第1話 深夜の記録局と、一杯の紅茶
王宮の東棟、魔導省記録局の窓には、まだ明かりが灯っていた。
時計の針は、もうすぐ日付が変わろうとしている。
こんな時間まで残っている人間は、そう多くない。まして記録局のような地味な部署なら、なおさらだ。
その中で、ひとりだけ机に向かっているのが、リディア・ヴァンスだった。
二十二歳。記録局に勤めて三年になる文官である。
魔導契約や結界、魔導具に関する記録を整理し、その内容に不備がないかを確認する。それが彼女の主な仕事だ。
派手さはない。
けれど、ひとつでも記録を間違えれば、後々大きな問題につながることもある。地味だからこそ、正確さが求められる仕事だった。
リディアは、こうした仕事が嫌いではなかった。
むしろ、机の上に未処理の書類が残っていると落ち着かない。明日の朝でもいい仕事なら、今のうちに片づけてしまいたくなる。
仕事をしている間は、余計なことを考えずに済むというのもあった。
かつて子爵位を持っていたヴァンス家は、今ではすっかり没落している。華やかな社交界とは縁遠い暮らしの中で育ったリディアにとって、自分の力で得たこの仕事は、数少ない誇りのひとつだった。
「……よし。これで今日の分は終わり」
最後の書類に処理済みの印をつけ、リディアはようやくペンを置いた。
背もたれに身体を預け、凝り固まった肩をゆっくり回す。
その拍子に、耳元で小さく髪飾りが揺れた。
亡くなった祖母の形見だ。
飾り気のない、少し古びた髪飾り。母には「もっと華やかなものを着ければいいのに」と言われるけれど、これだけは外す気になれなかった。
指先で髪飾りに触れてから、リディアは机の上を片づけ始める。
そのときだった。
「……あれ?」
机の端に、一杯の紅茶が置かれていることに気づいた。
まだ湯気が立っていた。
ふわりと漂う香りに、リディアは目を瞬く。
いつも自分が好んで飲んでいる茶葉だった。
「誰が置いてくれたのかしら……」
記録局の同僚は、とっくに帰っている。
けれど最近、こうして紅茶が置かれていることが増えていた。
気づいたときには、いつの間にか机の上にある。
お礼を言おうにも、誰が置いてくれたのかはわからない。毎回、名乗らないままいなくなってしまうのだ。
「……ありがたいけど、変なのよね」
首を傾げながらも、リディアはカップを手に取った。
ひと口飲む。
ほんのりとした甘さと温かさが、疲れた身体にじんわり染みていった。
「……おいしい」
思わず頬が緩む。
今度こそ帰ろう。
そう思って書類をまとめかけたところで、机の端に一枚だけ残っている紙に気づいた。
「あ……」
夕方遅くに届いたものを、後回しにしたまま忘れていたらしい。
リディアは小さく息を吐いた。
「これだけ確認してからにしよう」
一枚だけ。
それなら、そう時間はかからない。
そう自分に言い聞かせて、椅子に座り直した。
書類は、とある伯爵家から提出された土地契約書だった。
魔導文字によって結界の範囲と権利者を定めた、ごく一般的な契約書。
少なくとも、最初に見たときにはそう思った。
「……ん?」
リディアの目が、文字の一部で止まった。
ほんのわずかな歪み。
本来なら滑らかに流れるはずの魔紋が、途中で引っかかっている。
リディアは眉を寄せた。
魔導契約を三年も見ていれば、こうした小さな違和感にも気づくようになる。
単なる書き損じなら、魔力の流れは途切れない。
けれど、この文字は違った。
まるで、一度刻まれた魔紋の上から、別の魔力を重ねたような跡がある。
「……これ、誰かが触ってる?」
リディアは書類を持ち上げ、照明の角度を変えてみた。
見間違いではない。
念のため、過去の記録を引っ張り出す。
同じ術者が作成した契約書を何枚か並べ、魔紋の流れを見比べていく。
やはり、おかしい。
偶然とは思えない程度には、はっきりとした違和感だった。
偽造。
あるいは、改ざん。
その可能性が頭をよぎる。
「……明日、局長に見てもらったほうがいいかも」
確証はない。
だからこそ、今の段階で騒ぎにするつもりはなかった。
書類をそっと机に戻し、リディアはもう一度、歪んだ魔紋を見つめる。
もし本当に改ざんされているのなら、見過ごすわけにはいかない。
そう思った、そのときだった。
廊下から、硬い足音が聞こえてきた。
コツ、コツ。
一定の間隔で、こちらへ近づいてくる。
こんな時間に誰だろう。
リディアが顔を上げる。
「まだ、残っていたのか」
低く落ち着いた声が、静かな室内に響いた。
「あ……」
戸口に立っていた人物を見て、リディアは思わず背筋を伸ばした。
近衛騎士団第二部隊隊長、レイフォード・アシュグレイ。
二十六歳という若さで隊長の地位に就いた、王宮でも指折りの実力者だ。
感情を表に出さず、誰に対しても一定の距離を置く。その冷ややかな態度から、王宮ではひそかに「氷の騎士」と呼ばれている。
銀色の髪に、灰青の瞳。
近衛騎士の制服を隙なく身につけた姿は、夜の王宮にいると一層近寄りがたく見えた。
リディアとは、これまで何度か廊下ですれ違ったことがある程度だ。
「……はい。もう少しで終わります」
「仕事か」
「はい。確認したい書類が一枚だけ残っていて」
レイフォードの視線が、机の上へ落ちる。
その目が、リディアの手元にある契約書で止まった。
「何かあったのか」
「え?」
「難しい顔をしている」
リディアは一瞬、答えるべきか迷った。
まだ確証はない。
それに、ただの見間違いだった場合、余計な騒ぎにしてしまう。
「……まだ確認中なので。確かなことは何も」
「そうか」
レイフォードは、それ以上聞かなかった。
ただ、契約書へ向けられた視線だけが、ほんのわずかに鋭くなる。
「遅くまで残る必要はない」
「はい。でも、あと少しなので」
「……そうか」
短い返事。
それだけだった。
レイフォードは踵を返す。
けれど、戸口まで行ったところで、ふと足を止めた。
視線が、机の端へ向く。
ほんの一瞬。その目が、カップに留まった。
そしてレイフォードは、何も言わずに部屋を出ていった。
「……?」
何だったのだろう。
リディアは首を傾げたが、すぐに契約書へ視線を戻した。
今はそれより、こちらのほうが気になる。
もう一度、魔紋を確認する。
やはり、おかしい。
「……念のため、明日もう一度確認してみよう」
そう呟いて、リディアは書類を封筒へ戻した。
残っていた紅茶を、最後にもう一口飲む。
すっかり冷めてしまったと思っていたのに、不思議とまだ温かかった。
◆
記録局を出たレイフォードは、夜の回廊を歩いていた。
東棟の巡回は、まだ終わっていない。
いつもと変わらない夜間警備。
そう思っていたはずなのに、なぜか先ほどの光景が頭に残っていた。
ひとりで残業していた文官。
机の上に広げられた契約書。
レイフォードは、わずかに眉を寄せた。
「……ヴァンス、か」
小さく呟く。
その名を口にした瞬間、胸の奥に、ごく淡い違和感が生まれた。
どこかで聞いたことがあるような。
遠い記憶の端に触れたような。
けれど、思い出せない。
「……気のせいか」
それ以上考えることはせず、レイフォードは再び歩き出した。
夜の王宮には、足音だけが静かに響いていた。




