第62章 17時21分
春の柔らかくも心地よい暖かさが、窓の隙間からふわりと控室に流れ込んでいた。
式場の新郎控室は、これから始まる人生の晴れ舞台への緊張感と、慌ただしい喧騒に包まれている。
「おい、タケト! 蝶ネクタイそれおかしくない?」
直樹が僕の首元を指さした。
「どこが?」
「下の方が長すぎるって!」
「こんなもんや!」
僕はそう言い放った。
部屋の中では、直樹や藤田がスーツの着付けや小物の確認を手伝い、忙しそうに動き回っている。
僕は鏡の前に立ち、見慣れないタキシードに腕を通していた。普段の安物のスーツとは違う、重厚感のある生地が肩を包み込む。
春の陽気で日差しの温もりはあるものの、背筋を駆け抜けるのはそれとは違う、冷や汗混じりの異様な冷たさだった。
緊張のあまり心臓がバクバクと激しいリズムを刻み、喉の奥がカラカラに乾いている。手のひらはうっすらと湿り、冷え切っていた。
窓の外では、新緑の木々や花々の香りを乗せた風が、ざわめくように吹き抜けていく。
(ついに、この日が来てしまった……)
なにやらリノが早く結婚したいとお父さんを説得し、予定より2年も前倒しで式が行われることになった。お父さんはリノにすごく弱いのだ。
鏡に映る自分の姿をぼんやりと眺めながら、僕の脳裏には様々な記憶が去来する。
リノと出会ったこと。そして、あの玄関のドアを閉めて去っていった美咲の後ろ姿。
二人の女性の間で揺れ動き、どうしようもない自業自得の選択の果てに辿り着いた、この純白の結婚式場。
2か月くらい前までは、まだ迷いがあった。
いや……今でもまだあるのか。
でも、もうそんなことを考えている暇もなかった。正直、1か月前から式の打ち合わせや何やらで忙しくて仕方がなかった。
どうしてこんな式なんて挙げないといけないのだ。婚姻届を出せば、それでいいだろうと正直思っていた。
結婚式なんて、僕からしたらただの「さらし者」にしか過ぎない。
まぁ……結婚式というものは、女性のためにあるのだろうが……。
ふと思った。
美咲は今頃、日本にはいないのだろうか……。
式の日は、きっと直樹から聞いているはずだ。
そこに、長男の嫁・あかりちゃんがキョロッと顔を出しに来た。
「似合ってるやん!」
そう言って笑ったあかりちゃんは、なぜかニヤけながら僕の耳元に顔を寄せた。
「今日、美咲ちゃんが飛び込みで武人君奪いに来たらどうする?」
「んなわけあるか~い!」
僕はすかさず突っ込んだ。
「おーい、そろそろ時間やぞ! 入場準備や!」
直樹の声で、ハッと現実に引き戻された。
逃げ出すことも、やり直すこともできない。
僕は深く息を吸い込み、固まる頬を両手で軽く叩いて気合を入れた。
重い扉の向こうからは、祝福のざわめきとオルガンの音がかすかに響いてくる。
覚悟を決めろ、僕!
僕は春の暖かな光の中へ、一歩を踏み出すために控室のドアに手をかけた。
純白のウェディングドレスを身にまとったリノと並んで祭壇の前に立ち、厳かな雰囲気に包まれる中、ついにその時が訪れた。
牧師が穏やかな笑みを浮かべ、僕に問いかけた。
「――新郎、武人さん。あなたは、病める時も健やかなる時も、リノさんを愛し、妻として寄り添い、共に歩んでいくことを誓いますか?」
その神聖な問いかけに、すぐには言葉が出なかった。
頭の中にフラッシュバックするのは、あの部屋で泣き叫んでいた美咲の顔。そして、あの時交わした言葉の数々。
――「私以外の女の人と一緒になるなんて……想像もしたくない……」
時間の止まったような長い沈黙が、チャペルの中に重く流れた。
参列者たちの間に、「ん……?」という微かなざわめきが広がる。
隣でリノが、不安そうにそっと僕の横顔を見上げた。直樹や藤田が心配そうに息を呑む気配が伝わってくる。
一体、僕は何をしているんだ。
今、目の前で僕を信じてまっすぐに見つめているのは、ほかならぬリノなのだ。
彼女との間に起きたこと、そして彼女のまっすぐな優しさから目を背けてはいけない。
美咲への断ち切れない想いと罪悪感の泥沼から、僕は無理やり意識を引き剥がし、ようやく絞り出すように声を張り上げた。
「……はい」
その一言を発した瞬間、どこか胸のつかえが取れたような、あるいはすべてに区切りがついてしまったような、複雑な感情が全身を駆け巡った。
こうして式は何とか無事に終わり、場所を披露宴会場へと移すことになった。
披露宴の会場は、親族や友人たちの明るい笑顔と祝福の拍手に包まれていた。
ウェディングケーキの入刀や、お色直しを終えたリノの鮮やかなドレス姿に会場が沸き立つ中、友人代表としてスピーチに立ったのは藤田だった。
「えー、新郎の武人とは長い付き合いになりますが……こいつの女性関係のだらしなさ加減といったら、もう本当にね!」
藤田がいきなりぶっ込んだその一言に、会場のあちこちから「おいおい!」「初めから暴露すんな!」と爆笑と野次が巻き起こった。
「いや、でもね! そんな遊び人の武人が、今日こうして最高にかわいいリノちゃんをゲットして、晴れの日にこうして立てている。男として、これ以上の奇跡はありません! 皆さん、盛大な拍手を!」
藤田の絶妙な間で繰り出されるユーモアたっぷりの挨拶に、会場は割れんばかりの笑い声と温かい拍手に包まれた。
険しかった僕の表情も、さすがにこれには苦笑いを浮かべるしかなかった。
その後も和やかに歓談が続き、お互いの友人たちが次々とテーブルに祝いの言葉を伝えに来てくれる。
賑やかなお祝いムードの中、僕は内心でふっと深く息を吐いていた。
余計な波風が立つこともなく、美咲が乱入するドラマが起きることもなく――。
ただ淡々と、しかし盛大にプログラムが消化されていく。
いろんな意味で冷や汗をかき通しだったが、なんとか無事に、すべてをやり過ごせた。
――これで、やっと終わったんだな。
どこか現実離れした感覚の中、藤田の爆笑挨拶のおかげですっかり和んだ会場の空気を肌で感じながら、僕はとりあえず今日という大一番を無事に「形だけ」はやり遂げた安堵感に浸っていた。
この後は、直樹が二次会をセッティングしてくれている。20時からだ。
僕は一旦マンションに帰ろうとリノに言った。
リノは、遠方から来てくれた友達や親戚の人たちとホテルで二次会までの間を過ごすということなので、現地集合となった。
僕はそれはそれでよかったと思った。
今は疲れた。
二次会までは4時間以上あった。風呂でも入ってゆっくりしたかった。
僕は疲れた体を引きずるようにオートロックを開け、部屋のドアを開け、薄暗い誰もいない部屋に帰ってきた。
電気もつけず、そのまま3人掛けソファに倒れ込んだ。
(あ〜疲れた……結婚式なんかもう二度とごめんや……)
そう思いながら、
(まぁ二度することはないやろ……)
と思って、ソファに顔を埋めた。
このソファで過ごした美咲との時間……。
僕は顔を上げ、ふとパソコンを見つめた。
何を期待しているのだろうか……。
僕は立ち上がり、机に向かい、パソコンの電源を入れた。
AOLをクリックすると、
「You've Got Mail」
と音が聞こえた。
まさかと思った……。
それは、結婚式の約1か月前から来ていた美咲のメールだった。
5通。
僕は胸が張り裂けそうだった。
僕は一番古い、3週間前のメールから開いた。
1通目。
『ダーへ……直樹さんからきいた。結婚式決まったんやってね。ごめん……私からはおめでとうはいいたくない。でも、ダーには幸せになって欲しい。
salut misaki』
2通目。
『ダーへ……なんかダーの結婚式が近づいてくるたびに苦しくなってくる……日本に居たくないよ。ごめんね。
salut misaki』
3通目。
『ダーへ……この前のメールはごめん。変なこと言って! でも、もう大丈夫やから! 私彼氏できたねん! ダーよりはカッコよくないけどいい人! 私は結婚式までまだしばらく時間あるから、ダーみたいにいっぱい遊ぼうかなって思ってる!
salut misaki』
4通目。
『ダーへ……明後日結婚式やね! リノちゃんもきっときれいなんやろね! 正直あの子かわいいし。私は好きじゃないけど(笑)。でも、リノちゃんはきっと幸せになれそう。だってダーが旦那さんやねんから。私の完敗です。
salut misaki』
5通目。今日。
『ダーへ……いよいよ今日やね、結婚式。
私これまでの事考えてみた。やっぱりダーの事、今でも愛してる!
彼氏なんかも出来てないし……ただの強がりやし……私にもう一回チャンスが欲しい。このままあきらめたくない! 駆け落ちでも何でもする! お母さんなんか、家なんかも捨てる!
無茶苦茶な状況で言っているのもわかってる……でも、もし、私にチャンスくれるんやったら、今日の16時にいつもの公園で待ってる!
「私と結婚して下さい、永遠にともに」
……もし、来なかったらそれが返事と思うから、二度とダーの前にも表れへんしメールも電話もしない。心配しないで安心して。でも私はいつまでもダーの味方やから!
adieu misaki』
僕はこのメールを見て、何か違和感を感じた。
今朝送られてきたメール……何かが違った。
内容そのものにも心を打たれたが……。
「adieu misaki」って……。
今まではずっと「salut misaki」だった。
普通に「またね」とか「じゃあ」とか……フランス語の挨拶かと思って、気にも留めていなかった。
でも今回は「adieu misaki」。
よく分からなかったので、AOLサーチで調べた。
意味は――「永遠の別れ」。
僕の中で、何かが切れた。
プツンと。
今まで抑えつけていた感情、世間体、人間関係、常識、道徳観念、周りの目……そのすべてが弾け飛んだ。それと同時に横須賀での工場長の言葉が思い浮かんだ「間違った選択だけはしないようにね!」と・・・選択・・これ・・僕の美咲に対する最後の選択?
時計を見た。あ……17時前だった。
やっぱりおれ・・美咲選択する!!
でも・・16時はとっくに過ぎている!
「あいつ……! まだおるか!? ちょっと待ってくれ……!」
僕は服を着替える暇すら惜しく、ワイシャツとスラックスのまま、玄関の鍵を閉めることすら忘れて部屋を飛び出した。
駐車場へ走り込み、車へ跳び乗った。
エンジンをかけ、アクセルを限界まで踏み込む。
車が猛スピードで路上へ飛び出した瞬間、ポケットを探った。
「しまっ……!!」
電話がない。
焦りすぎて、ガラケーを机の上に忘れてきたのだ。
「クソッ!! なんでこんな時に!!」
電話をかければ、今すぐ「そこにいろ!」と言えるのに、戻っている時間なんて一秒もない。てか、なんでさっきすぐ電話せんかったんや!おれのあほ!
自分の抜け作ぶりに激しい怒りと焦りが込み上げるが、もう目の前のアスファルトを睨みつけてアクセルを踏み続けるしかなかった。
飛ばせば30分で着く。
夕暮れ時の大阪の街並みが、オレンジ色の歪んだ残像となってウィンドウの外を流れていく。
赤信号のたびにハンドルを拳で叩きつけ、前の車を睨みつけた。
脳内は狂気と切なさで破裂しそうだった。
(リノ……ごめん! ほんまにごめん!!)
一回だけで妊娠させてしまった責任。流産して傷ついたリノの顔。今日誓った教会の祭壇。健気に僕を信じてくれた純粋な笑顔……。
リノに対する申し訳なさと罪悪感で、胸が押し潰されそうになる。
(リノのお父さん、お母さん、オカン、親父、ほんまにごめんな! 俺、最低やけどやっぱり美咲じゃないとあかん……!)
頭を下げに行ってくれた親父の姿や、祝福してくれた直樹たちの顔が浮かぶ。
披露宴の会場代、みんなの顔面を潰し、世間体に泥を塗る破滅への暴走だと分かっている。しかし、もはやそんな事もうどうでもよかった。
(でも……! でも俺、やっぱり美咲じゃないと生きていかれへんねん!!)
誰に刺されようが、世界中を敵に回そうが、俺の人生には美咲が必要なんだ。
あいつが「永遠の別れ」を告げて去ってしまうなんて、想像しただけで死にたくなる。
あいつの「私と結婚してください」という悲痛な叫びを無駄にしてたまるか。
みー!!おってくれ!!頼むから、まだおってくれ!!
公園に着いたのは、17時21分。
この時間は一生忘れることはないだろう。
いつもの場所に車を強引に止め、ドアを叩きつけるように開けて飛び出した。
心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打ち、荒い息が喉を焼き焦がす。
「みー! 美咲!!」
誰もいない公園を、狂ったように走り回った。
生い茂る樹木の影、水飲み場、滑り台の裏、便所の物陰……。
どこを探しても、いくら声を張り上げても、美咲の姿はない。
「くそっ!! なんでこんな時に携帯忘れてんねん俺!! ほんまアホや……何やってんねん俺は!!」
自分の間抜けさに、怒りと情けなさで頭がどうにかなりそうだった。
もし携帯があれば、途中で一本電話を入れて「頼むから動くな」と言えたのに。
今どこにいるのか、確かめることもできたのに。
膝から崩れ落ちるように、僕は誰もいない公園の古いベンチに座り込んだ。
夕暮れ時の17時半。
オレンジ色から紫がかった群青色へと刻一刻と移り変わる空の下、春の冷ややかな夕風が、ワイシャツ姿になった僕の肌を容赦なく撫でていく。
汗ばんだ体が急速に冷えていき、歯がカチカチと音を立てて震えた。
寒さなのか、絶望なのか、自分でももう分からなかった。
目の前には、あの日と変わらない古びたブランコが、夕風に吹かれてギィ……と小さな金属音を立てて静かに揺れていた。
――美咲と最初に出会った、あの日。
まだ何者でもなかった僕たちの、すべての始まりだった場所。
ブランコに腰掛けた美咲は、無邪気で、誰も寄せ付けないような透明な綺麗さを持っていた。
そしてブランコで「チューしたい!」と叫んだのだ。
あの瞬間の美咲の声、風に跳ねた髪、眩しそうに細められた目、少し赤くなった唇。
そのすべてが、昨日のことのように鮮明に脳裏によみがえってくる。
ベンチにポツンと一人で座り込みながら、僕はあの日からの時間を噛み締め続けていた。
二人で駆け抜けた季節。部屋で重ねた温もり。バカみたいに笑い合ったくだらない会話。すれ違い、涙、そして今日という破滅的な結末。
公園の街灯がパッと明滅し、橙色の冷たい光が僕の影を長く地面に落とした。
風が吹き抜けるたびに、どこかで美咲の香水の匂いがした気がして、ハッと振り返る。
だが、そこにいるのは、ただざわめく夜の木々だけだった。
静まり返った公園で、僕はいつまでも、いつまでも、ただ一人、誰も来ないブランコを見つめながら佇んでいた。
ベンチの木目が浮き出る冷たい手触りを感じながら、僕は膝に顔を埋めた。
春の終わりの冷ややかな風が、薄着の僕の身体を容赦なく吹き抜けていく。
その寒さが、自分の愚かさをどこまでも鮮明に突きつけてくるようだった。
――「あの時、こうしていれば……」
湧き上がっては消えるタラレバの波が、僕の胸を何度も何度も抉っていく。
自分の人生を振り返れば、すべては僕自身の身勝手さと軽率さ、そして土壇場での覚悟のなさが招いた結果だった。
思い返せば、最初のかけ違いからすべては始まっていた。
美咲のお母さんに挨拶に行ったあの日。
「結婚」ではなく「お付き合いさせてください」と一言、言えていれば、美咲をあんなにも追い詰め、不安にさせることもなくこんな事にはなってなかったかもしれない。
また、別の道ができたかもしれない。
美咲との不妊に悩み、疲れ果てて互いに距離を置いてしまったあの時も、僕が意地を張らずに抱きしめていれば。
彼女が「男の人を知らんから色々経験したい」なんて嘘をついてまで僕から離れようとした時、その言葉の裏にある悲痛な叫びと愛おしさに気づいてあげていれば、また違った結果になっていたかもしれない。
それなのに僕は、傷つくのを恐れて「軽い女と思われたくない」という美咲の不器用な思いやりすら知らずに、意地を張って電話での連絡を絶った。
もし、あの時電話で連絡を取り合っていれば?おれがあんな「電話してくるような軽い女はいらん」とその場で思いついた適当な事を言ってなかったら?
そもそも、こうなることはなかったのではないか。
そして、リノとのあの運命の夜の軽率な行動がなければ、また違った人生だったかもしれない。そもそも、このドライビングスクール事業に関わっていなければ・・。
なぜ僕は、今まで毎日パソコンのメールを確認しなかったのか。
ちゃんと確認していれば、これもまた違ったことになっていたかもしれない。
今日も、もし朝にこのメールを見ていれば、僕の人生は変わっていただろう。
間違いなく結婚式なんて出ることなく、僕は美咲の元に行っていた。
「adieu misaki」のメールを見た瞬間、焦りの中で狂いながらも、なぜその場で電話をしなかったのか。
その時電話をしていれば、間に合ったのではないか・・。
あの時、もし携帯を持って出ていれば、車を飛ばしながら電話をかけて気持ちを伝えることもできたのではないか・・・。
そうすれば、美咲は今もこのブランコで、寒さに震えながら僕を待っていてくれたのかもしれない。
すべては、僕の過ちだ。
自分の欲望に素直になれず、大切な人のSOSに気づけず、ここぞという時に間抜けで、何一つ守り切ることができなかった。
公園の街灯が、誰もいないブランコを寂しく照らしている。
あの日、この場所で「チューしたい!」と笑った美咲の声は、もうどこにも届かない。
取り返しのつかない過去の後悔と、誰にも届かない愛おしさを抱えたまま、僕は暗闇に包まれた公園で、ただ静かに涙を流し続けることしかできなかった。
僕は今、何をしているんだろう……。
目の前には、公園のブランコがあった。
白いシャツ一枚に、黒のスーツパンツ。
公園には、もう子供の姿はなかった。
さっきまで誰かが遊んでいたのだろうか。砂場には小さな足跡が残り、滑り台の階段の隅には、乾いた葉っぱが一枚引っかかっていた。
いつもと変わらない街の音が、遠くから聞こえてくる。
どこかの家から夕食の匂いが漂ってきそうな、ありふれた夕暮れ。
空は少しずつ色を変え、木々の隙間から差し込む光が、地面に長い影を落としていた。
風が吹いた。
ブランコの鎖が、かすかに音を立てた。
僕は、ただそこに佇んでいた。
何をするでもなく、どこへ行くでもなく。
僕は……あの時……。
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
何を思い出しかけたのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、胸の奥に何かが引っかかっていた。
ずっと前から、そこにあったような気もする。
ついさっき、気づいたような気もする。
けれど、それが何なのか、うまく言葉にできなかった。
僕はもう一度、ブランコを見た。
そして、ゆっくりと視線を落とした。
……帰ろうか。
そう思ったはずなのに、足は動かなかった。
まだ……。
今は、まだ……。ただ、ひたすら美咲を待ち続けた・・。
この日以来、美咲からメールも電話も一切来なかった。
あの日、部屋に帰り、美咲に電話したが、出ることはなかった。
何回電話しても、メールしても、返ってくることはなかった。
そのうち、「おかけになった電話番号は使われておりません」とアナウンスが流れるようになった。
メールすら届かなくなった。
あの日、僕が公園に行ったことは誰も知らない。
あれから時は流れ、5年、10年、15年、そして20年以上が経った今でも、私は美咲に逢いたいと思う。
こんなことを言えば、リノに怒られるかもしれない。けれど、変な意味ではない。ただ、もう一度、美咲と話がしたいのだ。
今の私は幸せだ。リノと結婚し、3人の子供にも恵まれた。私にとって、かけがえのない宝物だ。リノは本当に良くできた嫁で、あのオカンとも仲がいい。
あの公園で出会った由奈ちゃんとも、今なお連絡を取り合っている。もう長い付き合いだ。由奈ちゃんも結婚し、今は地方で暮らしている。たまに電話で話すこともある。LINEでいつでも連絡が取れるなんて、便利な時代になったものだ。
由奈ちゃんから聞いた話では、美咲も結婚し、2人の子供に恵まれ、幸せに暮らしているらしい。
人生には、誰にでも岐路がある。そのときに選んだ道が正しかったのかどうかなんて、その瞬間には誰にもわからない。何年も、何十年も経ってから、ようやく気づくこともある。
私も今、幸せだ。
それでも、時折、考えることがある。
もし、あの日、違う選択をしていたら――。
けれど、今さら過去を変えることはできない。あの日に戻ることも、もう一度やり直すこともできない。
そして、ようやく気づいた。
私が逢いたいのは、今の美咲ではないのかもしれない。
あの頃の、笑って、怒って、泣いて……誰よりも私を愛してくれた、あの頃の美咲。
もう二度と戻れない、あの時間。
私が本当に逢いたいのは、美咲ではなく、美咲と過ごした、あの頃の自分なのかもしれない。
そう・・あの時のように。
終
## あとがき
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
この物語は、実際に経験した出来事をもとに描いたものです。
笑ってしまうような出来事もあれば、思い出すだけで胸が苦しくなることもあります。あの頃は何気なく過ごしていた時間が、長い年月を経た今、かけがえのないものだったと気づくこともあります。
人生は、一度きりです。
どれだけ後悔しても、過ぎ去った時間を取り戻すことはできません。あの日、別の選択をしていたら。あのとき、もう一歩踏み出していたら。そんなことを考える夜が、誰にでもあるのかもしれません。
けれど、過去を悔やむことだけが、人生ではないと思います。
出会えたこと。笑い合えたこと。誰かを本気で好きになれたこと。そして、思いどおりにならなかったことさえも、今の自分につながっている。
この物語を書きながら、私自身も、忘れたつもりでいた記憶と何度も向き合いました。
もし、この作品を読んで、あなた自身の大切な人や、懐かしい日々を思い出していただけたなら。それだけで、この物語を書いた意味があったと思います。
人は誰しも、心の中に、もう戻ることのできない時間を抱えて生きています。
それでも、記憶の中でなら、もう一度会える人がいる。
もう一度、笑い合える日がある。
そして、もう一度だけ、あの頃に戻れたならと願う瞬間がある。
最後に、もう一度だけ、あの言葉を。
**あの時のように……。**




