第9話 帰還
「わかったから、もう消えてくれ」
苦々し顔で、平山は呟いた。
「そうか、じゃあまたね」
笑顔で手を振りながら、島津は消えてゆく。彼の存在が透明なものとなり、やがて完全にその痕跡を絶った。
島津がいた場所を、恨めしげに平山は睨む。現実の世界でも、これほど腹立たしいことはなかった。全てが自由になるこの世界だからこそ、余計に腹が立っていた。
すると、世界が揺らぎはじめる。アラビア風の城が、色を失ってゆく。
しまった、と平山は焦っていた。
それは現実世界へと戻される兆しだった。
平山は手を眺める。これがこの夢の世界を長持ちさせる最も手軽な手段であった。それは、島津が教えてくれた方法でもある。
しかし、平山の手はもう見えないくらい存在が薄くなっている。
周囲の風景も消えてゆく。
視界は完全な白色で覆われる。太陽の中に入り込んだような、まぶしい白色だった。
次の瞬間、平山は目を覚ましていた。現実世界の自分の部屋に戻っている。枕元にあるデジタル時計を確認すると、不吉にも4:44を示していた。
夢の世界は、毎度時間感覚が異なっている。数日間滞在したときでも、実世界では3時間ほどのときもあれば、今回のようにせいぜい1時間ほどの滞在であるのに、4〜5時間が経過しているケースもある。
もう、今夜は無理のようだ。調子の良い日は一晩に2回3回と離脱することができたが、今日は既にモチベーションが下がってしまっている。全てあの島津のせいだった。
なぜ、あんな鼻持ちならない嫌味な男が、自分のガイドなのだろう。
思い出すだけで、また平山は腹を立てていた。
そんな不快な思いをするのだが、平山は体外離脱という行為が辞められない。これほどの娯楽はなかった。全てが思うがままの世界。
会社帰りに歩き体を疲れさせる理由は、体を眠り易くするため。寝る前にコーヒーを何杯も飲むのは、カフェインにより頭だけを覚醒させておくため。体は眠り、頭は起きている状況。それが夢の世界へゆくための絶対条件であった。一般にこの状況は、金縛りという言葉で表現される。しかし一部の人々は、そのときに肉体から抜け出すという行為を経て、夢の世界へと旅立つことができる。平山は比較的抜け出易い体質のようだった。
彼はまた明日も、同じ準備を経て、夢の世界へと旅立つこととなる。
それが、彼の生きがいであり、唯一の楽しみとなっている。