんだか気を遣わせてしまったようですね。僕が好きでやっていることだから、気にしなくていいのに」
言って、フィロスはカルディアの頭を撫でる。
「だって……あたしにはこの身体でできることしかやれないから……」
「そんなに一生懸命にならなくても、僕はあなたを追い出したりしませんよ?」
「でも……」
「……まずは、そうですね。服を脱ぎましょうか」
「は、はい?」
言われて、カルディアは顔を上げる。
(服を脱げ、とな?)
どういう意図があるのかわからずにきょとんとしていると、フィロスは続ける。
「その服が身体に合わないからいけないんですよ。その服の裾、何度踏みつけたり引っ掛けたりしたと思っているんです? かなり汚してしまっていますし、着替えましょう」
「あ、ですけど……」
これ以上いろいろ迷惑を掛けるわけにはいかない。先に立ち上がって手を差し伸べるフィロスを、カルディアは目で追う。
「拒否なさるなら、強制的に脱がしますけど?」
(こ、この人本気だっ!)
表面的には笑顔でも、目が笑っていない。カルディアは急いで立ち上がる。
「着替えます着替えますっ――って、あうっ!?」
その拍子に長い裾を踏みつけてしまい、カルディアはつんのめった。
「きゃっ!」
正面にいたのはフィロス。その彼を押し倒すようにカルディアは崩れた。
「――あなたのそれはわざとですか? カルディアさん……」
下敷きになっていたフィロスは、小さくうめいたあとに問う。
「ご、ごめんなさい……」
カルディアはフィロスの上から退こうと上体を起こす。しかし、フィロスの手に阻まれた。そしてカルディアの頭に手が置かれ、そのまま胸に引き寄せられる。
「――お仕置きです。しばらくじっとしてなさい」
彼にしては珍しい棘のあるきつい口調。それなのに優しくて甘い。
「お仕置き……ですか……?」
胸が高鳴る。カルディアの耳に届くフィロスの鼓動も早い。
(なんでだろう……懐かしい感じがするなぁ……)
フィロスの腕の中はとても安らげた。塗料やお香の匂いがして、それが彼がこの店で働いていることを証明しているように思える。この香りが、フィロスの匂いなのだ。
「これで午前の失敗は帳消しにします。ですから、午後も頑張ってください」
「は、はいっ!」
どのくらい抱き締められていたのだろうか。大した時間ではなかったはずなのに、カルディアはとても長いことそうしていたような気分になっていた。
フィロスの腕から解放されると、ゆっくりと立ち上がる。焦って行動するからいけない。学習の成果だ。
「……あ」
カルディアが立ち上がったのを確認してフィロスも立ち上がる。そこで一つ気がついた。
「どうやら僕も着替えないといけないようですね……」
「本当にすみませんっ!」
ぺこりとカルディアは頭を下げる。フィロスの服にまで塗料が付着していた。濡れていたせいで移りやすくなっていたのだろう。
「あ、あたし、必ず弁償しますっ!」
「気にしないでください。洗えば落ちますから」
やれやれといった感じで告げると、フィロスは店内を見回す。そしてため息を一つ。
「もう午後はお休みにして、洗濯と掃除にあてますかね」
「あぁぁぁぁっ! ごめんなさいっ!」
謝っても謝っても謝り足りない。カルディアは申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、何度も頭を下げる。
結局その日、エフティヒア商店は午後休業となったのだった。
カルディアがエフティヒア商店で働けるようになって半月ほど経った日のことだ。昼食が終わると、珍しくフィロスは店を出て行った。カルディアに店番を任せて。
店番とは言っても、エフティヒア商店の入り口には休憩中の札を立ててあった。これまで手伝ってきたのだから会計もできるとカルディアは言い張ったのだが、何かあったときに一人じゃ対応できないでしょうと諭し、フィロスは札を立てて行ったのだった。
(やっぱり半人前か……)
一生懸命にやってきたつもりではあるが、フィロスからは今ひとつ信頼されていないようだ。確かに会計はフィロスの隣で何回かやってはいたが、そそっかしいのかつり銭を間違えたり落としたりと、お客さんに迷惑をかけてばかりだった。
(だとしてもめげちゃいけないわ。商品が届くから店番をして受け取るようにって任せてくれたんですもの。少なくともその程度には成長したってことでしょ)
そう自分を励ましてみるが、入り口に立てられた札が目に入って気分が落ち込む。
札を避けるように店内を見やると、初めて店に立った日のことがよぎった。店をぐちゃぐちゃにしてしまい、お仕置きだといって抱き締められたことを思い出し、ぽっと身体が熱くなるのを感じ取る。カルディアは慌てて首をぶんぶんと横に振った。
「な、何考えてるのよ、あたしは、もうっ……今は留守番に集中よっ!」
勘定台で頬杖をつきながら入り口を見る。フィロスが出て行ってからまだそれほど時間は経っていない。商品が届けられるのはこれまで見ていたところでは夕方近い時間になってからなので、店番を任せるほどの時間を空けるつもりでいたフィロスが帰ってくるということはおそらくないだろう。
(しかし何の用事なのかしら。暦を見たときのあの顔、かなり焦っていたように思えたけど)
ふあぁっと大きな口を開けてあくびをすると、カルディアは大きく伸びをした。
(いけない。このままじゃ寝ちゃうわ。何かしていないと)
昨夜、部屋の本棚からひょっこりと現れた一通の封筒。それはフィロスが書いたものらしかった。好奇心から開けてしまったその手紙を読むのに夢中で、悪いと思いながらもつい夜更かしして読みきってしまったためか、食後のこの時間は普段よりも睡魔が活動的だ。
カルディアは特に何かをするわけではなく、店の中を歩く。思いつきで何かをやっては、店の商品を壊しかねない。そんなことは今までの経験からよくわかっていたので、余計なことはしないに限るとカルディアは思っていた。
店内を何周しただろうか。不意に扉に取り付けられていた鐘がカランカランとその甲高い音を響かせた。
「いらっしゃいませ!」
条件反射で、カルディアは振り向くと声を掛ける。
「へぇ……噂どおりの美女だな。短い丈のスカートも悪くないね」
入ってきたのはフィロスと同じ年頃の青年。あごが細く逆三角形に見える顔に、やや長めの亜麻色の髪、少々吊り上った目は鳶色できつい印象を与える。ちらりと見たところでは睨んでいるように感じられるので恐い雰囲気だが、それも彼の魅力になりえそうなほどには整った容姿を持っている。どちらかというと丸顔で柔和な雰囲気のフィロスとはまた異なる感じの男だ。
「あ、あの……表の札、目に入りませんでしたか? 今、休憩中でして」
他に目もくれず真っ直ぐ向かってくる男に、カルディアはたどたどしく声を掛ける。
「どうせフィロスは出掛けているんだろ?」
その通りだ。カルディアは言い当てられて目を丸くする。
「えっと……何の用事ですか? フィロスさんが出掛けていると知っていて訪ねて来るなんて――」
どう対応したらよいのかわからない。買い物に来た客ではないことをなんとなく察したカルディアではあったが、その場合はどう案内するのが適切なのか思い浮かばない。フィロスの客でもないとなると、この男の目的はなんなのか。
男はカルディアの前にやってくると、息が掛かりそうなほどの近さで止まった。
(フィロスさんより背が高いな……)
そんなことを思って顔を上げる。
「あ、あの……」
近すぎる。そう判断したカルディアは一歩後ろに退く。
「逃げるなよ」
がしっと手を掴まれた。男の手はとても大きく、細いカルディアの手首をすっぽり覆う。
「に、逃げてないです。近すぎだと思ったもので……」
「へぇ」
男はにたっといやらしい笑みを浮かべると、無造作に空いている方の手でカルディアの髪をすくった。
「ひゃっ……」
彼の指の間を黄金色の細い髪がゆるゆると流れていく。
「おうおう。可愛い声で鳴くもんじゃないぜ、お嬢さん。フィロスはこういうことしてくれなかったのかい?」
「へ、へんな言い方しないでください」
気丈に振る舞おうとするが、いかんせん、声が震えてしまっている。男はヒューっと口笛を吹いた。
「いや、参った。ここまで俺好みの女だとはな」
その台詞に嫌な気配を感じて、カルディアは男を睨む。
「怒った顔も悪くないね」
髪をもてあそんでいた手がカルディアのあごを持ち上げた。その仕草はとても自然で、拒む隙を与えてはくれなかった。
「そ、それ以上何かしたら、か、噛み付きますよ、あたし」
「威勢がいいね。よく躾けられている、って褒めておこうかな」
あごに触れていた手がそのままなぞるように耳の後ろへ、そして首筋を這っていく。
「んあっ! やめてくださいっ!」
対処しきれなくて固まっていた身体が動き出す。掴まれていない方の手で彼の手を勢いに任せて払う。しかし、今度はその手も掴まれた。
「ちょ……何のつもりですかっ!?」
掴まれた腕を持ち上げられる。両手は上へ。身体は自然と男へと近付く。
「冗談が過ぎた。ここからは真面目な話だ」
「こ、この状況でそんなこと言われましてもっ……」
もがいてみるが、身体はもう完全に男の支配下だ。どうにも自由にならない。
「――今日、フィロスが出掛けた理由を知りたくないか?」
男の問いに、カルディアは目をぱちぱちと瞬かせた。好奇心と不安感がカルディアの心に広がっていく。
「わかりやすいやつだな」
ぷっと笑って、男は続ける。
「あいつは恋人の墓参りに行ったんだ」
(……墓参り?)
フィロスに恋人がいることは、昨晩見つけた手紙から理解していた。しかし、その恋人が亡くなっているとは想像しなかった。どおりで彼女の姿が見えないわけだ。
カルディアの抵抗の意志が消えたからだろうか。男は掴んでいたカルディアの手を解放する。
「君、カルディアって言うんだったな。死んだ恋人の名前を記憶喪失の女に付けるだなんて、どうにかしていると思うぞ。いくら容姿が似ているからって、君に失礼じゃないか。そうだろう?」
(あたし、カルディアさんに似てるのか……だから、ここに置いてくれるのか……)
男は同意を求めてきたが、カルディアは反応できない。
「なぁ、カルディア。君、俺のところで働かないか? 昔の女にこだわる男なんか捨てて、俺のところに来いよ」
(でも、あたしはそれでも……)
「俺、この町を治める領主の息子でアルベルトっていうんだ。君に見合う仕事を紹介してやる。こんな寂れた店にいるより、俺と一緒にいた方がずっと情報が集まると思うぜ?」
「……結構です」
漏れた言葉はとても小さく、それでもカルディアは一生懸命に声にする。
「結構ですっ!」
叫ぶような大きな声ではっきり告げると、カルディアはしっかりと男を見た。アルベルトは目を見開いて怒りの形相になると、カルディアを棚に押し付ける。
「きゃっ!」
ばらばらと棚に置かれていた木製の置物が床に落ちた。色とりどりの欠片が散らばっていく。
「君はわかっていない。彼がどれほど残酷なことを君にしているのか!」
「あたしはそれでも幸せなんですっ! 余計なことをしないでっ!」
「その残酷すぎる幸福を、俺が壊してやる――」
暴れるカルディアを押さえつけ、アルベルトは強引に彼女の唇を奪う。
そして、その短くも長く感じられた一瞬の後、カランカランと鐘が鳴った。
「――アルベルト、お前、なにしてるっ!?」
怒鳴り声に似た感情的な声が店内に響く。
(……フィロスさん……)
アルベルトの亜麻色の長い髪の間から、カルディアはフィロスの顔を見た。
(なんで……)
力が抜けて、その場にへたり込む。
(どうしてもっと早く帰ってこなかったの? ううん、責めちゃいけないわ。もっと遅く、帰ってきてくれたら良かったのに……そうしたら、あたし、何もなかった顔をして迎えることができたのに……)
「あらら。早いお帰りだったんですね、フィロス君」
おどけた調子でアルベルトはフィロスに顔を向ける。
「お前……よく僕にそんな態度を取れるな」
足音に怒気が含まれている。強く踏み出される一歩は、足元に転がる商品を無視して突き進む。
「殴るつもりかな? フィロス君。領主の息子たる俺を、寂れた店の商人が殴れるものかい? ここは冷静に判断すべきじゃないかな?」
挑発しているようにも取れるアルベルトの口調。煽られてかそれともすでに冷静さを失っていたのか、フィロスはアルベルトの上着の襟をぐっと掴み、持ち上げる。
「殴れば、処分されるぞ? ここで店を開いていられなくなるがいいのかな?」
「――お前が黙っていれば、なんら問題ないだろう?」
地を這うような低いフィロスの声。そして、アルベルトは吹き飛ばされた。商品の転がる床に突っ伏す。
「ず……ずいぶんと熱を上げているようじゃないか、フィロス君」
殴られた左頬に手を添えて、アルベルトはふらりと立ち上がる。
「だが、いつまでもこの状態が続くと思うな。俺が間に入らなくても、いつかは壊れるもろいものだ」
フィロスに向かって告げると、アルベルトは床に座り込んだカルディアに目を向ける。
「カルディア。死んだ昔の恋人のことが知りたければ町役場に来いよ。説明してやるぜ」
「うせろ、アルベルト。この店に顔を出すな」
「へいへい。もう帰りますよ」
アルベルトは頬をさすると、カルディアの返事を聞かずに店を去った。甲高い鐘の音が店内をこだまする。
「――大丈夫ですか? カルディアさん」
しゃがみ、様子を窺うフィロス。カルディアは顔を向けられない。
「す、すみませんでした……あたしがどんくさいばかりに……店番もまともにできなくって……」
涙で声がかすれる。悔しい。悔しくて仕方がない。
「あなたのせいではありませんよ。元はといえば、僕が店番を頼んだのが原因で――」
「違う……フィロスさんは……悪くない」
全部あたしがいけない、このくらい自分で処理できないのがいけない――カルディアは何度も自分に言い続ける。
「カルディアさん……」
「ごめんなさい……あたしの心配なんかさせてしまって……ゆっくり、カルディアさんとお話がしたかったでしょうに……」
「!? 何言って――」
「すみません……きょうはもう部屋で休みます。迷惑かけてばかりで本当にすみません……」
伸ばされた手を振り切って、カルディアは駆けた。フィロスの手がむなしく虚空を掴む。
(最低……今日はなんて日なのよ……)
涙を拭いながら、カルディアは階段を駆け上った。
カルディアの目が覚めたとき、窓の外はすっかり暗くなっていた。
(……やだ、あたし、あのまま寝て……)
むくっと上体を起こし、唇に触れる。嫌な感触がまだ残っている。
(酷い人……)
手の甲でごしごしと拭うが、なかなか忘れられない。フィロスの驚愕した顔が脳裏に焼きついている。
(フィロスさんはどうしたかしら。もう、寝てしまったかな……)
開けたままになっていた紗幕を閉め、カルディアは角灯を持たずに部屋を出た。
廊下には窓がない。暗くてよく見えないが、ずっと暗い中にいたおかげかなんとなく様子は窺える。半月も生活した家だ。さすがに勝手もわかってきているらしい。
(えっと……フィロスさんは部屋かしら)
そう思って、カルディアは歩みを止める。
(待て。夜更けに部屋を訪ねてどうしようというのよ、あたし)
行動が不審であることに気付き、自分の部屋に戻るか台所で何か食べ物を持ってこようかと足をもたつかせていると、不意に近くの扉が開いた。カルディアは身体をびくりと震わせる。
「おや……こんな夜更けに珍しい」
部屋の角灯が廊下を淡い光で包む。立っていたのは眠そうな顔をしたフィロスだった。薄手の寝巻き姿であり、声はどこかぼんやりとしている。
「あ、あら、フィロスさん。ごめんなさい。起こしてしまったようで」
「いえ……ずっと起きていましたから」
身体をフィロスに向けると、彼はカルディアに近付いてくる。
「え? 起きて……って」
むせそうになるほどの酒のきつい匂い。カルディアは改めてフィロスを見る。暗がりでもわかるくらい顔が真っ赤だ。
「お酒、飲んでいらしたのですか?」
カルディアはふらつくフィロスに手を伸ばし身体を支えた。
「飲まずにいられるかよ……」
ぼそりと呟かれた台詞。思わずこぼれたような囁き。フィロスの重みがカルディアの細い肩に乗る。
「もう横になってください。こんなにお酒が入った状態じゃ危ないですよ」
フィロスが出てきたのは彼の自室。どうもそこで一人で飲んでいたらしい。部屋から漏れる明かりが酒瓶を通してゆらゆら揺れる。
(フィロスさんがお酒を飲んでいるところなんて、一度も見たことがなかったけど……こんなに酔っ払うなんて――)
カルディアが導くと、おとなしくフィロスも合わせてくれる。そのとき初めて、カルディアはフィロスの寝室に入った。
(お酒の香りがきついけど、でも、フィロスさんの匂いがする……)
染料の匂いと香を焚いたような匂い。フィロスの部屋には机と寝台、本棚と箪笥が置かれ、机の上には数本の酒瓶が空いた状態で転がっていた。よく見ると、床にもいくつか転がっている。
(一体何本空けたのかしら……)
足元に注意しながら寝台に運び、横に寝かせる。ぐったりとしたフィロスはされるがままに転がった。
「お水、お持ちしますね。少し酔いを醒ましたほうがいいですから」
フィロスの状態をみて、カルディアは寝台から離れようと立ち上がる。
そこで手首を掴まれた。そのままぐいっと強く引っ張られ、抱き締められる。
「あ、あの、フィロスさんっ!?」
慌てて離れようと身体をよじるが、力の込められた腕から逃れることはできない。
「また、あなたを傷つけてしまった……」
「……?」
言っている意味がわからない。
(また、って……?)
思考に集中して動けなくなったカルディアを、フィロスは身体をひねって下に敷く。両手を押さえつけて自由を奪い、さらに馬乗りになって胴の動きも封じる。そして彼は困ったような色をにじませたまま微笑んだ。
「あなたはうかつですね。こんな夜更けに男の部屋に入ってくるものじゃありませんよ」
「そう……ですね……」
こうなっては身動きが取れない。しかし、不思議とそこまで嫌な感じはしなかった。
(こういうとき、あたしはどんな顔をすればいいのだろう……)
妙に冷静な気分だった。アルベルトに強引に触れられたときには恐怖と嫌悪感ばかりだったのに、今はそれらとはまた違う。
「……そんな顔で見つめないでください。本能を抑えられなくなる……」
「でも、この力の差では抵抗できませんよ」
「誘わないでください」
「あたしは事実を述べただけ、ですけど……」
どうしろと言うのだろうか。もっと嫌な顔をして、恐怖して、必死に逃げようともがけと言うのか。
(あたしは……拒めないよ? あなたにそんな顔をされてしまったら、なおさら)
カルディアは微かに笑む。
「……いいんですよ? あなたがあたしを欲しいというのなら差し上げます。あたしにはこの身体しかないのですから」
「だから、誘わないでと言っているじゃないですか」
腕を掴んでいる手のひらに汗がにじんでいる。それがなんだか愛おしい。
「あたしが傷つくのを恐れているのですか?」
「そうです。僕はあなたを傷つけたくない。もう、これ以上、あなたを壊したくない……っ!」
堪えるように、フィロスは口を結ぶ。自身の唇を噛み、必死に何かを抑えている。
「構いませんよ。亡くなったカルディアさんの代わりだとしても、あたしはあなたに触れていただけるなら構わない」
カルディアの呼びかけに、フィロスは目を大きく開いた。
「あなた、知って……」
ごくりと何かを飲み込むと、フィロスは目を伏せてカルディアの上から退く。彼女のいない空いた場所にフィロスは身体を転がした。
「……いつから、気付いていました?」
仰向けに転がり、フィロスは目の上に腕を乗せた状態で問う。
「確信したのは昨晩です。あの……手紙を見つけてしまったものですから」
「手紙……?」
すぐに思い出せないらしい。フィロスは繰り返すように問う。
「カルディアさんに宛てたお手紙です。悪いとは思ったのですが……勝手に読んでしまってごめんなさい」
カルディアは上体を起こしてフィロスに身体の向きを変え、頭を下げる。
「どこからそんな手紙が……」
腕を動かし、わずかな隙間からフィロスはカルディアの顔を見る。
「本の間からです。『プシュケの意匠に込められた想い』って題名の本から出てきたんですよ」
「……どうしてそんな本の間から……?」
心当たりがない振りをしているのか、酔いが回って頭が働いていないのか。フィロスは視線を天井に向けて、不思議そうに唸る。
「……あの、カルディアさんって、どうして亡くなられたのですか?」
二人が愛し合っていたこと、それは手紙の内容から容易に想像できた。その手紙は生前のカルディア宛であったが、途中で書き損じたがために出さずにいたものらしい。結婚の約束をほのめかす文面の途中で、文章は途切れていた。
「――あなたは知らない方がいい」
低く、凄みさえ感じさせる声。普段とは違う声色に、カルディアは姿勢を正す。
「彼女を死なせてしまった責は僕にもある。だからお願いだ。もうしばらく忘れさせてくれ」
言って、カルディアはまた引き寄せられた。フィロスの胸に耳が当たる。優しい心音は不安な気持ちをやわらげてくれる。
「……わかりました。問いません」
大きな手が頭を撫でる感触。見れば指の間を柔らかな髪がするすると抜けていく。
「あの……あたしはいつまでこうしていればよろしいでしょうか?」
なかなか放そうとしないのを不思議に感じて訊ねるカルディア。フィロスの手が腰をしっかりと押さえていて、どうにもくすぐったい。
「付き合ってくださるなら、是非とも朝まで」
「それはあたしに寝るなと言っているのと同じだと思うのですが?」
頭を撫でる感触が心地よくてたまらない。うっかりするとそのまま眠りに落ちてしまいそうだ。
「これ以上のことはしませんよ。酔った勢いで、とは思われたくない」
「酔った人間の戯れ言を信じる趣味はないですが――あなたのおっしゃることなので信じます。あなたの腕の中なら、安心してよく眠れそうですから」
胸に顔を埋める。太陽と香の匂いがした。
「それはよかった」
「あたし、お酒の匂いだけで酔っ払ってしまったのかしら……」
「そうかもしれませんね、カルディアさん」
「だったら嫌だわ」
「いい夢を見て、嫌なことはすべて忘れてしまえばいい……」
どこか祈るように告げるフィロスの声を聞きながら、カルディアは夢の世界に落ちていった。
満月が昇り始めている。
夕暮れで赤く染まる町並みを横手に、カルディアは左の薬指にはめられた指輪を見ながらエフティヒア商店に向けて歩いていた。
(ふふっ……幸せだなぁ)
――今日は店をお休みにして、町役場の辺りに出てみませんか?
今朝、フィロスからそう誘われたときは何事かとカルディアは思った。町役場にはアルベルトがいる。あれから店に姿を現していないが、できることなら彼には会いたくない。しかしアルベルトに出くわすこともなく、終わってみれば楽しいことでいっぱいだった。
今までの仕事の褒美として何か欲しいものはないかと訊ねるフィロスからねだった物は指輪だった。木製で、蝶の模様が彫り込まれたものだ。右手の薬指に合わせて見繕ったものを、カルディアはわざと左手にはめていた。
「とても満足そうですね……」
少し呆れ気味にフィロスが言う。カルディアの弾む足取りを見ての台詞だ。
「だって、とっても嬉しいんですもの。おそろいですよ、おそろい」
その指輪をつけていたのはカルディアだけではなかった。その指輪を購入する際にカルディアは自分の稼ぎで同じ物が欲しいとねだり、フィロスの左手の薬指に合う同じ指輪を手に入れたのだ。
「まったく……あなたが何を考えているのかわからない」
「嫌ですか? でも、今だけでいいんですから。ね? 約束してくれたでしょ?」
店に着くまでは指輪をしていて欲しいとのカルディアの願いに根負けして、フィロスはしぶしぶ指輪をはめている。
「せめて右手にして欲しかったですけどね」
「あたしと夫婦ごっこするのは嫌だってことですか?」
小さく膨れた顔をフィロスに向ける。彼はあからさまに困った顔をした。
「嫌というものとは違うのですが……」
(フィロスさんは、あたしのこと、好きじゃないのかな……。やっぱり、寂しさを紛らわすためだけにあたしのこと……)
「いーです、いーですよっ! 今だけ、限定でっ! それで満足することにしますから!」
不機嫌に足を鳴らして、カルディアはエフティヒア商店に続く坂道を彼の前をとことこと歩く。手を繋ぐ気にもなれなかった。
「カルディアさん」
「今さらご機嫌を取ろうとしても遅いですよーっだ」
声をかけてきたフィロスに、カルディアは見向きもせずにすたすたと先を歩く。やがて人通りも減ってきて、いよいよ居住地域に入ろうかというところでカルディアは急に頭痛を覚えた。
薄暗くなった通り。二股に分かれたその場所。家も街灯もなくここは林ばかりだ。上に続く道はエフティヒア商店のある住宅街へと抜ける道、下に続く道は丘を回るように抜ける林道だ。
カルディアは痛む頭を押さえて立ち止まる。
(ここ……見覚えがある……)
その記憶は、今日の昼間のものではない。この薄暗さと共に何かが引っかかっている。
「どうかしましたか?」
フィロスが追いついたらしい。立ち止まったカルディアの様子を窺いながら問い掛けた。
「あたし……この場所を知ってる……」
「昼間も通りましたからね。左がエフティヒア商店ですよ。右が――」
「丘を回るように続いていて、その先は行き止まり、ですよね?」
台詞を遮られて続けられたその答えに、フィロスが驚きで目を大きく見開く。
「この道を、ご存知で?」
「だって……あたしはここを毎日――」
断片的な映像。目まぐるしく切り替わる記憶の欠片。情報がカルディアの中に流れてくる。
「痛い……」
あまりの頭痛に、カルディアはその場に身をかがめる。フィロスは慌てて彼女を抱えると、通りの脇へと移動した。
「だ、大丈夫ですか?」
「あぁっ!!」
何度も何度もこの通りを行き来していた記憶。
日中は両手にたくさんの織物を提げて。それはお仕事で、雇い主に命じられて。自分や仲間たちで作った綴れ織壁掛けを商店に届けるために。
夜は自分の荷物や食料を抱えて。この道を毎晩のように通っていたのは、その商店の主人に会うため。
焦げ茶色の短髪、紺碧の瞳、日焼けした肌、塗料と香の混じる匂いの彼に。
(そうか……あたしが……)
痛みが増してくる。思い出したくはない、でも思い出さねばならない忌まわしき記憶。
その夜は新月で、星の明かりがまぶしい晩だった。彼の誕生日のお祝いに作っていた蒼き翅の乙女の綴れ織壁掛けの最終作業に手間取ってしまい、いつもよりも遅くにこの道を通ったときのことだ。
誕生日に間に合った綴れ織壁掛けを抱えてこの坂道を駆けていたときに、見知らぬ男たちに声をかけられた。
林の手前、二股に分かれるこの場所。
町役場への行き方を訊ねられ、道を教えた。そこまで連れて行って欲しいと言われたが、急ぎの用事があるからと丁寧に断った。彼と約束した時間はとうに過ぎている。早く行かねば、彼が心配していることだろう。
だが、男たちは引かない。頭を下げて足早に去ろうとしたところで、男の一人が刃物を取り出した。恐くなって走った。暗がりをがむしゃらに。そして――。
「……ごめんなさい、フィロス。あたし……あなたの誕生日を祝うことができなかった……」
「カルディアさん……!? ……カルディアっ?」
カルディアの瞳から涙がこぼれる。次から次へと、それは止まることを知らない。
「あたしが……カルディアだったんですね……」
「記憶が……戻って……」
「どうせなら、あなたとの幸せな記憶だけ戻ってきてくれたら良かったのに……どうして、あんなことに……」
両手で顔を覆うカルディアを、フィロスはぎゅっと抱き締めて頭を撫でる。
「嫌なことは忘れてしまえばいい。無理に思い出すことはないよ」
(あぁ……だから彼は記憶が戻らなくてもと……なのにあたしは……)
涙が溢れて仕方がない。視界の端に映る空にはまん丸の月が浮かぶ。
「神様は、残酷なことをしてくれるな……どうせなら、最後まで忘れさせてくれていたら良かったのに」
「最後……あぁ、お迎えが来てしまったのね」
カルディアが視線を動かして示すと、薄暗かったはずの周辺が明るく照らされている。たくさんの光の蝶が周囲に集まっているのだ。
「ひと月だなんて、短すぎる」
フィロスはカルディアの涙を指の腹でそっと拭う。それでも拭いきれずに温かな雫は流れ落ちた。感情が溢れる。
「そんな悲しそうな顔をしないで、フィロス」
「悲しまずにはいられないよ、カルディア」
告げて、フィロスはカルディアの唇に優しく自身の唇を重ねた。
やがて離れていく温もりが、心を苦しませる。ずっとずっとあなたを感じていたいと求めてしまう。
「フィロス……」
「怖がらなくていい、僕も一緒だから」
作られた微笑みに切なさがひろがる。
カルディアはフィロスの言葉を聞いて目を見開いた。胡桃色の瞳が揺れる。
「……え?」
「――いるんだろう? アルベルト。出てきてくれ」
どこかに向けられた問い。
それに応じるかのように、フィロスの背後にある茂みが揺れた。
「……いつから気付いていた?」
木の陰から出てきたのはアルベルトだった。極まりの悪い顔をしている。
「役場前の広場を出たときからずっとつけていたんじゃないか?」
「ご明察」
答えて、アルベルトは苦笑した。
「どうしてこの身体のことを黙っていたんだ? プシュケの僕を保護したのはお前だったはずだ。あの満月の朝、僕は君の屋敷にいたんだからな」
「俺と君は野暮なことは言わない間柄だろう? それに、君がカルディアに本当のことを告げずにいたのと同じことじゃないのか」
フィロスの問いに、アルベルトは親しげに返す。さも当然と言いたげな口ぶりに、カルディアははっとした。
「フィロスも……プシュケって……本当なの……?」
困惑して思わず漏れた台詞。フィロスは静かに頷いた。
「カルディア。彼はね、君の復讐を果たして死んだんだよ。この場所で」
カルディアに向けられていたアルベルトの視線がフィロスに移動する。
「――だが、いつそれを思い出したんだ、フィロス。復讐したときに傷を負って、そのまま眠っていたんだって言う俺の安っぽい嘘を、君はあっさり信じてくれたじゃないか」
不思議そうな問いに、フィロスは小さく自嘲気味に笑って答えた。
「カルディアの墓参りをしたときに、自分の墓を見ちゃったんだ。それでお前に話を聞こうとして――僕の店に行ったと聞いたからすぐに飛んで帰ったんだよ」
(あぁ、それでフィロスはあんなに早く帰ってきたのね……)
アルベルトがエフティヒア商店を訪ねてきたその日、フィロスにそんな出来事があったとは知らなかった。自分の身に起きたことで頭がいっぱいで、彼の変化に気付いてやれなかったことをカルディアは悔やんだ。
「だけどな、アルベルト。お前がカルディアに会いにいった理由を察して、僕は結局今日までその事実を聞こうとは思わなかったんだ。それにカルディアを泣かせたことは今でも許せないしな」
(あたしは……フィロスにちゃんと愛されていたんだ……)
嬉しかった。大事にされているとわかった。死ぬ前も、今も、変わらずに彼から愛されていたのだと。
(あたしはそうとは知らずに、また彼に恋をした……。次に彼に出会えても、きっと彼に恋をするって信じられる。もう怖くなんかない。充分だわ、充分すぎる……)
悲しみの涙が、幸福の涙に変わる。
「カルディアの唇を奪ってしまったことについては弁解のしようがない。何発殴られようと構わない覚悟だ」
「そうか――だが、それは次の機会にとっておくよ」
ゆっくりとフィロスは立ち上がる。カルディアをしっかりと抱えて。
「もう、時間らしい」
光の蝶が急かしている。フィロスの背にすっと翅が生える。真っ青な空のような美しい翅、それがひとたび羽ばたいた。
「残念だ。次の機会を楽しみに待つとするよ」
苦笑して肩をすくめるアルベルト。しかし彼のそれが演技であることをカルディアは見抜いていた。アルベルトがフィロスの一番の親友で、カルディアの相談にもよく乗ってくれていたのを思い出したからだ。
「カルディア。心の準備は良いかい?」
「えぇ。一緒に逝けることを嬉しく思うわ、フィロス」
カルディアの背にも深い青い翅が伸びた。それはカルディアが作った綴れ織壁掛けのプシュケの翅。蒼き翅の乙女――その絵のままに。
「こういうのも悪くないかもしれないわね」
「少しくらい、神様は気の利いた演出をしてくれてもいいと思うんだよ。君をこんなにも悲しませたのだから」
言って、フィロスはカルディアの涙を優しく拭った。
「この涙は嬉し涙よ? 記憶をなくしていても、あなたに恋をした。だから次もまたあなたを愛せるって信じられる。それを知ることができたから、喜びの涙なの」
「良かった……。プシュケにならないほうが良かったって思っているんじゃないかとずっと不安だったんだ」
「大丈夫。あたしは後悔していないわ」
「それが聞けてほっとしたよ」
微笑みが交わされる。悲しみから解き放たれた穏やかな二つの笑顔。
「――ずっと一緒よ。フィロス。愛してる」
「愛してる、カルディア。ずっと、ずっと一緒だ」
再び重なり合う唇。互いの体温を感じ合う。永遠がありますようにと願いながら。
無数の光る蝶に変わる二つの身体。天に昇っていく蝶の群れを見送ったあと、アルベルトは静かに涙を流した。
《了》