境界線 1
客室の窓際には、湖が見えるように椅子が並んで置いてある。そこにノエルとリスベットは腰掛けて、酒を飲みながら話し込んでいた。
一方的にリスベットが自身の過去を追って話しているだけだったが、時々どうやって説明したらいいか分からなくなって口ごもると、ノエルから質問してくれたので助かった。
ノエルには、リスベットが転生者であることや、ダリが侯爵令嬢であること、先住民族についてなど、言ってはいけない細かい部分は省略して話してある。
転生の話などしても頭がおかしいと思われても仕方ないし、リスベットはともかく、ダリアが女性であることは口外無用なので言うつもりはない。先住民族の末裔達が魔術の素養があることも、あまり口外しないほうがいい気がしたので、黙っておくことにした。
反応が気になってちらりとノエルの顔を伺うと、ノエルは苦渋に満ちた表情でリスベットを見返した。
リスベットはドキリとして、何を言ったらいいか分からなくなってしまった。
「先輩は……大変な苦労をされたんですね。私は、何も知りませんでした。魔法使いが男女問わずに召集されることも、先輩がそんな辛い目にあっていたことも……」
「召集令状に関しては他言無用だし、私のことは言ってなかっただけ――」
だから気にすることない。そう言いたかったのに、最後まで言えなかった。リスベットはノエルに抱きしめられていた。
リスベットはあたふたした。突然のことで何をどうしていいのか分からなくて、ノエルの腕の中で硬直している。
「私も、戦時中は苦労しました。たくさんの仲間を失って、自分を見失って……孤独に押し潰されそうになりました」
リスベットはそれを聞いて、胸が苦しくなった。
ノエルは西部海岸の戦いで英雄と言われて大魔導士に抜擢された。それをリスベットは喜んでいたが、戦争で活躍したということは、たくさん敵を殺して味方も失ったに違いない。
「辛かったね……」
リスベットはノエルの背中に手を回した。ピクリとノエルの肩が震えたが、僅かにリスベットを抱きしめる力が強くなった。
リスベットはノエルの胸に頬を押し当てた。ドクンドクンと脈を打つ音が聞こえる。自身の心臓の音もノエルに伝わっていると思うと、恥ずかしかった。
「だけどそんな時、先輩のことを思い出したんです」
「……私?」
「先輩なら、こんな時どうするかって思ったら、このままじゃいけない。残った者のために戦おうと、気力が湧いてきました」
「知らぬ間に役立っていたんだね、私は」
ふっと笑うと、背中に回された手が更に強くなる。
「先輩が学園からいなくなった時、初めは何かの冗談だと思ったんです。でもそれが本当のことだと分かると、虚しくて寂しくて、二度と会えないと思うと苦しかった……だから、こうして再会出来て、本当に嬉しいんです」
「ごめんね……何も言わなくて」
「いいえ。……いいえ。先輩のほうが何倍も苦しかったでしょう。私は、こうしていられる今を幸せに思います」
リスベットは急に泣きたくなった。
ノエルの腕の中は心地良かった。温かくて逞しくて、守ってもらいたいと思わせる。
ラザフォード家から追い出されたことも、氷鬼山脈を必死の思いで登ったことも、戦争に投げ出されて何人もの命を奪ったことも、全て抱えて一人で生きていくと決めたから、自分に対して泣き言を言うのを許さなかった。
けれど、今だけでもいい。背負ったものを全て下ろして、ノエルに全てを委ねてしまいたくなる。悲しくて辛い記憶も、一人で生きる覚悟も、全部。
だけど、リスベットはやはり泣けなかった。ラザフォード家を出ると決めたあの日に全部出し切ったのだ。涙は流さない。
それは意地だった。一度決めたのだからやり遂げないと。三十路の女がこれから独身を貫くには、硬い覚悟が必要なのだ。
リスベットはノエルの背中をポンポンと叩いた。すると、ノエルはそっと腕を解くと、間近でリスベットを見下ろした。
月光に照らされたノエルの顔は壮絶に美しい。リスベットを見るその目が熱を帯びているように思えたが、アルコールのせいだと必死で言い聞かせた。
本当はもっと抱きしめていて欲しかった。このまま一緒にいたいなんて欲が、リスベットの中を駆け回る。
けれど、きっとこれはノエルの優しさなのだ。こうして心配して話を聞いてくれて、抱きしめてくれたのは、思いやりなのだ。自惚れてはいけない。甘えてはいけない。寄りかかってはノエルに迷惑だ。
その覚悟を見て取ったのか、ノエルはしばらくリスベットの瞳を覗き込んでいたが、何も言わずに離れていった。
「あの時は私は幼くて、何も出来ませんでした。でも、今は違います。この先何があっても、先輩は私が護ります」
護るだなんて、そんな風に言われてしまったら、固まった覚悟が崩れてしまいそうだ。
でも、だけど……やはりダメだ。
なんとか自分を律して、リスベットはにこりと微笑んだ。上手く笑えていただろうか。分からないけれど、ノエルもまた微笑み返した。
「ありがとう」
リスベットは立ち上がると、もう遅いから寝ようと切り出した。
「マルコの様子も心配だから」
「先輩……やっぱり、」
ノエルは立ち上がると、手を伸ばした。その手がリスベットの頬に添えられた。探るような目で真っすぐ見てくる。
リスベットには、その目が何を言いたいのか分からない。頬に添えられたその手は、どんな意味があるのか。
――期待してはいけない。
リスベットは自制をかけた。それが表情に出ていたのかもしれない。ノエルはそっと手を離した。
「明日、起こしてもらえますか?起きられる自信がないので……」
ノエルが引いたのを見て、リスベットはどうにか微笑んだ。
「分かった。起こしにくるね。じゃあ……おやすみなさい」
「おやすみなさい」
静かに客室を後にしたリスベットは、隣の自室へと戻ると、扉の前にずるずると座り込んだ。
あのまま引き寄せられて、もう一度抱きしめてくれたなら。――口付けてくれたなら。
そんな風に一瞬でも期待した自分がひどく弱くなったような気がして、目を閉じて胸に手を当てた。ドキドキと激しく鼓動が打っている。
硬い覚悟はどこへ行った?
一人で生きていくのではなかったの?
それでもあんな風に抱きしめられたら、期待しないでいられるだろうか。
だけど、ノエルからしたらきっと何でもないことだ。大魔導士であれだけ見目麗しいのだから、女性達が黙っているはずがない。自分なんかを相手にするはずがない。期待して後から失望するのは自分だ。
そう何度も自分に言い聞かせたが、抱きしめられた時のノエルの体温や匂い、感触等はついに消えてくれなかった。
ドキドキして胸が苦しくなった。ノエルのことばかり考えてしまう自分が嫌になる。
好きになんてなりたくなかった。こんな気持ち、この先持て余すだけだと分かっている。だけどもう好きになりかけている。止めようと思って止められるものでもないことを、リスベットは知っていた。
その夜、リスベットは眠れなかった。
隣でマルコがぐっすり眠っているのを、一晩中眺めて過ごした。
――翌朝。リスベットは顔を洗って着替えを済ませ、朝食の支度をした後、ノエルを起こしに行った。
ノックをすると、すでに着替えを済ませたノエルが出てきた。ノエルは笑顔で挨拶をした。リスベットもまた、何食わぬ顔で挨拶をする。
そして互いに昨夜のことは口にせずに、穏やかな一日が始まった。
邪竜が現れなかったと気付いたのは、ノエルが家を出た後だった。




