第七十一話 終わりを望んで
今から十年ほど前のことだ。
ソルノット北西部の道端、一人の子供が捨てられた。
大して珍しくもない話。
望まない妊娠の末に、望まれない出産が行われ、望まれない子育てまでは完遂されなかった。
白い髪の少年だった。
人より少しだけ目が良かった彼は、盗みを働きながら、どうにかこうにか生き延びていた。
――――まあ、こいつで良いか
その目の良さを、銀髪の呪術師に見初められるまでは。
もしも、彼が平均以下の視力であったなら、平凡な捨て子として人生を終えていただろう。
不運か幸運か、少年は悪魔に出会ってしまう。
ドゥミゼルがその白い手を以て、彼の瞼に触れていた。
***
元ゴートウィスト家本邸。
客間から出た俺達は、当てもなく屋敷の中を散策していた。
「大丈夫? ツウィグ」
廊下を歩きながら、ふとルーアに問いかけられた。
「……何がだよ」
誤魔化すように言った。
何となく、彼女に自分の弱さを見透かされるのは嫌だった。
弱者同士で傷を舐め合っているようで、惨めな気分になるから。
「怯えてたじゃん」
「お前には言われたくない」
「私よりも怯えてたよ」
「似たようなもんだろ」
「嘘。絶対ツウィグの方が怖がってたよ。だって、ツウィグは――――」
「ルーア」
その先の言葉は、言わせたくなかった。
俺はその声を遮るように、彼女の名前を呼んだ。
「良いから」
良いんだ。
俺がボスとシャルナに怯えていることなんて、一々言われなくたって分かっている。
たまに、ルーアが羨ましくなる。
俺もシャルナに憧れを抱けるような馬鹿だったら、もう少し楽に生きられたんだろうか。
いや、やめよう。
そんな妄想はするだけ無駄だ。
俺の背筋に張り付いたトラウマじみた恐怖は、一生かかっても拭えるはずはない。
あの銀髪の呪術師を前にする度に、青髪の竜人に会う度に、必死に動悸を抑えている。
「もう、良いんだよ」
おもむろに、右目の瞼に触れてみた。
軽く瞼を撫でただけで、キリキリと痛むような感じがする。
それは、この右眼が後天的に移植されたものである証明。
眼窩に嵌められた灰緑色の眼球は、体内に異物が入ったような違和感を常に訴えている。
これを右眼にぶち込まれた当初は、あまりの激痛に昼夜問わず泣き叫んだものだが、やがてこの程度に落ち着いた。
腐敗の魔眼。
どこぞの誰かから移植されたこの眼は、使用する度に右眼が酷く痛む。
右眼の眼球から伸びる神経を伝って、全身が腐り落ちるように蝕まれていくのが分かる。
「多分、あと少しだから」
末期の病人は自分の死期を悟るらしい。
今の俺も、似たような状況なのだろう。
何となく、理解できるんだ。
あと二度か三度、腐敗の魔眼を使えば俺は死ぬだろう。
体に適合しない魔眼を無理に使ったフィードバックか、そもそもこの魔眼はそういうものなのか。
仔細は把握しようもないが、不思議と直感できる。
自分の体内に集積した澱のような何か。
それが容量を超えて爆発するまで、あと幾ばくの猶予も無い。
あと少しで死ねる。
アルカナンにいる以上、魔眼を使わざるを得ない状況は訪れるだろう。
俺はただ、その時を待てば良い。
高所から飛び降りる勇気なんて無くても、待つだけで俺は死ねる。
もう、良いじゃないか。
「ねえ、ツウィグ。私ね、今日、ロウリに助けてもらったよ」
「さっきも聞いた。何回するんだよ、その話」
「こんなこと初めてでしょ。私達が誰かに助けてもらえるなんて」
「ただの偶然だろ。マルクさんは元々嫌われてたし」
アルカナンでは身内殺しも珍しくない。
今回はそれが偶々ルーアを助けるように働いただけ。
この街で繰り返される暴力の連鎖が無くなったわけじゃない。
「ツウィグはさ、思わないの?」
だから、やめてくれ。
希望を持たせるようなことを言うのはやめてくれ。
もう、あと少しなんだ。
あと少しで終われるから。
だから――――
「ロウリなら、私達のこと――――」
「ルーア!」
叫んだ。
頭の中に浮かんだ、彼女の顔を掻き消すように。
もう良い。もうここで死ねば良いと決めたはずなんだ。
何も望まず、何にも期待せず、ただ死を待つのが一番幸せだって、俺にはちゃんと分かっている。
生きたいなんて願うから、死ぬのが怖くなってしまうんだ。
自分一人で生き抜く力も無いくせに、人生なんて願うものじゃない。
これ以上、苦しいだけの人生にしがみつきたくないんだよ。
「もう、やめてくれ……」
そして、俺は考えるのをやめた。
ロウリ・ゴートウィストなんて人間のことは、頭から消し去ってしまった。
だって、彼女のことを考えていると、自分で決めたはずのことが揺らいでしまうから。
俺の中にいる馬鹿な俺が顔を出して、傲慢にも囁き出すから。
守ってほしい、助けてほしい、救ってほしい。
そんな、叶うはずのない願いを口にしてしまうから。
これ以上惨めにならないように、彼女のことは脳味噌から追い出したのだ。
***
嫌いだ。
どいつもこいつも、大っ嫌いだ。
――――なー、ボス。これ意味あんの? つまんねーんだけど
俺は滅多打ちにする竜人が嫌いだ。
ゴミみたいに蹴っ飛ばしやがって。
何度も、何度も、何度も。
殴って、蹴って、殴って、蹴っての繰り返し。
こんなにも痛いのに、こんなにも苦しいのに、こいつは何度も俺を打ちのめす。
――――魔眼の成長には実戦が必須だからね。実戦に出すには最低限の生存能力が要るだろ? シャルナの攻撃に目を慣らせておけば、大抵のことは目で追えるだろう。体が追いつくかは別だけどね。まあ、視線が追いつけばどうにか対応できるってのが魔眼の良い所だ。肉体制御についても、殴られ慣れればそれなりになるだろうさ。何、死んだら死んだで仕方ない。遺体から魔眼だけ回収して、次のツウィグを探せば良い
俺の髪を掴んで引っ張る呪術師が嫌いだ。
小枝なんて名前を付けやがって。
俺なんて末端の末端、使い捨ての枝先に過ぎないとでも言いたいんだろうか。
俺には■■■■って名前があるのに。
あったはずなのに。
思い出せなくなるくらい殴られて、叩きのめされて、もう少しも分かりやしない。
――――ほら、立て。立てないと言うなら殺してやる
クソだ。あれもこれも、全部クソだ。
パン屋の店主。
俺がパン一つ盗んだだけで、骨が折れるまで棒で打たれた。
俺をいくら殴っても腹の中に消えたパンは戻ってこないってのに、よくもまあ、あそこまで必死に殴れるもんだ。
歓楽街の商売女。
道端に蹲る俺をゴミみたいな目で見やがった。
汚物を見るような目で見下ろすな。汚れているのはお前達だって同じだろう。同じ穴の貉が見下してんじゃねぇ。
路地裏の孤児共。
大人に盗みがバレて折檻される俺を笑ってやがった。
そんなに人の不幸が面白いのかよ。ヘマした同業者を陰から眺めていたって、腹は少しも膨れないって知らないのか。
――――殺すなよ、シャルナ
――――へいへーい
一番嫌いなのは、俺を生んだ上に捨てた両親だ。
あいつらが、あいつらさえいなければ、俺はこんな世界に生まれなくて良かったのに。
どうして、こんなクソみたいな世界に産み落としたんだ。
生きたくなんてなかった。俺は生まれたいなんて願ってない。そんなこと誰にも頼んでないってのに。
ふざけんなよ、クソ。
なんだよ。なんでだよ。
小さい頃はあんなに優しかったのに。
どうして、爪先から頭の天辺までクソじゃないんだ。
どうして俺の頭の中には、微笑みかけてくれたアンタの顔が残ってるんだよ、母さん。
全部が全部ゴミだったら、俺は簡単に死ねたかもしれないのに。
ふざけんな。ふざけんなよ。
もう、生きる希望なんて持ちたくないんだ。
この世界が、全部嫌いなんだ。
嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。
アルカナンも、ソルノットも、子供も、大人も、男も、女も、全部嫌いなんだ。
俺は、もう――――
「ツウィグ?」
隣には、美しい顔があった。
整った目鼻立ち。透き通った灰色の瞳。微かに赤を帯びた黒髪が、夜風に揺られて靡いている。
まるで、彼岸花のようだと思った。
花のように美しいのに、濃密な死の気配を纏っている。
「ああ……そういや、ルーアは?」
「あっちで倒れてる。飲みすぎだよね」
「酒飲んだのか……」
「一応十八らしいし。麻薬よりは良いんじゃない?」
不意に、思い出す。
そうだ。俺はロウリに誘われて、ルーアと共に食事に来ていたんだ。
この街にしては綺麗なレストランのテラス席。
ロウリに連れて来られたこの店。出された料理はどれも目玉が出るほど美味しくて、テラス席からは一応夜景のようなものが見える。
ソルノットという土地自体が小汚い上に、ついこの前の戦禍で街はボロボロだ。
見渡しても、そんなに面白いものじゃない。
ただ、街に明かりが無い分、見上げる夜空の美しさは際立っている。
見上げる星空の美しさだけは、この街で唯一確かな煌めきだ。
俺達は肩くらいの高さの塀にもたれかかって、星明りに照らされた街を眺めていた。
「ねえ、ツウィグ」
隣、ロウリが言った。
だらりと塀にもたれかかったロウリは、塀の外側に両手を垂らして、寝かせた顔でこちらを見上げている。
その灰色の視線がどこかくすぐったくて、俺は思わず目を逸らした。
「明日死んじゃうとしたら、どうする?」
そんなの決まってる。
答えは無しだ。どうもしない。
明日死ねるなんて素晴らしい話があるのなら、それ以上の何かなんて望まない。
強いて言うなら、このゴミみたいな人生の終わりに祝杯を上げるだろう。
「俺は……」
答えは出ているはずなのに、喉につっかえて出て来ない。
脳味噌で弾き出した答えを、肉体が拒絶してるみたいに。
声が震えて言葉にならない。
「俺、は……」
死にたい。
早く、この最悪な人生を終わらせたいと思って生きてきたはずだ。
この世界に俺の好きなものなんて一つも無くて、目に映るものが全部嫌いで。
嫌いなものばかりの世界から、早く抜け出したいと思っていたはずなのに。
どうしてか、あの日の記憶ばかりが頭にフラッシュバックする。
あの日、犯罪組織の戦闘員に追い回されて、南東部近くの倉庫にまで追い詰められて。
そして、ロウリ・ゴートウィストに助けられた時の記憶。
怪我した俺を軽々と、けれど優しく抱き上げた彼女の体温だけが、ずっと脳裏に焼き付いているんだ。
「俺は――――」
あの日、俺は初めて人に助けられた。
不意に現れたアンタは、追手をものの数分で叩きのめし、倉庫の隅で蹲っていた俺を抱え上げた。
何かの荷物みたいに抱えられた俺は、アンタに運ばれて。
アンタは何も考えていないようで、それでいて、俺の馬鹿な頭では想像も及ばないことを考えているようで。
ただ当然のように、透徹な灰色の瞳をしたまま、俺を助けたのだ。
それは俺には到底理解の及ばない思考回路で、見返りも無く人を助ける意味が分からなくて、ただただ俺には何も分からなくて。
人肌の温かさだけが、確かだった。
もしも、このまま誰も現れなくて、俺はアンタに連れ去られて、ここではないどこかへ行けたなら。
きっとそれは奇跡だ。
でも、アンタなら、そんな奇跡も起こしかねないと思ったのだ。
だって、アンタの考えていることはちっとも分からなくて、一から十まで理解不能で、俺にとっての未知だったから。
俺が知る世界の規格から、外れた場所にいる何かだったから。
俺の世界にはいない誰かだったから。
だから――――
「助けて、ほしい。また、あの時みたいに……」
俺は今際の際に、そんなことを願っていた。
もう一度。
あの時の温もりをもう一度。
そんな風に、願ってしまったのだ。
「そっか」
俺の答えを聞いて、ロウリは満足そうに笑った。
要領を得なかっただろう俺の答えに、この女は意味不明なくらい幸せそうな笑みを浮かべたのだ。
「じゃあ、逃げちゃおっか。ルーアも一緒にさ。三人で逃げよう」
正気か? 無理に決まってる。アルカナンから逃げられるはずがない。
頭には否定の言葉がいくつも浮かんだのに、我儘な声帯は従ってくれない。
こんな馬鹿げた話、あり得ないって否定したいのに。
「本当……?」
俺は泣き出しそうな顔で確かめていた。
本当に逃げられるのか。
この不幸で塗り潰された世界から、連れ出してくれるというのか。
まだ、期待しても良いんだろうか。
俺はこの場所から、いなくなっても良いんだろうか。
「うん、本当」
優しい声色に涙腺が緩む。
必死に留めていた感情が決壊しそうになる。
腐敗の魔眼には、涙を流す機能が備わっていない。
だから、くすんだ青色の左目にだけ雫を溜めて。
今まで食らってきた嫌悪と不幸を、涙と共に吐き出すように――――
「ロウリ、俺――――」
「逃げるって、どこに……?」
不意に響いた男の声。
瞬間、ロウリに強く抱き寄せられた。
俺を抱えると同時にロウリは背後を振り向き、背後の相手を睨み返す。
庇うような形で俺を抱いたロウリは、右手をかざして声の主を牽制しているようにも見えた。
「どこに、逃げるつもり……?」
遅れて、俺も理解する。
聞かれた。
こいつに、今の会話を。
その致命性を理解した途端、背筋を悪寒が撫でていく。
「レイ・ジェイド……!」
ロウリが苦々しく呼んだ、彼の名前。
音も無く俺達の後ろに立った青年が、色の無い瞳でこちらを見下ろしている。
漆を塗ったかの如き黒髪。病人じみた白い肌。男とは思えぬほど細い体つき。
夜の闇に溶けるようなその姿は、俺達を取り殺す幽霊に思えた。
「死にたい」は「助けてほしい」の類語なのです




