【7】手助けの要求 2/4
無断で入り込んだとはいえ、このまま立ち話をしてもらうのも疲れるだろうし、とりあえずイスに座らせて、霜月さんだけにお茶でも出しておくか。
「立ちながら話すのも疲れるだろうし、イスにでも座ってください。お茶出しますから」
「あ、大丈夫です。すぐ終わる話ですので、お構いなく……」
霜月は大きく深呼吸して心を落ち着かせた。手で顔を覆うのを止め、顔の赤みがだいぶ引いてきたようだ。
「分かりました。霜月さんの言う話とはいったい?」
「単刀直入に言いますと、ここの人間界に《トリ界》の脱走者が紛れてます」
《トリ界》の脱走者と聞いて後藤はいまいちピンとこなかったが、辻本は顔をしかめた。
「人間界? 脱走者? 一体どういう……」
「人間界、別名下界とも言いますけど、後藤さんたちが地上で暮らしている世界のことを指します。《トリ界》と対をなる世界とも言われています。《トリ界》についてはもうご存知ですか?」
「辻本から聞きました――痛いほど」
病院前での出来事や、ついさっき玄関で危うくかまいたちを食らいそうになった起こったことを思い返しながら言った。
霜月は少し首をかしげながら「そうですか?」と言い、今度は脱走者について語りだした。
「《トリ界》で一番でかい牢獄、ヘル牢獄から脱走しました。ヘル牢獄は凶悪犯を閉じ込めるようなところで、セキュリティは万全で力の強い人たちがちゃんと見張っていました。勿論、今まで脱走した例はなくて……。それなのに、脱走できた者が一人だけいるんです」
その脱走できたたった一人の人物が今逃走中というわけか。
「各地に派遣して捜索をすでに始まっているんですけど、五日経った今でもまだ発見してないです。このままだと、人間に被害を与えかねません」
霜月さんの簡単に理解できるような丁寧な説明のおかげで、自体があまり思わしくない方向へ流れているのだと分かった。その防犯が万全な牢獄から脱獄をやってのけた凶悪犯が俺たちのところに逃げ、人を狩りかけないということか。
「あと、偶然かもしれないですけど、綾がちょうどここに来るときに脱走したようで……綾はその日はなにもなかったんだよね?」
脱走者が辻本とほぼ同時に人間界にやってきたのは、偶然……なんだろうか。
「だから、私はなにも覚えてないんだってば」
うっとうしいなという顔をした辻本に対して、霜月はきょとんとした。聞き間違いかしらという感じの顔をしている。
「覚えてない?」
辻本はしまったという感じで頭に手を当てた。
「ま、まさか、綾……」
「そのまさかよ。春美の話を聞いて確信した。私、その脱走者に出くわして、記憶を消されたんだ、きっと」
そう言うと、霜月は慌てふためき、声が甲高くなった。
「だとしたら、《ハネ》が少なくなっている理由もその脱走者かもしれない。まずいよ、どうするの?」
「大丈夫。《ハネ》は、一点には集中してなくてそう広くない範囲で散らばっているみたいだから、脱走者の手元に《ハネ》はない」
「誰かが《ハネ》を奪って《ツバサ》に付けてしまったら、取り返すのが大変になるわよ!」
「あ、あのー」
二人の会話に呆然と立ち尽くす後藤は、手を挙げながら会話を制止し、気だるそうに割って入った。
「一体何の話をしているのか、さっぱりなんだけど……」
「あんたには関係のない話よ」
辻本は後藤に向かって言った。
霜月はため息をして辻本の傍まで近寄った。そして、両手で辻本の両手を包み込むように握った。完全に落ち着きを取り戻したらしく、辻本の目を見る目は真剣そのものだ。
「綾はそうやっていつも一人で解決しようとするから、上手くいけるのに失敗するのよ。一人で塞ぎ込まないで、私たちにできることがあれば、遠慮なく言って。ね? 後藤さん?」
「え、あ、まぁ……」
いきなり振ってきたので、後藤はイエスともノーとも言わず、曖昧に言った。
ここは無論、ノーと答えるべきなのに、霜月さんの優しげな、しかしどこか不安な気持ちが隠されているような、そんな笑みを見たら迷いが生じた。たとえ、辻本が俺だったとしても、あの笑みを見たら同じように迷うかもしれない。
戸惑い、深刻そうにうつむいている辻本に手を貸すかどうかは、まだここではっきりさせるべきじゃないと考え、後藤は二人にちゃんと伝えた。
「いや、内容次第だ。そもそも《トリ》じゃないからできることは少ないかもしれないけど、簡単な頼み事だったら頼まれてやってもいい」
もう《トリ》たちとの関わりを断つことはできないだろうと断念したが、今度こそ極力面倒ごとに巻き込まれないように努めることにした。とくに未知知れない《トリ》の力に関わるようなことに対しては。
霜月はそんな後藤の思いを知らずに、とても嬉しそうに、後藤に続けて満面の笑みで後押しした。
「ほら、ね? だからね、一緒にがんばろうよ」
握った手を小さく縦に振りながら辻本を励ました。
うつむいた辻本の表情は見えず、肩が小刻みに震えていた。笑っているのだろうか。怒っているのだろうか。泣いているのだろうか。それとも、悔しがっているのだろうか。霜月が辻本の顔を覗き込む。
「ごめん。気持ちは嬉しいけど、やっぱり一人で探す」
霜月がため息を吐いて、握った両手を放した。
重々しい雰囲気が漂い、辻本はその場に立っていられなくなったのか、足早と玄関の方に向かった。霜月は何か思い耽っているようで、去っていく辻本の背中を見つめることすらしなかった。後藤は仕方なく、辻本の後を追った。
「誠意を振り払うことなんてないだろう? 協力して探した方がいい」
「言ったでしょ、あんたには関係ないって」
「関係ないよ。それに俺だって関係を持ちたくないさ。でも、周りが勝手に関係を持たせるんだ。健おじさんとか、病院で会った気障野郎とか、霜月さんとか。こればかりは仕方ないと諦めるしかない」
「関係を持ったら、自らその関係を断ち切ることはできる。あらゆる手段を使ってね」
辻本は手の中で水の塊を使ってナイフを作った。そして水のナイフを持った腕を弧を描くように振る。切っ先が後藤の首もとに当たる直前で腕を止めた。後藤は血の気が引いたのを感じながらじっと動かないでいた。
「あんたには分かりっこないよ」
辻本はいたって冷静だったが、同情を誘うような声だった。
ナイフの形が崩れ、元の水の液体に戻って後藤の肩や床にバシャッと落ちた。なんだよ、気持ち悪い汗をかいちまったじゃないか。なにもそんなまねしなくてもよかったじゃないか。後藤は思わず尻餅をついた。
辻本は冷たい目線を送りつけたあと、そそくさと外へ出て行った。
背後から小走りでやってきた霜月は、座り込んでいる後藤を少し見下ろした。
「ごめんなさい、後藤さん。綾は、いつもああなんです。いつも一人で行動して、他の人の言うことなんて耳を貸さないんです」
「困った小鳥さんだよ、全く。霜月さんも霜月さんで、その話を個別に話せばよかったんじゃないか?」
「わたしはただ、後藤さんが綾を説得して、綾が協調性を持つことができるんじゃないかと思って……。本当にごめんなさい」
「いや、力になれなくてこっちこそごめんなさい」
「あの、不謹慎だと思いますが……これをどうぞ」
そう言って渡してきたのは、辻本に洋服を貸したときに渡した紙袋だった。まるで中身が無いようにへこんでいて、とても軽そうだった。
渋々受け取ると、案の定とても軽かった。中身はすっからかんだった。紙袋を返してもらっても、そんなもの返さなくてもいいのにと思うが、洋服まで返されると、きっとその紙袋ごと相手に押し付けるだろう。
そのままリビングへ持って行ってテーブルに置こうと歩き出したとき、霜月が後藤を制した。
「すみません、中、見てもらえますか?」
「え?」
後藤は立ち止まって紙袋を開いて中を覗いてみると、そこには一輪の赤い花があった。みずみずしくてまだ摘んだばかりの花に見えた。
「それはわたしからじゃなくて、綾からです。おそらく感謝のしるしとして花を添えたんだと思います」
あんな攻撃的な辻本が花を添えるなんてきっと罠に違いないと、そうっと紙袋から花を取り出して、色んな角度から見た。しかしいたって普通の花で、なにか仕掛けがあるわけでもないようだった。
「綾を助けてくれたのにお願いするのも厚かましいと思いますが、一つ頼み事してもいいでしょうか?」




