042 女神の昔話
四月の下旬。
高校に通いはじめて、三週間が経った。
順調に過ごせている……と言いたいところだが、ここでひとつ、問題が発生した。
「……授業が分からない」
この身体のスペックはすこぶる高いようで、中学までの知識はしっかりと頭に入っている。
つまり、本来なら学業に後れを取ることはないのだが、現実は違う。
「いくらいいクルマでも、運転するのがへっぽこだと、ダメなんだろうなあ」
「宗谷くん、どうしたの?」
隣の席の淳が、声をかけてくれるが、それどころではない。
教師が何を言っているのか、チンプンカンプンなのだ。
最初のところでつまずいている間に、いま何をやっているのか分からなくなってしまった。
「なあ、淳。速度と加速度の違いってなんだ?」
いまは、理科の物理分野を習っていて、その根本のところで悩んでしまった。
「距離を時間で割ったものが速度で、距離を時間の自乗で割ったものが加速度だよ」
俺のつぶやきに、隣の席の淳が律儀に教えてくれる。
「そうか、ありがとよ」
「どういたしまして。もし、分からないことがあったら、僕に聞いていいからね」
この三週間で、ずいぶんと淳に懐かれた気がする。
それはいいのだが、結局、速度と加速度の違いってなんだ? いまの説明でもよく分からない。
小学生のとき、分数の割り算で引っかかったのと、同じ匂いがする。
2を1/3で割ったら、なぜか6になるのだ。
なぜ1/3で割ると、もとの数より大きくなるのか。結局、分からなかった。
あのときは、恐ろしいものの片鱗を味わった。
教師に聞くと、「逆数にして掛け算にしろ」と言われたが、俺が知りたいのはそういうことではなかった。
「あれか、これが有名な『考えたら負け』というやつか」
結局、速度と加速度の本質的な部分が理解できないまま、授業は終わった。
『……それで、授業の愚痴を言いにきたわけですか? あっ、このいちご大福おいしいですよ』
「そうだろう。コンビニで税込み220円だったしな。オイ茶とコラ茶のどっち飲む?」
『そうですね、ではオイ茶にします』
俺は女神に、『オイ、お茶って言ってんだろ!』のペットボトルを渡した。
前回、女神にフルーツを所望されたが、コンビニに生の果物は売ってなかった。
いろいろ考えた結果、「果物っぽいのが入ってりゃ、いいだろ」と思って、いちご大福を買ってきたのだが、それで問題なかったらしい。
「愚痴っていうか、俺だとこの身体のスペックを存分に発揮できない気がしてさ」
せっかくの頭脳を持っているのに、考えているのが俺じゃ、宝の持ち腐れではなかろうか。
『あまり気にしなくていいと思いますけどね。もっと大雑把な性格かと思いましたけど、意外と小さなところに拘るタイプなんですね』
「勉強ができないやつなんか、みんなそうだぞ。関係ないところで引っかかるんだよ」
学校の勉強なんて、疑問を持たない方がうまくいくんだ。
『分かっているなら、気にしなければいいのに』
「そうなんだけどな……それで、今日ここにきた理由なんだが」
『愚痴を言いに来たのではないのですか?』
「違うわ! ……まあ、それもあったんだけど」
『では、何か悩みがあるわけですね。いいでしょう。わたしがどーんと答えますよ』
女神はなぜか、シャドーボクシングのマネをはじめた。
「このまえ、高校の班員と出かけてな。そのとき、ちょっと嫌な目にあったんだけど……それはまあ、おいといて。なんていうか、やっぱり女性って、男性に対して我慢してると思うんだ」
『そうですね。仕方ない面もありますが、概ねみなさん、かなりの精神力で、我慢を強いられていると思います』
「なんて言うのかな、せめて俺が関わった女性たちだけでも幸せになってもらいたいし、そのための努力もするつもりなんだ」
『いいことだと思いますよ』
「だけど、気がついたんだ。もしかして俺、根本的なところが、理解できていないんじゃないかって」
理科の授業と同じだ。
「この社会はこういうものだ」と納得すれば、疑問を持たず、その中で生きていける。
だが理科の授業で習った加速度のように、小さなことにこだわると、それ以上先に進めない。
いまの俺は、この社会の何に対してつまずいているのか、それすら分かっていない状況ではなかろうか。
そんな気がする。
『根本的なところですか?』
「俺の持ってる常識は、この世界の常識じゃない。だから違和感があるし、社会が歪んでいるのも理解できる。女性が我慢しているのも当然だなんて、考えちゃいない。だけどなぜこの社会ができあがったのか、その変遷が分かってない。だから『この世界の一般的な思考』が、根本的に理解できてないんじゃないかって、思えてきたんだ」
そもそもこの世界の女性や男性は、どういった歴史を刻んできたのだろうか。
そこが重要な気がしてきたのだ。
『ところ変われば、常識も変わりますからねえ……そうですね、ではわたしが知っているこの国の男女の歴史なんか、少し話してみましょうか。あくまで超簡単にですけど』
「その言葉が聞きたかった!」
『わたしが生まれた頃は、ひどい飢饉だったとは、以前話したと思います。その頃の男性は、いまよりずっと悲惨な生活を強いられていまして、武力のある女性たちの総取りという時代でした。男性を求めて戦争を起こすほどではありませんでしたが、戦利品の重要なひとつではあったのです』
「まあ、そういう時代があったのは、想像できるかな」
『武力で奪ったものは、より強い武力によって奪われるのが常です。男性解放をお題目にすると、簡単に兵が集まりますからね。大昔の男性は、搾取と解放の繰り返しと言っていいでしょう。そんな中で、わりと長く政権を握った勢力があったわけです。いま日本で華族と呼ばれている家がそうです。うまく民衆を操り、権力を握ったあとでも、民衆に富を分配したことで、生きながらえたと言えます』
「その富の中には、男性も含まれるのか?」
『もちろんです。近代まではうまく統治できていたのですが、天変地異はいかんともしがたいわけです』
女神はお天道様を指さした。
「男性がより産まれなくなったのか」
数十人に一人か、百数十人に一人ならばうまくいっていた社会も、数百人に一人や、いまのように千人に一人なんてなってしまったら、武力による男性の奪い合いがおきる。女神は頷いた。
『そこで華族は権力を放棄しました。潔いですね。この国の支配を諦め、議会制による共同統治に切り替えたのです。およそ四十年で男性の出生率は戻りはじめましたが、その頃にはもう新しい支配体制が確立していたわけです』
「もしかしてそれが、いまの社会?」
『そうです。ですからいま日本を支配している人たちは、政権が転覆するのを恐れているのです』
これまで、日本の歴史は、武力によって塗り替えられてきた。唯一の例外が、華族による権力の放棄だろう。
なぜ華族は権力を放棄したのか。男性の出生率が極端に下がったからだ。
「いまと同じ……」
『これが最初の質問の答えです。女性が謙虚になるよう、男性に対して我慢を強いるよう、国は全力で教育を施してきたのです。来る日のために』
すべては、現政権に対して叛旗を翻させないため。
そのための常識を何年もかけて植え込んできたのだろうと、女神は言った。




