第33話:折れた論理、あるいは優しき死刑宣告
『致命的なエラー。システム復旧不可。全権限を凍結します』
無機質なアナウンスが響き、空中に浮かんでいた最後の魔法陣がパチンと弾け飛んだ。
執務室に残されたのは、予備の魔石ランプの頼りない光と、焦げ臭い魔力ショートの匂いだけ。
「……嘘、だろ」
アレンの口から、乾いた声が漏れた。
彼が血を吐くような努力で構築してきたインフラの論理。あらゆる理不尽を跳ね返すための最強の盾が、得体の知れない悪意の前に完全に沈黙したのだ。
「ひゃはははっ! 見ろミラン、この生意気なガキの無様な顔を!」
「ええ、本当にいい気味だわ! これでこの村の金は全部私たちのものね!」
両親の下劣な嘲笑が、アレンの鼓膜を容赦なく叩く。
「さて、アレン殿。お前の無能さにより自治区は崩壊した。このままでは村人たちも路頭に迷うだろうな」
王都の特使が、傲慢な笑みを浮かべながら一枚の羊皮紙をデスクに叩きつけた。
『バルツァー特別自治区 返還同意書』。
これにサインすれば、アレンが築き上げたすべてが王都の腐敗貴族と、あの両親の手に渡る。
「……誰が、こんなものに……」
アレンが血に染まった指で特使を睨みつけた、その時だった。
「待ってください……! お願いです、特使様、お兄様をこれ以上いじめないで!」
マリアが、震える両腕を広げてアレンを庇うように前に出た。その瞳からは、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちている。
「マリア……お前、下がるんだ」
「嫌です! お兄様、もうやめて……! これ以上抵抗したら、特使様はお兄様だけでなく、エルナ様や村の人たちまで反逆罪で処刑してしまうわ!」
マリアの悲痛な叫びに、アレンは息を呑んだ。
振り返ると、部屋の隅でエルナが恐怖に震えながら泣きじゃくっている。
「私、ずっと見てきました。お兄様が誰よりもこの村のために、身を粉にして働いてきたこと。……でも、もう十分です。お兄様は、もう十分に戦いました……っ!」
マリアはアレンの胸にすがりつき、その傷だらけの手を両手で優しく包み込んだ。
「命さえあれば、やり直せます。だから……どうか、サインしてください。私の、たった一人の大好きなお兄様を、失いたくないの……!」
それは、究極の心理操作だった。
論理で反発しようとするアレンの心に、「責任感」と「家族からの無償の愛情」という名のウイルスを流し込み、戦う意志を根底から破壊する。
(――さあ、これでチェックメイトですわ。あなたのその高尚な『論理』は、妹の涙という『非論理』の前ではあまりにも無力。……早く、その手でご自身のすべてを壊して絶望なさい)
泣きじゃくるマリアの顔の裏側で、底知れぬ悪意が嗤っていた。
しかし、アレンの目に映るのは、自分の命を案じて涙を流す、健気で薄幸な実の妹の姿だけ。
――自分がここで意地を張れば、この妹も、無実のエルナも殺される。
「…………あ、あぁ……」
ポキリと。
アレンの中で、絶対に折れなかったはずの何かが、音を立てて砕け散った。
彼はゆっくりと、幽鬼のような動きで羽根ペンを手に取った。
インク壺にペン先を浸す。その赤いインクが、まるで自分自身の血のように見えた。
「お兄様……」
涙ぐむマリアに見守られながら、アレンのペン先が、同意書の署名欄へとゆっくりと下りていく。
すべてが終わる。築き上げた幸福のすべてが、今、完全なる理不尽の前に奪い去られようとしていた。




