322 狂血の解放
【視点:カルア】
目の前に広がる光景は──控えめに言って、常識ではありえない光景。
まるで、天から見えない巨大な拳が叩きつけられ、すべてを無理やり押し潰しているかのようだ。
「こりゃ驚いた。帝国の重力魔法ってやつだね」
「……重力?」
アリスの呟きに、思わず聞き返す。
「みんな、絶対にあの範囲に入っちゃいけないよ! あいつらみたいにペシャンコに潰れるからね!」
アリスの鋭い声が後方へ飛ぶ。
トビーたちが、びくりと肩を跳ねさせた。
「アリス。その重力ってのは何なの?」
問いかけると、彼女はやれやれと軽く肩をすくめる。
「この世界の全てが引き合う力を何十倍にも増幅して、上から叩きつける魔法ってとこかな」
──なんだそれは。
理不尽にもほどがある。
帝国の連中は、そんなバカげた魔術を平然と操るというのか。
「……とはいえ」
アリスの声が、わずかに低くなる。
「あれだけの力をもってしても、まだ動いてるみたいだけどね」
視線の先。
すり鉢状に陥没した地面の底で──。
無残に押し潰され、原形すら失ったはずの巨体が、なおも執念深く蠢いていた。
それはまるで、死という概念そのものを拒絶するかのように。
……気持ち悪い。
私は息をひとつ、深く吐き出す。
「ホッジ! 例の魔法具を使う。飛翔、そして霧散の軌道計算は問題ない?」
『げっ……それってまさか、この間、抜き取ってたアレですか?』
通信機越しに、ホッジがドン引きしたような声を上げる。
「そう。これよ」
私は懐から円柱形の小瓶を取り出し、遠くの尖塔からも見えるように、ひょいと肩の上に掲げた。
その小瓶の中でタプタプと揺れる、赤黒い液体。
──そう。私の血だ。
ホッジに用意させた小瓶には、血液を極限まで圧縮し、劣化を防ぐ『封印紙』が貼られている。
さらにホッジの術式で、投擲後の軌道制御まで可能にしてあるのだ。
『マジで使うんすか……? あれ、ぶっ倒れかけながら必死に集めてたやつですよね』
「今使わなくて、いつ使うのよ」
即答だ。
──私の守護精霊は『サングイン・スピリット』。
血を浄化し、操る力。純粋な戦闘向きじゃない、優しい精霊だ。
それゆえ、血がなければ何もできない。
以前、“抜け殻”と戦ったときにも感じていた無力感。
血を持たない敵を前にした時の、自分の加護の絶対的な限界。
仲間が、私の目の前で引き裂かれていたら?
……あんな思いは、二度と御免だ。
つまり、今までのやり方じゃ届かない。
だったら、どうする?
答えは一つしかない。その場に血が無いなら──用意しておけばいい。
そして──今回の敵も、“血を持たない”バケモノだ。
こんな日のために用意しておいた奥の手。
自分の血で、戦場そのものを塗り替える。
自分の命を削ってでも。
仲間を、守るために。
『了解。じゃあ、封印紙を剥がしたら、“五・五・六・八・六・九・三”と唱えてください』
ペリッ、と封印陣の紙を剥がす。
小瓶が内側から淡い緑色の光を放ち始めた。
「五、五、六──八、六、九、三!」
呪文の代わりに指定された数字の羅列を叫び、小瓶を思い切り空へ放る。
放物線を描き、夜空へ。
そして最高到達点で、不自然に回転し──。
カチンッ。
何かに弾かれたように、空中で砕け散った。
次の瞬間。
解き放たれた極限濃縮の血が、霧となって爆発的に広がる。
真紅の霧。
それは瞬く間に天を覆い──戦場全体を包み込む巨大な“血の天蓋”となった。
──サングイン……力を貸して。
心の中で、静かに呼びかける。
その声に応えるように、天蓋を形作っていた紅き霧が波打ち──形を変えた。
無数の『刃』へ。
細かく震え、チリチリと空気を裂く、血刃。
その一つ一つが、命を刈り取る凶器。
……いける。
「──斬ッ!!」
振り下ろした腕に呼応し、頭上の真紅の刃が一斉に牙を剥いた。
重力に縛られたバケモノたちへ向けて。
逃げ場のない、死の雨が降り注ぐ。
ズシャシャシャシャシャッ!!
肉が裂け、骨が砕ける音が戦場に連なる。
だが、終わらない。
一度獲物を貫き切り刻んだ刃は、そのまま空へ舞い上がり──再び鋭さを増して、降り注ぐ。
何度でも。何度でも。
逃がさない。
ルールの魔法が地面に縫い止め、私の精霊が切り刻む。
再生する暇すら与えず、ただひたすらに。
肉は砕かれ、削られ、粉になる。
──これが、私の領域だ。
そう確信した、その瞬間だった。
ぐらり、と。
視界が、わずかに揺れた。
──っ。
思わず膝が折れかけるのを、奥歯を噛み締めて堪える。
大量の血を操る。
それは、自分の精神と生命力を一度に削っていく行為だ。
分かっていたことだ。
これは、自分の命を削る力だと。
それでも──。
……まだ、倒れるわけにはいかない。
指先が、じわりと冷えていく。
けれど、天蓋はまだ維持できている。
なら、大丈夫。
まだ──戦える。
私は、何事もなかったかのように腕を振り上げる。
その裏で、静かに削れていく命の灯から、目を逸らしながら。
▽▽▽
【視点:ルール・シモン】
双眼鏡の向こうで、狂ったような光景が広がっていた。
真っ赤な血が降り注ぎ、化け物たちが逃げ場のない痛みに絶叫を上げている。
「あれって……血の雨ですか?」
私の横で、タイルが眼鏡の奥の目を輝かせながらぽつりと呟いた。
「副隊の重力魔法もたいがいでしたけど、あれ……エグくないですか? なんか、見てるだけでゾクゾクしてきますよ」
「お前キモいんだよ」
私は反射的に、タイルの後頭部をスパーンとひっぱたいていた。
それでもタイルはニヤニヤと笑いながら、眼前で繰り広げられる惨劇を見つめ続けている。
その間にも。
チリチリと空気を裂くような甲高い音を立てて、血の刃が繰り返し降り注いでいる。
私がかけた重力で地面に縫い付けられたバケモノたちが、容赦のないループ斬撃によって、文字通り挽肉へとすり潰されていく。
──チッ。
私は双眼鏡を下ろし、思わず舌打ちをこぼした。
「なんだよ、まったく。涼しい顔して平然ととんでもねえことやりやがる」
口では悪態をつきながらも。
私の口元は、勝手にだらしなく緩んでいた。
「……まったく。嫌いじゃないね」




