6.次の季節へ(2)
ひゅっ、と、息を吸い込んでしまった。
それを敏感に察した相手がそっと立ち去ろうとするのを慌てて呼び止める。
「お待ちください!」
「……いいの?」
緑あふれる庭の中。
声を上げたレシェナに、良いのかと聞き返したのは、背が高く、見惚れるほど顔の良い青年。
「エンディオン殿下、で、よろしいでしょうか?」
「うん。久しぶりだね。ネキア嬢」
エンディオンが微笑むと、レシェナは腰を落として深い礼をとる。レシェナ付きのメイドたちはそれより二歩ほど下がって頭を下げた。
「いと高き場所におわす獅子の末裔へ、当国ロキシデア地方西部より、ネキア男爵家が次女、レシェナ・ネキアがご挨拶を申し上げます。偉大なる太陽の軍神が御身の良き道行きを寿ぎますよう」
「祝福に感謝する。楽にしなさい」
「恐悦に存じます」
言われた通りに姿勢を戻し、そっと首を垂れてレシェナは次の言葉を待つ。
「…………怖くはない?」
「え?」
「僕のこと。ほら、割と背が高くて、威厳があるというか」
思わずいくらか顔を上げてしまう。
優しく眉を下げた、ややアンニュイな顔立ちに優男の雰囲気を纏った王子様は、威厳があるというにはちょっと色々足りない。
「怖くは、ないです」
男性を見かけると体がびくつくのは条件反射のようなものだ。相手が誰だか分かれば恐怖は少ない。
「そうか。良かった」
(そう、良かったこと)
ほっと呟いた言葉に不思議とアルジェンヌの言い方を思い出す。
「もし良ければ、話をしても?」
「はい」
レシェナが頷くと、いったいどこにいたのかというくらい、何人もの使用人がさわさわと麦穂のように揺れ動いてガゼボに簡易の茶席が用意される。
「会うのが遅くなってしまってごめんね」
「そんな」
「お姉さんと話をしてね。リジット家の面談が終わるまでは僕は君と会わない方が良いということになってたんだ」
「姉も、似たようなことを、仰せでした」
「言葉も崩していいよ。慣れないでしょう」
「あ、その、はい」
頬を赤らめて恥ずかしさを堪えつつレシェナは頷く。
「まだお兄さんとは思えないかもしれないけど、将来の兄貴分くらいの感じで」
「ご、ご注文が難しいです」
困るレシェナをエンディオンが笑う。
ささやかな笑い声はどこまでも爽やかで優しく、それだけで肩から背中の強張りがほどけるようだった。
王侯貴族というのは誰でもこんな笑い方ができるのだろうか。もてなしの意味を知り尽くしていて、決して馴れ馴れしくないのに大きなゆりかごのような安寧に包まれた気持ちになり、怯えや警戒があっという間に砕けてしまう。
「今回、裁定者はアルジェだったけど、面会には僕も権威づけに横にいさせてもらった。
一番偉い顔をして、アルジェが決めたことを『そのとおり良きにはからえ』って言う役だったんだ。そして万一アルジェが絶対にやってはいけないことをしようとしたら『それは違うぞ、アルジェンヌよ』って言える、唯一の役。だから被害者の君に対して余計な心証を持たないように会うのを控えることになった」
「そうだったんですね」
説明を受けて、レシェナはなるほどと感心の思いを胸にする。
男性への怯えをうまく隠せなくて自分のために余計な気遣いをさせているのではないかと気掛かりに思う気持ちがあったが、自意識過剰だったようだ。気恥ずかしいような、ほっとするような、少し複雑な気分になった。
「それにしても、君のお姉さん、ほんっと……格好いいよね!」
「は」
突然の言葉にレシェナが固まる。
「まさか降爵も連座も極刑もなしで始末をつけてしまうなんて僕ら誰一人予想していなくて、後でタウゼント侯爵と大笑いしてしまったよ。それでいて釘刺しはやたら太くて怖いし、手を出したら地獄を見せてやるってイメージ戦略はしっかりクリアしてるんだからとんでもない」
(ああ……、エンディオン殿下って、そういえば、こういう人だったっけ……)
それ以外では割とぼんやりアンニュイな様子をしているのに、アルジェンヌの話となると急に元気になって彼女の一挙手一投足にうっとりして、やることなすことべた褒めするのだ、この王子様は。
「ネキア嬢」
「は、はい」
「君はね、僕を憎んでもいいんだよ」
「…………え?」
「タウゼント侯爵に何を言われても気にする気はないけど、君と、エルトの遺児たちだけは、アルジェンヌを連れて行ってしまう僕を恨んでいい。
僕との婚約がなければ去年も今年もアルジェンヌはずっとタウゼント邸にいて、きっと君が隠そうとしたってすぐに異変を察して学園に乗り込んでいったはずだ。半年はおろか、十日以内に気が付いてもおかしくない。処罰だってこんな回りくどいこともせず、ぴしゃっと馬鹿な生徒たちを直接怒鳴りつけて、君を学園内で守れる令嬢に引き合わせて後ろ盾を作り、リジット伯爵家には相手の見込みの三倍くらい価値のある宝石をゆすりとって終わらせてやっただろう。
でもそうはならなかったし、これからもならない。
彼女は王族として公平でなくてはいけなくて、同時に足下を見られるような甘さを見せてもいけない。
アルジェのお養父上はアルジェが厳しくあることを選んで公平さを捨てるだろうと思っていたみたいだけど、僕はアルジェンヌなら両方取ると信じてた。僕の読みの方が当たっていただろう?」
立板に水が流るる如く。
そこまで早口ではないのに、怒涛が押し寄せてくるようだ。
(もし、お姉様のご婚約がなくて、このタウゼント侯爵邸にいらしたなら……)
エンディオンの語る『もしも』を仮定してみる。
確かに、王子の想像は充分ありえそうなパラレル現在だ。
「悪いね。謝るつもりはないんだ。
僕には本当にアルジェンヌが必要だから、君が泣いても僕は行動を変えない。
だから君は、僕を憎んでいい。
僕も君を恨んでいるのだから」
「…………えっ?」
エンディオンがレシェナを恨んでいる?
「本当に一瞬だった。
君のことを聞いたアルジェンヌは一瞬で僕の王子宮を飛び出すと決めてしまった。アルジェには一秒ためらう意味もなくて、いろんな人に頭を下げて回って、たくさん段取りをして、君のために矢のように僕の国を飛び出したんだよ。すごい敗北だ。アルジェンヌがどれだけ君を大事にしていることか。僕にこんなに恨めしい思いをさせたのは君が初めてだよ」
「えぇ…………」
そんな理不尽な。
「だって、家族って、そういうものじゃ…ないですか?」
「んん?」
「私だって、お姉様が苦しんでいたら矢になって駆けつけます。できることは全然違うけど、できることを探して必死になってしまうと思います。
……殿下も、家族になる、のですよね?」
ぽかん、と、王子は言葉を失った。
彼が目をまんまるく開くと、その瞳が明るい緑色の中に金を散らしたような独特の風合いをしているのが夏前のくっきりした日差しに照らし出されて見て取れた。
「殿下にかすり傷でもついたら、お姉様は、もう本当に火の玉みたいに燃え上がって、あたり一面焼き尽くしてしまうと思います。国を一つ二つ滅ぼす勢いで飛び出していかれるのではないでしょうか。私だって微力を尽くします。私が焼けるのは、田畑の一枚か、兵の糧食に積み込む堅焼きパンの十帖くらいですけれど、それでも私も武勇を誇るエルトとネキアの末子ですから、殿下を守るためなら決して引かないことはお約束します」
「え、待って、待って」
エンディオンは混乱のまま声を上げる。
「それって家訓か何かなの。君たち姉妹そろってそれなの? ていうか僕ってすでに君の家族枠に入ってるの? あとパン十帖ってどういう単位!」
どうしよう僕の婚約者の生家が想定以上に蛮族っぽかった件。
王子様の困惑を斟酌しないまま、レシェナは首を傾げて返事を考える。
「パン一帖分はだいたい五十人ほどの兵士が一日食べる量です。なのでそれが十日分です。行軍中なら一人が食べる量はもっと増えて、籠城戦ならもっと減りますから、本当に目安なんですが。あ、拠点での短期防衛で切り詰めたら八十人は行けます」
「ごめん聞いたの僕だけどなんかごめん」
三食に一回配給なしみたいな節約プランを提示されてエンディオンが顔を手で覆う。
「ええと、仕切り直し」
ぱん、と軽く手を叩く。
「僕が言いたかったのは、君は僕に恨み言や頼み事を言っていいよってこと。なんでもできるわけじゃないけど、助けてとか、つらいと言うのをためらわないでほしい」
レシェナは目を瞬いて王子を見た。
何を言っているのか、真意をどう読み取ったらいいのか、一瞬よく分からなかったのだ。
「アルジェンヌは……というか、君たち二人ともなのかな。行動的すぎるというか、ちょっと徹底しすぎる。
アルジェに知られたら一気に物事が動いてしまうと思うと、言い出せないこともあったりするでしょう。
それを僕にぶつけていいよ。
僕はのんびり屋で面倒くさがりだから、腰はとっても重たい。君に怒られたら、訓練用の砂袋みたいに殴られたままでいるよ。
王都でひとりぼっちで怖い。
男が不調法で気持ち悪い。
アルジェンヌがいたらこんなことなかったのに、お前のせいだって、怒ってごらん」
息が止まるかと思った。
そうだ。
レシェナは初め、ただ、誰かに聞いてほしかった。
あの身じろぎひとつできない息苦しい熱湯の中で、助けてほしい以上に何も変えないでほしかった。変化が怖かった。それでも叫びたかった。つらいと言いたかった。
大昔のようにアルジェンヌが共に暮らしていたなら、様子を見ながら日々の狭間に少しだけ弱音を吐くこともできたかもしれない。けれど物理的にも身分的にも距離が開き、会える機会は間遠くなり、些細な話はネガティブなものほど口に出せなくなった。
その責任が、この麗しい貴公子には。
「で、も」
でも。
「それは、八つ当たり、では」
「八つ当たりではいけない?」
「え」
「恨み言を言われる覚悟はできてるよ。八つ当たりが混じっても仕方ないさ。さあ、何に怒る? 空が緑じゃないのが気に食わない? 社交場の言い回しが嫌味ったらしくて腹が立つ?」
突拍子もない話をされてレシェナは反応を返すことができない。
「正義感が強いのか、それともアルジェンヌが怒りっぽいせいかな。君は怒るのが得意じゃないね。今じゃなくてもいい。何か僕に直通で連絡が取れるような手段を用意させておくから、気が向いたら連絡してね。いつでも、何年後でも構わない。毎週愚痴を送ってくれてもいい」
体に染み付いた上位者のふるまいでそう決めてしまって、のほほんと緑と金の瞳の王子は笑った。寝ぼけたような掴みどころのない表情に、レシェナはようやく、この人物の顔立ちを初めてつぶさに見たような気持ちになった。
「殿下」
「なんだい」
「これは、殿下のせいではないんですが」
「うん」
「なんで助けてくれなかったんですか」
「お」
「私、殿下に助けてほしかったです。お姉様に知られる前に。両親にも、タウゼントご夫妻にも、本当は知られたくなかったです。今さら親切にしてくれても遅いです。こんなことになる前に、殿下がなんとかしてくれたら良かったのに」
「わあ……」
早速見事な八つ当たりだとエンディオンが目元を綻ばせる。
「僕なら知っても良かったの?」
「はい。殿下は、よく知らない人だったので」
「すごい切れ味だ」
返す刀が強すぎる。
どうでもいい存在だったと言われたに等しく、エンディオンはサンドバッグ役にふさわしく悲しげに呻いている。
「でも……、ありがとうございます」
ふっと。
引きずっていたはずの重たいものがいつの間にかなくなっていたような気がしてレシェナの胸に息が入る。
「もし姉がエンディオン殿下と婚約していなかったらというお話、ご想像通りだったかもしれませんが、姉のことだから、すぐ別の人と縁付いていたかもしれません」
「え゙」
濁点のついた蛙のような声が王子の口から出た。
「お相手によっては婚約期間なしでいきなり結婚していたかも」
「え゙え゙」
「そしたらもっとお姉様とは離れていたかもしれません。そんな風に、『もしも』の話をし始めたらなんでも言えちゃいます。だから気にしないで大丈夫です。私は、姉と結婚するのが殿下で良かったと思っています。今思いました」
「ネキア嬢」
彼は驚いたようだった。
気怠げで軽薄な印象が薄れてほとんど無表情と変わらぬ面持ちになる。午前の庭は空気が清廉で、ガゼボの中は静かで暖かい。
「連絡手段は謹んで拝領します。今回のことではなく、これからのために」
たたずまいを直す。背筋に芯を通すように。
「お姉様を、何卒よろしくお願いします。――――お義兄様」
目を少し大きく開いた一瞬の後。
応えてエンディオンはゆっくりと頷いた。
「承った。ありがとう。レシェナ嬢」
ヒバリだろうか。小さめの鳥のさえずりが聞こえる。
空が高い。
互いの顔を見るレシェナとエンディオンが、どちらともなく表情をやわらげた。
「まあ、二人ともこんなところにいらしたの?」
不意によく通るあの声。
庭の小道から側付きの使用人を連れてアルジェンヌが歩いてくるところだった。
「お姉様」
「アルジェンヌ」
二人は口々に呼んで顔を明るくする。
「お茶をなさっていたの? わたくしも混ぜていただいてよろしいかしら」
「ここへどうぞ、アルジェンヌ」
「私の隣でもいいんですよ、お姉様」
「あら。嬉しい取り合いだこと」
鈴が鳴るような笑い声が皆の心を軽くする。
ガゼボに立ち入る直前のアルジェンヌはすでに高い太陽の光をいっぱいに浴びて、屋根のある場所の二人から見ると全身が黄金のようにまばゆく輝いていた。
「飲み物が手付かずね。その紅茶、冷めてしまっているのではなくて? いったい何を話し込んでいらしたの?」
「それがね、アルジェ」
エンディオンが話し始める。
アルジェンヌが周りの者に飲み物を新しくするよう目配せする。
そこをレシェナが遮った。
「お姉様、私、お姉様のレモネードがお願いしたいわ!」
マナーの範囲を数歩だけ踏み越えた妹の突然のわがままに、姉娘は驚いてぱちぱち瞬きする。隣を見るとエンディオンはいつもの余所行きの顔を作るそぶりもなく心から嬉しそうにしていて、無礼をはたらかれたという風ではない。
「なんだか二人は、わたくしの知らないうちにとても仲良くなったのかしら?」
「ええ、そうよ。もうとっても仲良し。
だからあのレモネードをお義兄様にも飲んでいただきたいの。いいでしょう? お姉様、お義兄様」
その呼び方にアルジェンヌがはっとする間もあらばこそ。
レシェナは満面の笑みで注文をつけた。
「しっかり酸っぱくしてね、お姉様!」
王国の美しい夏が今、この庭から始まろうとしていた。
お読みいただき本当にありがとうございました。
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