009 バスの中で
バスが走る。
「……緑が多いな」
ここは東京のど真ん中だ。だが、都会とは思えない景観が目の前に広がっている。
「それはそうよ。特区内は、開発制限がかかっているもの」
「開発制限か……」
日本中の富が、たった四つの特区に集まっている。
東京特区の場合、半径八キロメートルの円内と、湾岸の埋め立て地がそうだ。
総面積はおよそ200平方キロメートル。
東京23区の三分の一、もしくは横浜市の半分程度と考えれば分かりやすいだろうか。
その中に、10万人の男女が暮らしている。人口密度でいえば、スカスカだ。
「走っている車が少ないのは?」
「特区内で車が持てるのは、一種のステータスだもの。維持費がすごいし、無人タクシーを利用した方が便利だから、持っている人は少ないんじゃないかしら」
「ああ……そういうことか。オートメーション化、ここに極まれりだな」
特区外から一般車の乗り入れが禁止されている。商用車も、許可がおり難い。
そのかわり、地下に物資を運ぶコンベアが走っているし、完全に機械化された無人タクシーを利用すれば、かなり安く移動できる。
自家用車を持つ意味があまりないのだ。
無人タクシーは、幹線道路しか移動できないが、区画整理された町中を走る分にはまったく問題がない。
事実、あれだけの豪邸に住む自分の家にも、車はなかった。
「買い物した荷物だって、家に帰る前には届いているしね」
なるほどと、俺は頷いた。
買い物した店で、自動配送を選べばいい。
地下のベルトコンベアを使い、家のすぐ近くまで自動で届けられる。
荷物を送るときに使用したスマートフォンがあれば、簡単にロックが解除でき、荷物を取り出せる。
すべて無人だ。
人が少なくても、機械化を推し進めることによって、ここでは快適な暮らしができるようになっているのだ。
「そういえば、お別れ会……悪かったな」
真琴との記憶を探っているときに気づいたが、春休みの間に三人はお別れ会を企画してくれていた。
もちろんこの身体の持ち主はそんな気分ではなく、足繁く祠に通い、一心不乱に祈っていたわけだが。
「ううん。大変だと思っていたし、いいの」
何度か電話とメールをくれたが、出ることはなかった。
「しばらく思いつめててさ……だから今度、どこか行こうか?」
「えっ? いっ、いいの?」
できるだけ自然に言ってみたが、真琴の食いつきは予想以上だった。
こっちをマジマジと見ている。
「よ、四人でどこか行くってのは、どうかな」
あまりの食いつきぶりに、思わずキョドってしまった。
「うん! リエと裕子も喜ぶと思う! 行きましょう! うん、うん!」
テンションがあがった真琴を羨ましそうに見つめる他の乗客。
特区内の住人は、男性に対して謙虚であるべきという教育が徹底されている。
男性からの通報ひとつで特区から退去もありえるのだから、必要以上に臆病になっている部分もある。
だれだって一時の気の迷いで、この特権的な生活を手放したくないだろう。
だからこそバスの乗客たちは、男子から誘われた真琴を羨ましく思うのだ。
これが社会のゆがんだ部分。男性が極端に少ないゆえの弊害だ。
バスはゆっくりと進み、伊月高校の前まで来た。
俺は降車ボタンを押してバスを下りた。真琴もついてくる。
一緒に下りるということは、この先に真琴の通う高校はないことになる。
「真琴の学校って、どっちだっけ?」
「えっと……こっちかな」
「いま来た方じゃんか」
反対方向を指す真琴に俺は呆れてしまった。
「大丈夫。そんなに時間かからないから」
朝から俺を待っていたことで分かっていたが、かなり心配させていたようだ。
「それじゃ、私は行くけど……また連絡ちょうだいね。絶対だよ」
「うん、分かった。一緒に出かけるんだものな。必ず連絡するよ」
そう言うと真琴は、テレながら喜ぶという、奇妙な表情を浮かべた。
「真琴、ここまでありがとう。入学式に遅れないようにな」
「心配してくれてありがとう。けど、大丈夫よ。まだ間に合うから」
真琴は道路の反対側へ渡ろうとする。
反対車線のバスに乗るのだろう。
俺はここで、女神の言葉を思い出した。
『手を振ってあげれば、それだけで女性は喜ぶんですよ』そう女神は言っていた。
真琴は今日、自分の入学式より、俺の様子を見ることを優先してくれた。
これから急いで自分の高校に向かうのだろう。
真琴にいま、この感謝の気持ちを伝えたい。
そのためにささやかなイタズラくらい、してもいいんじゃなかろうか。
いや、これはお返しだ。わざわざここまで来てくれたお返し。
そう、お返し。
「真琴。ちょっと、こっちへ」
「えっ? なに?」
俺は道路を渡ろうとする真琴に手招きした。
首を傾げながらやってきた彼女の腰に手を添える。
それだけでなく、力を込めてこちらへ引き寄せ、耳元で囁いた。
「真琴、今日は本当にありがとうな」
「ふえっ!?」
身体が硬直したのが分かった。
俺はひとつ笑うと、彼女の背中を押し出した。
「じゃあな。バスが見えたぞ。乗り遅れるなよ」
「…………」
真琴はギクシャクと向きを変え、ロボットのように歩き出した。
右手と右足が同時に動いているのは、ご愛敬だろう。
道を渡り終えた真琴がこっちを見て、口をパクパクさせている。
俺は笑って手を振ったところで、バスが到着した。
「……さて、行きますか」
これから入学式だ。
これから俺のモテ人生がはじまる……ような気がする。




