第1部 開拓者達 第4章 武蔵編 第2話 新天地を求めて
毛野荒刀は、豊城入彦命の命で新しく支配出来る土地を探しに旅立った。そして、赤城山の麓から南下して利根川と烏川の合流地点に。そして、東に進み、新たな拠点を見つける。
毛野荒刀は赤城山を後にして、南に向かって旅を続けた。また利根川に。そこから南側を眺めると湿地帯が広がり、ポツンと幾つかの集落が見えた。
現在の関東平野の面影はなく、縄文海進の余波を残し、利根川、荒川による氾濫を踏まえた地形でした。そのため、稲作をする上で、湿地帯は条件としては良かったのですが、荒川と利根川の氾濫に悩まされていた。崇神天皇の時代には、ヤマト王権がまだこの地域に進出していなかった。この地域に稲作を推進していたのは、この地で生活していた縄文人ではなく、東海地方や出雲から出て、信濃地方から移り住んできた人達でした。その人達の信仰は、神話に登場する少名毘古那や大己貴神で天照大御神を崇拝する天孫系の人達ではありませんでした。少名毘古那は別天津神で造化三神(天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神)から誕生した神で、大己貴神は大国主命の幼名とされ、須佐之男命からの流れを組む神でした。その少名毘古那と大己貴神を信仰する人達が利根川と荒川に挟まれたデルタ地帯で生活をしていました。また、その人達は東海地方からも移住してきて、荒川と秩父川に挟まれたデルタ地帯で生活をし始めました。関東地方で少名毘古那を主祭神にしている代表的な神社は、東京都青梅市御岳山の武蔵御嶽神社があります。大己貴神を主祭神としている代表的な神社は、埼玉県さいたま市大宮区高鼻町の氷川神社で、大己貴神共に須佐之男命と櫛名田比売(注22)の主祭神として祀られています。少名毘古那も大己貴神も須佐之男命も櫛名田比売も基本は農耕神だったようです。そして、少名毘古那も大己貴神も常世の神だったのです。それらの神を信仰していた人達は、この関東平野に桃源郷を求めた人達だったのです。
ヤマト王権がこの地に進出してきたのは、豊城入彦命が率いる集団だったのですが、それまでにこの地に進出していた人達がいました。それを神話では、大己貴神とか少名毘古那で表現したわけです。元々この地には、縄文人が移動しながらも海産物の収拾で生活をしていました。そこに稲の種を持って東海や信濃から進出してきた人達がいました。その人達は、海岸線近くのデルタ地帯に稲を植えました。毛野荒刀が利根川と烏川の合流地点から眺めた風景は、その人達が稲を植えている姿でした。その場所は利根川と荒川に挟まれた土地で、遠くに鐘撞堂山と三ヶ山が見え、その山を挟んで荒川が流れていました。その荒川の上流は両神山と三峰山と武甲山に囲まれた秩父盆地が広がっていました。この盆地に信濃から移住してきた人達が集落を築き、知知夫の国と名付けていました。律令制が施行されてから武蔵国秩父郡となります。この知知夫の国にヤマト王権が進出していくのは、もう少し後で景行天皇の時代になってからです。
豊城入彦命率いる集団は、日高の郷から利根川を渡って、赤城山の麓に広がる律令制で上野国勢多郡(群馬県前橋市辺り)を支配し、さらに南下して上野国佐波郡(伊勢崎市辺り)まで。毛野荒刀が利根川沿いから南側を眺めた地点まで支配を広げました。また、上野国多胡郡(群馬県藤岡市辺り)も豊城入彦命が率いる集団は、烏川を渡って支配地にした。しかし、それより南の知知夫の国までには至らなかった。
毛野荒刀は利根川を渡らず、広瀬川を渡って東に向かった。そして、渡良瀬川を渡って袋川に出た。その川から眺めた小高い山々(山川浅間山・あわぎ山・大坊山・ツツジ山・あいの山・毛野山・妙義山・大小山・玄藩山)に囲まれた麓に仮住まいを設けることにした。そして、その地を毛野の郷と名付けた。律令制になってから下野国足利郡毛野村となります。
毛野荒刀はこの毛野の郷を起点に、浅間山(三足富士)に沿って東に行くと稲作に適した広大な土地が広がっていました。律令制が施行されてこの地は、下野国安蘇郡(栃木県佐野市一帯)です。毛野の郷から育った勢力は、後年には下野国都賀郡(栃木県栃木市一帯と鹿沼市と日光市)まで勢力を伸ばし、さらに下野国河内郡(栃木県宇都宮市と下野市辺り)まで。豊城入彦命が築いた毛野の勢力は、広大な領地を支配するようになって、後年に上毛野と下毛野に分裂します。
注22:スサノオが出雲の烏髪山へ高天原から降り立った時にクシナダヒメと出会い、ヤマタノオロチの生け贄にされると聞いて、オロチとクシナダヒメを櫛のハカネに変えて戦い、退治した後、櫛のハカネからクシナダヒメに戻ったそのヒメと結ばれた。オオクニヌシはスサノオとクシナダヒメの子孫とされている。
豊城入彦命が率いた勢力が、毛野の国を作り、上毛野と下毛野に分かれる程の領土を作り上げます。




