物置にご注意
皿を洗い終えた晴海は、さて何をしようか、と考え込んだ。春休みになってから時間があるせいで、昨日は布団を干してしまったし、一昨日は家中の大掃除をしてしまった。今日は買い物をしようか、いや家の中で出来ることは何かないか、などと候補をあげていく。しかしいくら考えても満足のいく候補は思いつかない。
結局何をするにもまずは掃除をしようということで、晴海は掃除機の入っている物置を開けた。開けた瞬間、秀麗な顔立ちの青年と目があった。中に座っており、手を後ろ手に縛られている。その表情は全く無表情だ。一瞬人形かと思うほどだったが、人形ならば手足を縛る必要はないだろう。
「……」
「……」
互いに無言だった。五秒くらいはそのまま見つめあっていたかもしれない。そのままぱたんと物置の扉を閉める。それから晴海はさて、と前置きをして思考を始めた。
今のは一体何だったのだろうか。晴海は昨日も自宅の掃除をした。そのときには誰もいなかったはずだった。晴海だって流石に人間がいたら気がついている。だから青年が現れたのは昨日の掃除より後の時間だ。だが、昨日晴海は一度も家を出ていないのだが、果たしてそんな晴海に気づかれずに物置の中に潜むことが出来るものだろうか。
それよりも、潜むことが出来たとしてもあんな風に後ろ手に縛るのは一人では不可能だから、もう一人人間がこの家の中にいるということでは――……。
考えているうちに恐ろしくなって晴海は物置の前に座り込んだ。正面の扉の向こうにいる青年のことはひとまず置いておく。後ろ手に縛られていたのだから、何が出来る訳でもあるまい。
そんなことを思っていると、扉の下から一枚の紙がすす、と出てきた。十中八九青年が晴海に充てたものだ。文面を確かめるのも怖いが、見ないのも怖いのでぱ、と紙を表に返す。そうすると、見たことのない不思議な記号が紙の表面に羅列していた。
「?」
その変わった記号の羅列は、しかし晴海の視界に入るや否や、意味のある『音』として晴海の『脳内』に『再生』された。文字を見たところで音になるはずがないのにだ。
『突然驚かせてしまって申し訳ありません。これは文面の内容をあなたの理解できる言語へと変換して再生しています』
相手の言語に合わせて流す音声を変えるとは、何とハイテクなのだろう。晴海の現実を認めたくない意識がそう茶化す。どう見てもただの紙から音声が流れてくる訳はないのだが、そんな風に言葉を挟んでいないと落ち着かない。
そんな間にも声は淡々と言葉を紡ぐ。男性の声だ。
『我々は貴方がたからすれば異世界の者です』
異世界とはまた大きく出たものだ。違う世界、そんなものがあったらいいのに。晴海は思いながら紙を見つめる。そういえば紙の手触りが悪い。羊皮紙、という奴だろうか。晴海は、羊皮紙は寿命が長いため、外交文書に用いられたりすることもあるのだ、とどこかで聞いたことを不意に思い出した。
『我々は或る国の革命を行いました。その際捕らえた罪人への刑の執行として、流刑を決行しました。それが今回あなたの目前にいる男がそこにいる訳です』
流刑とは、かの有名なナポレオンもされたのだというあの流刑だろうか。他に流刑があるとも聞かないのだが、晴海はそんな風に疑問符を浮かべる。それよりも、さてこの手紙は何と言っただろうか。
――それが今回あなたの目前にいる男がそこにいる訳です。
目前にいる男、というのはほぼ確実に物置に入っている男のことだろう。つまり、青年は何らかの罪で流刑に処された男である、と。そうであれば縛られたままの腕にも説明がつくというものだ。尤も、晴海の家にいるもう一人の侵入者によって捕獲された侵入者という方が遥かに納得のいく話ではあったが。
かつてナポレオンが流刑に処されたという話を聞いたときに、晴海はナポレオンが可哀想だ、と思ったが、今はその考えを撤回したい気持ちでいっぱいだった。流刑地として選ばれた場所に暮らす人々の方がもっと可哀想だ。わざわざ異世界から以て一体何をもって流刑地と選ばれたというのか。その上、犯罪者を送られるだとか、最上級の迷惑行為である。そもそもにして、そんな犯罪者の傍にいては晴海の命が危険に晒されるのはではないだろうか。
『あなたのいるその世界が、その男が暮らすのに最も都合のよい世界、場所となっているはずです。済みませんがその男の面倒を見て下さい』
そんな言葉で締められているその手紙は、それ以上いくら晴海が見詰めてもうんともすんとも言葉を発してはくれなかった。青年が暮らすのにこの場所が最も都合がいい、というのがどういうことなのか、晴海にはさっぱり分からなかった。
羊皮紙だとか革命だとか流刑だとか、どうも中世のような世界であるらしい彼らにはない概念だろうが、日本には戸籍というものがある。突然降ってわいた存在が簡単に生きられるような制度はしていないのだから。ただ単に匿うくらいなら出来そうだが、住所も名前も身元保証人もない人をどうやって受け入れればいいのだろう。働いたことがあればまた分かることがあるのかもしれないが、アルバイト経験すらない晴海にはさっぱりだった。
ただ家に置いておくだけにしろ、軟禁状態にする訳にもいかない。近所の人間と鉢合わせたときにどこの誰ともはっきりしない人間を家に上げている、などと噂されてしまえば晴海はこの地域で生きていけなくなる。そういう噂はそのうちに学校にも届いてしまうだろうし、晴海の親の耳にも不思議なことにどこからともなく入り込むに違いないからだ。そしてそうなった時点で、周囲の大人からの干渉が起こるに違いなかった。そんな面倒に巻き込まれたくなどない。
仮に家から青年を出さない、という選択をするとしても、家には必ず訪問者が来る。そのときに何かの弾みに青年を見られてしまうかもしれない。きっと翌日には新聞に『女子高校生、年上の男性を自宅に軟禁』などという見出しで載ってしまうだろう。もしかしたら一面デビューかもしれない。考えるだけで恐ろしいその想像にぶるりと身ぶるいすると、晴海は頭を振ってその考えを追い出した。