マイガール
《ハネ》はどうやら広い範囲には飛び散っていないらしい。微妙ながらに《ハネ》の感覚があちこちで感じ取れる。だけど、《ハネ》があちこち移動しているから、きっと誰かが持っているはず。早くしないと遠くまで行ってしまうかもしれない。
綾は少し焦っていた。直輝と別れた翌日、町中で人ごみに紛れてただひたすら歩いていた。
あのとき、まだ一日経っていないのに、どうして彼女は素直に体を返してくれたのだろうと思いながら人ごみをかき分けながら歩く。高木と直面した少し後に、束縛から解放されたように体が自由に動かせた。
結局、彼女は後藤と逢って何がしたかったのだろう。
こうやって頭の中で問いかけても、何も返ってこなかった。もう私の中に彼女はいなくなったのだろうか。もしそうだったら、混乱することもないし、清々する。今は《ハネ》を取り戻すことだけに集中したい。
病院から出て最初に思ったことは、人が尋常なほど多く、空気が薄くて汚くて、道端には見慣れない物が捨てられていて、とても環境が悪くて吐き気があった。高い建物が建ち並ぶここら一帯には、動物や昆虫一匹すら見かけられなかった。いや、厳密に言えばいたと言えばいた。首輪にリードをつながれたイヌは見かけたが、それはあくまで人間の所有物として見ていたので、動物とは言いづらかった。
見渡せば人の大群衆。見上げれば高層ビルに囲まれた青空。見下ろせば人が散らかしたゴミ。
これが人間の姿だと思うと、なんだか背筋がぞくぞくした。あの後藤の内にもこんな風になっているんだろう。
ビルとビルの間にある細い道にふと目を向けると、そこには壁に寄りかかるオールバックした金髪の青年が居た。向こうがこちらに気づいたが、とくに誘う身振りもみせず、ただじっと空を見つめていた。
辻本は薄暗くて人気がほとんどない細道へ脚を運んだ。高木から十分距離をとると、そのまま突っ立った。
「こんなに早くまた会えるなんて、これも神様のいたずらだろうよ?」
そう言うと、高木は見上げるのを止めて辻本の方へ体を向けた。
「圧巻されるだろ? 俺たちの住む世界とは断然違う。人の数も、物の数も、桁違いだ。でも、人間のやることの全ては様々な動物に害を与えてしまう。もちろん人間自身にも。自業自得なのにやめようとは思わない生きもんだよ。俺が《トリ》として生まれてきて、本当によかったと思ってる」
「だったらなんでずっとここに住んでいるの?」
辻本がずっと疑問に思ってきたことだった。高木は幼い頃から《トリ界》で一緒に過ごした一人だ。しかし、高木が辻本に恋するようになったある日のこと、突然、理由もなく《トリ界》から抜け出し、ここに移り住んでいる。何かしら罪を犯してここに送りつけるならまだしも、「人間の世界には行ってはいけない」と《トリ界》で言われているのにも関わらず、単身乗り込むなんて馬鹿だとしか言いようがない。
高木はふっと笑みがこぼれた。
「さあね。《トリ界》が平和になりすぎて、退屈になったからかもな。ここも平和そのものなんだけど、どこか《トリ界》とは違う平和がある。まるで、おりに閉じ込められた動物が何も知らずに過ごしているような。そんな感じでよ」
「《トリ界》よりここのほうが気に入っているの?」
「まさか。マイガールも思ったはずだ。いいところじゃない」
高木はきっぱりと否定した。
「胸くそ悪くなる。それに、どうも理解できないんだよ」
「なにが?」
一緒に過ごした中で、まだ見たこともない真剣な目で辻本に言った。
「《トリ界》がこれからやろうとしていること」
理解できるでしょ、と言いたいところだったが、ずっと長くここで住んでいる高木がそう言うのだ。《トリ》はみな、人を嫌っている。辻本はもちろんのこと、高木も例外ではなかったはずだ。なのに、その高木が人間の元にやってきて疑問を持ち始めた。それは良いことなのか、悪いことなのか分からないけど、高木の顔からは《トリ界》に対しての不信感しか伝わってこなかった。
「なんであんたが知っているのよ」
「風が気まぐれに知らせてくれたのかもな。それより、《トリ界》のみんなになんとか言ってやってくれよ。お前だけしか頼めないんだ」
「あんたがどう言っても、私の気は変わらない。それに、たとえ気が変わったって、もう聞く耳を持たない《トリ》ばかりよ。こればかりはあきらめなさい」
高木は俯きながらため息を吐いたその次に、すっと顔を上げた。
「お前の《ハネ》は、人間の協力なしじゃ、きっと一生戻ってこないぜ」
高木の声が極端に冷たく、低くなった。
「どうしてそんなことが言える?」
「そればかりは自分で理由を見つけなきゃ。よーく考えることだな」
高木はズポンのポケットに手を突っ込み、歩き出した。辻本の傍を通り過ぎるのと同時に小さな声で何かを唱えた。すると、高い空から一羽の小鳥がやってきて、辻本の腕に停まった。くちばしには一輪の花がくわえられている。
辻本は小鳥から花を取ると、小鳥はピッピッと鳴いた。仕事を終えたことに自信を持ったのか、胸を張っていっぱいアピールしていた。
「幸運を祈ってるぜ、マイガール」
高木はそう言い残し、本通りへ去っていった。
幸運ね。それはひたすら待っていてもやってこない。行動しないと絶対に手にすることができない。だけど、ときには不運がやってくることもある。運というのはほんとに気まぐれだ。
腕に止まった小鳥はいつの間にか消えていた。自分に構ってくれなくて、しょうがなく飛んでしまったんだろう。《トリ》はここにいる鳥と会話ができるけど、わざわざ花を渡すために小鳥を使うなんて、もう少し華やかな演出とかできないのだろうか。いや、たとえ華やかだとしても、この花は最初っから高木の見えないところで捨てるつもりだ。
久々に会った高木は何だか変だった。いつもだったら朝から晩までうるさくつきまとうのに、潔く去っていった。昨日に続けて今日も。昨日、高木が去った後、後ろから尾行しているのではないかと気を配っていたが、結局は無駄に神経を張っただけで終わった。
私の知っている高木とは少し違うような気もしてきた。でも、相変わらず気障なのは変わりない。だから好きになれない。
辻本は道端に花を捨てようとしたが、それだと人間としていることと変わらないじゃないかと気づき、投げようとする腕を止めた。近くにゴミ箱がなかったから、仕方なく手にもって本通りへ出た。
高木はすでに見失い、通りには隙間もないような人の群衆でいっぱいだった。
赤い花はとても目立ち、歩く人々の視線を集めた。それでも辻本は気にせずにすたすたと歩き出した。予定の時間に遅れそうだったから足を速めた。
待ち合わせ場所の公園に着いたものの、見慣れた彼女の姿はまだなかった。手に握った花はとても繊細な花のようで、若干しおれつつあった。このまま持ち帰っても世話をするつもりはないから、ベンチの隣にあるゴミ箱に入れようとした。すると、どこからか一羽の鳥がベンチの背もたれの上に止まった。全体的にオリーブ色がかったこのキビタキは綾に目一杯翼を広げてみせていた。
「わざわざ鳥の姿で現れることもないでしょ?」
キビタキは首を横に振った。
「まぁ、いいわ。とりあえず、人間に怪しまれないように、まずは止めないとね」
指笛を鳴らし、周りの人や物を止めた。
ごく普通に考えてみると、この世界では人間が鳥に向かって淡々と、それも真剣に話すところを他の人が見たら、絶対に怪しまれる。このキビタキが人の姿であれば、こんな手間を省けるのに、と心底思った。
辻本はベンチに座り、赤い花を膝の上に乗せた。
「ところで、あなたにお願いしたいことがあるんだけど」
キビタキは首を傾げながら辻本の顔をじっと見た。
「後藤直輝っていう人を尾行――いや、監視してほしいんだけど、できるかしら?」
キビタキは片方の翼でぽんと胸を叩き、任せなさい、と言っているように見えた。そして、真っ赤な花の存在に気づき、その花はどうしたの、と尋ねるように首を傾げながら花をじっと見た。
「あぁ、この花は高木からの贈り物。ねぇ、聞いてよ。あの高木が追っかけをしないのよ。それにどういうわけか、もう《トリ界》がやろうとしていることを知っているし」
キビタキは両方の翼で自分の胸を指した。どうやらキビタキが高木に教えたらしい。
「え、あなたが? なるほど、納得した。高木はなんだかそれが気に入らないみたいで、単独でわたしにお願いしてきたのよ。笑えるでしょ? わたし一人で動かせるような力は持っていないのに。それに、もう完全に採決されたし――たとえ力があったとしても――もう覆すことなんてできない」
キビタキは傍に寄り、辻本の手の指を甘噛みした。
「その優しさは嬉しいよ。でも、事実だし、どうしようもない」
キビタキがゆっくりと翼を上下に振るのを見て、そろそろ出発したいのだと分かった辻本は、再び指笛を鳴らし、辺りを元通りにした。キビタキはためらいもせず空高く舞い上がり、遠くへ行った。
辻本はキビタキを見届け終えると、さっそく高木の言っていたことを頭の中で復唱しながら考えた。
お前の《ハネ》は、人間の協力なしじゃ、きっと一生戻ってこないぜ。
人間は《ハネ》の存在はおろか、《トリ》の存在さえ知らない。それに、《ハネ》の探知ができない人間に、いったい何ができるというのか。精霊を呼び出せるわけでもない。自由に行き来できる、壁のない空へ自力で飛べるわけでもない。それなのに、今のわたしにはそんな貧弱な人間の力がないと、何もできないというのか。それとも、わたしは人間以下の力しか持っていないというのか。
無意識にイライラしている愚かな自分に気づき、一息深く吐いて心を落ち着かせた。
高木の口調からはふざけたようなことを言っていないし、まじめにわたしのために言ったんだ。わざわざ、わたしが人間以下だとか、人間がいないと何もできないとか言ったところで、いったい何になる? 何のためになる?
言葉の意味を考えるのは止めて、今度はその言葉を言った理由を考えてみることに専念してみる。
高木は長い間、人間の世界で住んでいた。だからよく人間のことを知っている。でも、《トリ》にとって心地よくないし、ときに人は《トリ》だけでなく動物まで危害を与えてしまう。そんな危ない生き物なのに、なぜあんなふうにはっきりと言い切ったのか。他の《トリ》に任せるような安心感がないと、あんな言葉は出てこないはずだ。安心感――。
今まで、高木に安心感を与えるように”誤解”させるような人間がいたのだろうか。もしいたのなら、親切に教えてくれたっていいじゃない。
お前の《ハネ》は、人間の協力なしじゃ、きっと一生戻ってこないぜ。
もう一回頭の中で復唱して、辻本はハッと気づいた。高木の言う人間とは、もしかして後藤のことだろうか。
病院から二人して出てきた様を見て、なにか確信を得たのだろうか。それとも、後藤が《トリ》と同等の力を発揮し、わたしを護ってくれると期待しているからなのか。
高木の台詞を少しいじって、口に出して言ってみた。
「わたしの《ハネ》は、後藤の協力なしじゃ、戻ってこない……」
口に出してみて後悔した。ばかばかしい。人間の世話になってたまるか。わたしの《ハネ》が自分で見つけ出してやる。
《ハネ》への執着心が深まった頃に、再びキビタキが現れた。
「どうしたの?」
辻本の肩に止まったキビタキにそう訊くと、キビタキはか細い鳴き声を発した。
「え? わたしと後藤に言いたいことがある? なんでまた――後藤の家に着いてから話すってどういうことよ。……ここじゃだめなのね、分かった」
他の人の目線に気遣いながら、綾もヒソヒソと小さな声で言った。
キビタキは膝に置かれた手の傍まで降り立ち、指を甘噛みした。そして逃げるように飛去っていった。
辻本もここに長居する必要もなくなり、ベンチから立ち上がった。その拍子に赤い花が地面に落ちた。
拾い上げてからじっと赤い花を見つめる。ちょうどいい。紙袋を返すついでに、この花も添えて贈ろう。せめてでも恩返ししないとね。
高層ビルに囲まれた広い公園は比較的に涼しいけれど、暑いのに変わりはなかった。