最も都合のよい世界
とりあえず託されてしまった手前、断る訳にも行かない。というより、断りたくても返却方法が分からない。勝手に送りつけておいて、クーリングオフには非対応のようだ。
仕方がないので、諦め半分に晴海は物置を開く。先程と同じ体勢で青年が転がっていた。どのように紙を取り出したのか気にならないでもなかったが、今は置いておく。
本当のところ、この段階でもまだ晴海は青年の出自について半信半疑だった。だが、それも仕方がない。大多数の人間は異世界などと言われてはいそうですか、と受け入れられるものでもない。
青年は何らかの犯罪者だという割に、晴海が犯罪者に対して持っているような粗暴な様子は見られなかった。だが、どちらにしてもあまりお近づきになりたくはない。
かといってこのまま放っておいて餓死でもされたら晴海の責任になってしまう。現代日本は法による秩序の国なのだ。だから七年間失踪すれば死亡擬制が出来るようになるし、人を殺せば殺人罪に問われる。それがどこの誰か分からない人間であろうとも。
後ろ手に縛られた腕の紐を解けば、痛々しい鬱血の跡が晴海の目に入る。余程きつく紐を結ばれていたのは、晴海にも直ぐに分かった。青年は晴海が紐を解いてもおとなしくしている。
改めて晴海は青年を見た。黒髪黒目で典型的な東アジア系の顔立ち、そんな顔立ちの人物が革命のあるような国で暮らしていた、というのは少し不思議な気がする。ただの日本人にしか見えない。異世界というのが正しければ、だからこそこの日本を選んで送られてきたのだと納得できる容姿だった。
年の頃は晴海よりもいくらか上だ。二十は超えているだろう、と当たりをつける。雰囲気は寡黙といったところ。別にいじめられているわけでもなんでもないのだが、教室に一人きりでいる男子、といった感じだろうか。
その様子を見ながら晴海はふと思いついた。
青年は随分と大人しく、間違っても凶悪犯罪者の類には見えない。そもそも犯罪者といっても種類もそれなりにある。きっと過失致死だとかそういう、本人がしようとしてした罪ではないのかもしれない。執行猶予がつくあの罪だ。過失致死についてはそのくらいしか知らないが、だとしたらそこまで怖い人間ではないのかもしれない。
紐を解いたところで未だ何も口にしない相手に、晴海は自ら言葉を発した。
「私は晴海。性が内藤で名前が晴海よ。あなたの名前は?」
問いかけてから晴海は、それが数日ぶりにする他人との会話であることに気がついた。家の中に引きこもっていたものだから、つい誰とも話さないで済んでしまったのだ。
そのことに浮かれていた晴海は、問いかけてから、は、と気がついた。手紙は晴海の嫁ない言語で書かれていた。ということは、話す言葉自体も理解できないものである可能性が高い。だとしたら、今の晴海の問いかけは理解されなかったかもしれない。
しかし晴海の心配は杞憂で済んだ。青年は晴海の知っている言葉で答えた。
「ロト」
非常にシンプルな二文字だけを口にしてまた沈黙を守る青年に、晴海はロト、と口の中で名前を呟く。最近の日本人の名前は理解しがたい名前であることが多いのでもしかするといるかもしれないが、ロト、という響きはあまり日本語に即さない気がする。ならば異世界云々はともかく晴海が彼の面倒を見なければならないのはやはり間違いがないようだ。とはいえ、どうやって?
そこで不意に手紙が話していたことを思い出した。
――あなたのいるその世界が、その男が暮らすのに最も都合のよい世界、場所となっているはずです。
晴海はふとその回答に気がついた。なるほど、そうだとしたら確かに青年にとってこの場所は青年が暮らすのに最も都合のよい場所であるといえるかもしれなかった。
だから青年は日本の、この晴海の家に現れたのだ。
だが、正解へと思い至ったのはいいが、晴海はそれを実行するのに非常に躊躇いがあった。それはそれまでの晴海の全てを否定するようなものであるように思えたし、そうでなくても青年ロトに対してそこまでの義理はなかった。
ロトは晴海をじ、と見つめている。それに晴海は居心地の悪さを覚えた。今晴海がロトをどうすべきか思案しているのを透かして見極めてしまうのではないか、などと馬鹿げたことすら考えてしまう。沈黙が痛い、と晴海は思った。
晴海のそういった葛藤を悟ったのか、ロトは立ち上がり自分から口を開いた。
「俺は邪魔だろうから出ていく」
「出、出ていかないで!」
続いた言葉に、晴海は反射的に首をぶんぶん、と振っていた。このままロトを追い出しては、晴海はその後自分がいかに心の狭い人間であるか責め立てながら生きなければならない。
日本で戸籍のない人間が生きていくのは簡単なことではないのだ。晴海は、ロトが生きていく最良の手段を知っていながら自らのエゴの為に隠し続けることが出来るほど人でなしではなかった。寧ろお人好し、というより愚か、とすらいえる類の人間だった。
例えば、まるで目の前に結婚してくれなければ死ぬ、と言い出す見知らぬ男がいたとしよう。大抵の人はそれを狂言だと思い、見て見ぬ振りをするだろう。そんな中で晴海は渋々ながらも恐らく相手の提案した結婚を受け入れてしまう。
見知らぬ人間なのだから捨て置けばいいのに、と言われるだろうし自分でもそう思いながら、それでも晴海はきっとその男すら見捨てられない。晴海が亮人に執着するのはそういうところもあるのかもしれなかった。
そして、今その愚かさはロトに対しても適用されようとしている。
「その、ロトさん、」
そこまで言ってから、晴海は何と言って自らの主張を口にすればいいのか分からなくなった。頭で思い描く分には非常に簡単で単純なことだったのだが、それを言葉にするのがこれほどまでに大変だとは。
ロトは晴海の言葉を待っているようであったが、だからといって晴海の言葉に期待している訳でもなく、ただすることがないから一応聞く、といったようだった。そのロトに果たしてどのように日本の制度と、ロトがこの国で生きていくのに必要なことを説明すればいいのか。晴海は必死に頭を働かせる。
やがて晴海の口から出てきたのは、
「と、とりあえず朝ごはん食べる?」
そんな言葉だった。




