最終話
インクの匂いは、夜の底に溜まる澱に似ている。
マリアは真夜中の工房で、一人、最上質の羊皮紙を広げていた。
街の隅にあるこの工房には、今日もいくつかの「未完成の物語」が持ち込まれた。
昼間、あの二人の少年が再びやってきた。川原で見つけた、今度こそ本物の「竜の涙」だと言い張る、歪な形の水晶を持って。
「マリアさん、これに『永遠に失くさない魔法』をかけてよ」
赤髪の少年が鼻を鳴らして言った。マリアは鼻先で笑い、「そんな巻物を書いたら、あんたたちは新しい宝物を探す楽しさを一生失うことになるわ」と、飴玉を二つ握らせて追い返した。
少年たちは笑いながら去っていった。その笑い声の残響が、今の工房には心地よく沈んでいる。
だが、マリアの心には、別の沈黙が横たわっていた。
棚の奥に仕舞い込まれた、何本もの書き損じの巻物。
あるものは、燃えるような怒りに任せて書き殴られた復讐の物語。
あるものは、あまりに多くの言葉を詰め込みすぎて、魔力が自壊してしまった失敗作。
彼女は、かつての自分を思い出していた。ただ多くの人に認められたくて、誰よりも速く、誰よりも派手な術式を書こうとしていた頃。
インクの染みが指から消える間もなく書き続け、結果として残ったのは、誰の心も温めない冷たい数字のような成果だけだった。
「……さんざんな結果ね」
独り言が、暗い工房に響く。
かつて自分が生み出した『復讐の物語』も、結局は誰を救うこともなかった。自分の分身のように思えた主人公たちは、最後には行き場を失い、記憶の隅で埃を被っている。その事実が、時折、冷たいナイフのように彼女の持久力を削っていく。
マリアは羽ペンを手に取った。
今夜、彼女が書こうとしているのは、自分自身に宛てた最後の巻物だ。
筆先をインクに浸す。
彼女は、これまでの旅路を振り返る。
悪役になろうとしてなれなかった優しい令嬢。
復讐に燃えながら、結局は自らの重荷に潰れそうになった女。
そして、たった二人の少年の、魅惑のシチューの匂いなど気にしない、友情。
それらすべてが、今のマリアのペン先には宿っていた。
彼女は書き始めた。
それは、英雄を称える叙事詩でも、誰かを呪う禁忌の術式でもない。
『――物語は、読まれた数で完成するのではない。
それは、書かれた瞬間に、書き手の魂から切り離された一粒の種火となる。』
一文字書くたびに、指先が熱を帯びる。
マリアは気づいていた。
たとえ『1』という数字であっても、その向こう側で、誰かがこの言葉に触れ、一瞬だけ孤独を忘れたのなら、それは一万の喝采にも勝る幸せなのだと。
かつて書いた物語も、無駄ではなかった。
あの時、怒りの中で震えながら書いた一行があったからこそ、今の自分は「和解」の尊さを知っている。
マリアは、羊皮紙の余白に、さらさらと新しい術式を編み込んでいく。
それは、「終わらせるための魔法」であり、「始めるための予兆」。
ふと、マリアの脳裏に新しい情景が浮かんだ。
不遇な結婚生活を、強固な意志で叩き壊し、自らの足で歩き出す一人の女性。
誰かに「幸せにしてほしい」と願うのではなく、「私はもう、一人でも幸せになれる。だから、あなたとの縁を切ってあげる」と、微笑んで離縁状を叩きつける……。
「……面白いじゃない」
マリアの口角が、わずかに上がった。
新しいインクの匂いがした。それは、潮風と混じり合った、街の夜明けの匂いだった。
マリアは、書きかけの羊皮紙を最後まで埋めなかった。
あえて大きな余白を残したまま、彼女は羽ペンを置いた。
巻物書きにとって、余白とは「可能性」だ。
いつかまた、誰かがこの余白を埋めるかもしれない。あるいは、自分自身が、全く違うペンで、全く違う物語を書き込むかもしれない。
書き終えないことが、この物語の、もっとも贅沢な終わり方だった。
マリアは立ち上がり、重い閂を外して、工房の扉を開けた。
東の空が、淡いシチューのような色に染まり始めている。
「……さあ、朝ね」
彼女は看板を裏返した。
そこには「休業」とも「廃業」とも書かれていない。
ただ、新しい一日を迎えるための、真っ白な空白があるだけだった。
彼女は工房の奥へ戻ると、今日のために用意した「手間のかかる料理」の火を止めた。
立ち上る湯気の中に、昨日の虚しさはもうどこにもなかった。
マリアは椅子に深く腰掛け、窓の外を見つめる。
次に彼女がペンを取る時、その物語の名前はきっと、『幸せ』という言葉から始まるはずだ。
彼女はマリア。ここは工房『巻物書きのマリア』。




