【1】怪我した女と羽根
夏が去り、涼しい秋がやってくるころだった。
午後十時ごろ。駅前にある閉店したレストランで、アルバイトやスタッフの人たちに給料が渡された。その中で一番年の若い青年は店長に「ありがとうございます」と言い、すぐに裏口の扉の方へ歩いた。
裏口の扉の前に立ち止まった青年は振り返り、店長に向けて一礼しながら精一杯声を出す。
「お疲れ様でした!」
「お疲れ。気をつけて帰れよ」
夕方から夜遅くまでバイトをしている青年はもう体力が限界まできていた。一歩店から出ると、少し涼しい風が顔に当たった。とても心地よい。しかし、にこにこと笑みを浮かべていた顔を崩し、いつもの真顔に戻した。
青年はもらった給料袋をバックから取り出し、じっと見る。そこには「後藤直輝」という青年の名前が書かれていた。直輝は中身の金額を確認する。給料は十万円ほどだ。直輝は一息はいた。
「あーあ。今日も疲れたなぁ……」
たくさんのお金が稼げるとは言え、それに見合う疲労が体に累積される。俺が担当する皿洗いや調理がうまく循環しなければ、腹を空かしたお客から苦情や文句がやってくる。このレストランで最初にした仕事は接客で、待っても待っても注文が来ないぞとお客からクレームがよくきたものだ。どの仕事もそうだけど、特にお客様扱いしなければいけないのがしんどい。でも、お金がもらえるのだから、俺の文句は言えない。
直輝は給料袋を肩掛けバックにしまい、ゆっくりと足を動かした。直輝から自宅までの道のりが徐々に縮まる。レストランからそう遠くないところに直輝が住んでいるマンションがある。電車やバスを使う必要はない。
直輝の他に道を歩く人々は全くいなかった。しかし、道路をすばやく横断する猫の影はうっすらとあった。うるさい車もあまり走っていない。直輝の歩く足音しか聞こえない。まるで音しか存在しない世界にいるようだった。
しばらくすると、直輝が住んでいる五階建てのマンションの面影が見え始めた。直輝はまた一息をついた。やっと、体を休めることができる。
直輝が安心していると、雨が前触れなく、突然一気に降り出した。
しかし疲労がたまっている直輝は、びしょ濡れにならないように走ることはせず、素直に折り畳み傘を差した。
明日も今日みたいに忙しいから、雨に濡れて風邪を引いてしまったら話にならない。そろそろ大学講義に出席しないと単位の取得が危うくなるから、風邪一つで簡単に欠席するわけにはいかない。
傘をさしたのと同時に、直輝は道路に誰かがいることに気がついた。電柱の明かりに照らされている誰かが横たわっている。
直輝は多少恐れを感じているように少しずつゆっくりと歩み寄る。そして気づいた。
横たわっていたのは、血まみれになっている女だった。ぴくりとも動かない女の腹部や頭から出血していた。
雨が強く降る。
直輝は傘を投げ捨て、必死になって叫んだ。
「おい!大丈夫か!しっかりしろ!」
直輝は女の近くまで寄ってしゃがんだ。体をゆするようなことはしなかった。もし打ち所が悪ければ、頭に刺激を与えるだけで悪化してしまうことがあるからだ。
女は直輝に気がついたのか、小さなうなり声を発した。
まだ意識はあるみたいだな……。
直輝は疲労がたまっていても、ただ一心に目の前に居る女を助けたかった。
直輝は周りの人に助けを求めようと周りを見渡すが、今は夜中だからか、近くには誰もいない。つまり、一人でこの女を助けなければいけない状況だ。
直輝は腕時計にいくつもあるボタンのうち、一つ押す。そして画面に現れた零から九までの数字キーを一、一、九の順にタッチ入力し、次にコールボタンをタッチした。すると、すぐさま男性の顔が画面に映し出された。
「一一九番。消防です。火事ですか?救急ですか?」
「救急です」
「救急車の向かう住所を教えてください」
直輝は消防署の人からの質問に冷静に答えた。住所、女の容体を正確に言うと、消防署の人が今直輝がやるべきことを言い、電話を切った。同時に消防署の人の顔はすぐさま消えた。
直輝が止血を施そうと、肩掛けバックからタオルを取り出したときだった。消防署から言われたとおり、タオルやその代わりとなる上着を準備していると、女が突然、ゆっくりと直輝の片方の頬を手でさわった。今にも閉じてしまいそうな目が、直輝の顔を捉えた。
女の手が少し温い。
直輝の動いていた腕が止まる。一瞬だけ間が空く。直輝ははっとして
「動くな。もうすぐ救急車が来る」
女は力尽きたように手を地面に滑り落ちた。女のまぶたが徐々に閉じていく。そして女はか細い声で言った。
「助けて……。私を……」
そして眠ったかのように目を閉じてしまった。
死んでしまったのか?
直輝は女の手首の脈を測る。まだ弱々しいが、脈はある。直輝は安堵の胸をなでおろしていたが、すぐに止血を施した。タオルで頭の、俺の上着で腹部の出血を抑えた。どちらかと言えば、出血がひどいのは頭の方で、腹部はかすり傷程度だった。
「もう少し。もう少しで救急車が来るからな」
おそらく意識はないと思われる女に安心させるように声をかける。
きっと大丈夫だ。この人は助かる。
声をかけ続けていると、真っ暗な空から一つの白い光が弱く照らしていた。
直輝はその白い光に気をとられていると、その白い光はゆっくりと直輝の元へ落ちてきた。両手を差し出し、その光を受け止める。
「暖かい。これは……羽根?」
ほんのりと白い光を放っているのは青い羽根だった。直輝の手のひらに乗ると、やがて光は消えた。そして暖かくなくなった。何なんだ、これは? ただの羽根じゃない……。
遠くの方から救急車のサイレンの音が聞こえ始める。
直輝は慌てて羽根をポケットにしまいこんだ。この不思議な羽根はまたあとで考えよう。
救急車が到着し、直輝は救助隊員に質問された。
「通報後、彼女に変わったような様子はありますか?」
「いえ、特にありませんでした。タオルとかを使って、止血を施していました」
変わったことと言えば、空から落ちてきた羽根のことぐらいか。
救助隊員はちらりと女を見た。女は他の救助隊員らによって、応急処置を施されていた。頭に損傷がある可能性があるため、頭を動かないよう固定されていた。
「直接圧迫止血法ですね。分かりました」
救助隊員らは、頭を固定された女を担架に運んだ。
直輝は通報者にして、後の事情がわかった人でもあるので、救急隊員らと一緒に同乗することになった。直輝は雨で濡れた頭を掻いた。助けたはいいけど、病院で待たされるのが嫌なんだよなぁ。
直輝は救助隊員らと女と一緒に救急車に乗り、病院へ向かった。走らせる救急車の中で、直輝は女を見下ろした。
女は耳が隠れるくらいのショートヘアで、こげ茶色のストレートな髪形をしていた。。体は小柄で身長が低い。
彼女の身にいったい何があったのだろうか。単なる自動車事故だと思うが……。
直輝は手で口元を隠しながら、大きくあくびした。